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第16話:氷の領地と、公爵の帰還
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王都を脱出してから十日が過ぎていました。
私たちの逃避行は、過酷という言葉では生温いものでした。 追っ手の目を欺くため、主要な街道は使えず、獣道のような山越えのルートを選ばざるを得ませんでした。 食料は森で調達した木の実や、川魚。 夜は洞窟や廃屋で身を寄せ合い、互いの体温だけを頼りに眠る日々。
かつて「国一番の淑女」と呼ばれた私が、今では泥と煤にまみれ、髪はボサボサ。 それでも、私の心は折れていませんでした。
「……寒い」
馬車の荷台で、ミラがガタガタと震えています。 この馬車は、途中の宿場町でセバスチャンが「調達(という名の半強制的交渉)」してきた、幌付きの荷馬車です。 隙間風が容赦なく吹き込み、北へ近づくにつれて気温は氷点下へと下がっていました。
「頑張って、ミラ。もう少しよ」
私は自分のショールをミラに巻き付け、さらにその上から抱きしめました。 私の体温など微々たるものですが、少しでもあの子を温めたかったのです。
「……アリア」
御者台に座っていたクラウス様が、幌の隙間から顔を覗かせました。 その眉毛や髪には、白い霜が降りています。
「もうすぐ『境界』だ。あそこを越えれば、私の庭だ」
「境界……」
私は幌を少しめくり、外を見ました。 そこには、世界を一変させるような光景が広がっていました。
見渡す限りの雪原。 鉛色の空から舞い落ちる白い悪魔。 そして、その彼方にそびえ立つ、巨大な山脈。 あれこそが、ラインハルト公爵領『ノースランド』を抱く、北の山々でした。
「……すごい」
その厳しくも美しい光景に、私は言葉を失いました。
「ここが、閣下の故郷……」
「ああ。何もない、凍てついた不毛の大地だ。王都の連中は『流刑地』と呼んで忌み嫌うがな」
クラウス様は自嘲気味に笑いましたが、その瞳には故郷への深い愛着と誇りが宿っていました。
「私にとっては、どんな宝石箱よりも美しい場所です」
私が言うと、クラウス様は少し驚いたように目を見開き、それから優しく微笑みました。
「……お前なら、そう言ってくれると思った」
馬車は雪道を軋みながら進みます。 やがて、吹雪の向こうに、巨大な関所が見えてきました。 『氷狼(フェンリル)の砦』と呼ばれる、ノースランドの玄関口です。
砦の上には、王家の旗ではなく、ラインハルト家の『氷の結晶と狼』の旗が掲げられていました。 しかし、その門は固く閉ざされ、城壁の上には弓を構えた兵士たちが殺気立っています。
「止まれ! 何奴だ!」
城壁の上から、野太い声が響きました。
「怪しい馬車だ! 王都からの回し者か!? 答えねば射るぞ!」
どうやら、王都での政変の噂はここまで届いているようです。 彼らは主君であるクラウス様を守るため、あるいは主君を陥れた王都の勢力に対して、極度の警戒態勢を敷いているのでしょう。
クラウス様は馬車を止め、ゆっくりと立ち上がりました。 そして、被っていたフードを脱ぎ捨てました。
「……私の顔を忘れたか、ヴォルフガング」
吹雪の中、クラウス様の凛とした声が響き渡りました。 それは、魔法で増幅されたわけでもないのに、風の音さえも切り裂いて兵士たちの耳に届きました。
城壁の上がざわめきました。 そして、中央にいた大柄な指揮官が、身を乗り出しました。
「その銀髪……その声……まさか……!」
指揮官は目を疑うように瞬きし、そして叫びました。
「閣下!? クラウス閣下であらせられるか!!」
「遅いぞ。門を開けろ。……ただいま戻った」
その一言で、砦全体が歓喜の渦に包まれました。 「閣下が生きておられたぞ!」 「すぐに開門せよ!」 「伝令! 本城へ知らせろ!」
重厚な門が、地響きを立てて開かれました。 中から、数百人の兵士たちが雪崩れ込んできました。 彼らは皆、粗野で、髭面で、王都の騎士のような洗練された鎧は着ていません。 毛皮を纏い、傷だらけの武器を持った、荒くれ者たちです。
けれど、その全員が馬車の前で膝をつき、涙を流して頭を垂れていました。
「ご無事で……! 王都で処刑されたとの噂が流れ、我らは……!」
指揮官のヴォルフガングという男が、雪に額を擦り付けて泣いています。 クラウス様は馬車を降り、彼に歩み寄ると、その肩を叩きました。
「心配をかけたな。……だが、私は死なん。お前たちを残して、死ねるわけがないだろう」
「ううっ、閣下ぁぁぁ……!」
男たちが号泣しています。 これが、氷の公爵の真の姿。 王都では「冷血漢」と恐れられていましたが、ここでは「家族」として、これほどまでに愛されているのです。
私はその光景を見て、胸が熱くなりました。 この人についてきて、本当によかった。
「……アリア様」
横で、セバスチャンが小声で言いました。 彼もまた、目頭をハンカチで押さえています。
「これが、ノースランドの結束です。ここでは、血筋や身分よりも、魂の絆が全てなのです」
「ええ。……素敵な場所ね」
私は微笑み、ミラの手を握り直しました。 私たちは、ついに安全な場所にたどり着いたのです。
◇
砦での歓迎もそこそこに、私たちは本拠地である『白銀城(シルバー・キープ)』へと急ぎました。 そこは、険しい岩山の上に築かれた、難攻不落の要塞でした。 華美な装飾は一切なく、ただ実用性と堅牢さだけを追求した、黒い石造りの城。
「……寒い」
城内に入っても、石壁から冷気が染み出してきます。 王都の公爵邸のような暖房設備はありません。 暖炉で薪が燃えていますが、広すぎる広間を温めるには不十分でした。
「すまないな、アリア、ミラ。王都の生活とは天と地の差だ」
クラウス様が申し訳なさそうに言いましたが、私は首を横に振りました。
「いいえ。屋根があって、壁があって、追っ手がいない。それだけで十分な贅沢です」
「……強いな、お前は」
到着して早々、軍議が開かれることになりました。 休む間もありません。 ギリアード宰相が率いる王都軍は、すでに北へ向けて進軍を開始しているとの情報が入ったからです。
大広間に集まったのは、ノースランドを統べる諸侯や将軍たち。 熊のような大男、眼帯をした古傷だらけの老人、そして短剣をいじり続ける目つきの鋭い青年。 一癖も二癖もありそうな面々が、巨大な円卓を囲んでいました。
クラウス様が上座に座り、その右隣に私が立ちました。 セバスチャンとミラは、別室で休ませています。
「状況を説明する」
クラウス様が、王都で起きた政変、ギリアードの陰謀、そして私たちが逃亡した経緯を簡潔に話しました。 将軍たちは静まり返り、怒りに震えていました。
「許せねえ……! あの古狸、ついに正体を現しやがったか!」 「閣下を反逆者扱いだと? その首をへし折ってやる!」
怒号が飛び交う中、一人の老将が手を挙げました。 ヴォルフガング将軍の父であり、この地のご意見番でもある、鉄血の騎士・バルバロッサ卿です。
「閣下。お怒りはごもっとも。我らは最後の一兵まで戦う覚悟です。……ですが」
バルバロッサ卿の鋭い視線が、私に向けられました。
「そちらの娘御は、どなたですかな?」
会場の視線が、一斉に私に集まりました。 よそ者を見る目。 値踏みする目。 中には、あからさまな敵意を含むものもありました。
「王都から連れ帰った愛人ですか? それとも、新しいメイドですかな?」
誰かが冷笑混じりに言いました。 クラウス様の目がスッと細まり、殺気を放とうとしましたが、私はそれを手で制しました。 ここで彼に守ってもらっては、私はいつまで経っても「守られるだけの女」です。 この荒くれ者たちを従えるには、私自身が実力を示さなければなりません。
私は一歩前に進み出ました。
「お初にお目にかかります。アリア・ベルンシュタインと申します」
私はカーテシーではなく、北方の騎士の礼――右拳を左胸に当てるポーズをとりました。 それだけで、数人の将軍が「ほう」と眉を上げました。
「愛人でも、メイドでもありません。私は閣下の『秘書官』であり、今回の戦いにおける『参謀』を務めさせていただきます」
「……参謀だと?」
バルバロッサ卿が鼻で笑いました。
「娘さん。ここは舞踏会場ではないのだぞ。戦争だ。血と泥と鉄の臭いがする戦場だ。お前のような細腕の女に、何ができると言うのだ」
「細腕ですが、頭は回ります」
私は懐から、王宮の地下から持ち出した『裏帳簿』を取り出し、円卓の上に叩きつけました。 バンッ! という音が響き、全員が注目します。
「これは……?」
「ギリアード宰相の『アキレス腱』です」
私は帳簿を開き、指し示しました。
「ここには、敵の資金源、武器の調達ルート、そして……帝国と内通している証拠が記されています」
「な、なんだと!?」
「さらに、敵軍の補給線の弱点も分析済みです」
私は壁に貼られた地図の前に移動しました。
「王都軍は総勢五万。対する我が軍は一万。正面からぶつかれば負けます。ですが、敵は大軍ゆえに『飯』を食います」
私は地図上の一点を指差しました。
「現在、王都軍の兵糧は、南方の穀倉地帯からこの『リバーサイド橋』を通って運ばれています。ここを落とせば、敵は三日で干上がります」
「……橋を落とす? 馬鹿な。あそこは敵の後方だぞ。どうやって近づく?」
「近づく必要はありません。……この帳簿によれば、その橋を管理している代官は、かつてギリアードに賄賂を強要され、恨みを持っています。彼を寝返らせれば、橋は内側から崩せます」
会場がどよめきました。 敵の内部事情まで把握した上での、具体的な策。 ただの机上の空論ではありません。
「さらに」
私は言葉を継ぎました。
「私は王都の商人組合にもコネクションがあります。彼らを通じて、王都内で『ギリアードが帝国に国を売ろうとしている』という情報を流布させます。民衆が騒ぎ出せば、敵は足元から揺らぎます。……外からの攻撃と、内からの崩壊。これで勝機は五分まで持っていけます」
一気にまくし立てた後、私は静かに将軍たちを見回しました。
「……私の役目は、閣下の剣が届く距離まで、敵を引きずり下ろすことです。そのために、この命と知恵を使うと誓いました」
沈黙が支配しました。 誰も言葉を発しません。
やがて、バルバロッサ卿がゆっくりと立ち上がりました。 彼は私の目の前まで来ると、その巨大な手で私の肩をバシンと叩きました。
「……ぐっ!」
衝撃でよろけそうになりましたが、なんとか踏ん張りました。
「ガハハハハ! 気に入った! いい度胸だ!」
老将軍は豪快に笑いました。
「『狼の目』をしておるわ! 王都の軟弱な女かと思ったが、中身は北の男よりも肝が座っておる!」
彼は円卓に向き直り、叫びました。
「野郎ども! 聞いたか! この嬢ちゃんは、俺たちの『軍師』だ! 文句のある奴は前に出ろ! 俺がへし折ってやる!」
「異議なし!」 「すげえ姉ちゃんだ!」 「これなら勝てるぞ!」
歓声が上がり、場の空気が一変しました。 よそ者扱いだった空気が霧散し、仲間として受け入れられた瞬間でした。
クラウス様が席を立ち、私の隣に来ました。 そして、私の腰に手を回し、皆に見せつけるように宣言しました。
「紹介が遅れたな。……彼女は私の参謀であり、そして未来の『公爵夫人』だ」
「「「おおおおおッ!!」」」
さらに大きな歓声が上がりました。 口笛を吹く者、机を叩いて喜ぶ者。 荒々しいけれど、温かい祝福。
私は顔が熱くなるのを感じながら、クラウス様を見上げました。 彼は「よくやった」と目で語りかけていました。
◇
軍議が終わった後の深夜。 私は城のバルコニーで、一人雪景色を眺めていました。
作戦は決まりました。 三日後、全軍を出撃させ、王都へ向けて進軍を開始します。 これは、国の命運をかけた内戦の始まりです。 多くの血が流れるでしょう。 私が提案した「兵糧攻め」で、飢える兵士も出るでしょう。
その重圧に、少しだけ手が震えていました。
「……眠れないか?」
背後から、毛布がかけられました。 クラウス様です。 彼は私の隣に立ち、同じ月を見上げました。
「……怖いです」
私は正直に言いました。
「私の策で、人が死にます。もしかしたら、罪のない人も巻き込むかもしれません。……私は、取り返しのつかないことをしているのではないでしょうか」
「戦争とはそういうものだ」
クラウス様は淡々と言いました。
「綺麗事では守れない。お前はそれを知っているはずだ。……だからこそ、お前はカミロの前でも、エレナの前でも引かなかった」
「……はい」
「背負うな。その罪も、血も、全て私が半分持つ。……いや、全軍の指揮官である私が九割持つ。お前は私を信じて、前に進む道だけを照らしてくれればいい」
彼は私の手を握り、その冷たい指先で私の掌に口づけました。
「お前は私の『北極星(ポラリス)』だ。お前がいれば、私は迷わない」
「……クラウス様」
涙がこぼれました。 この人の言葉は、いつだって私の心の凍りついた部分を溶かしてくれます。
「分かりました。……私は貴方の星になります。どんなに暗い夜でも、貴方が道を見失わないように輝き続けます」
私は涙を拭い、彼の胸に飛び込みました。 冷たい風の中で、二人の体温だけが熱く燃えていました。
その時。 夜空の向こう、南の方角から、赤い狼煙(のろし)が上がりました。
「……来たか」
クラウス様の目が鋭くなります。 それは敵軍の接近を知らせる合図ではなく、王都に残した密偵からの緊急信号でした。 色は「赤」。 意味は――『極めて重大な危機』。
「セバスチャン!」
クラウス様が呼ぶと、影からセバスチャンが現れました。 手には、伝書鳩が運んできた小さな紙片を持っています。
「閣下、ご報告いたします」
セバスチャンの声が、珍しく焦りを含んでいました。
「王都にて、エリザベート王女殿下が……拘束されました」
「なっ……!?」
私は息を呑みました。
「罪状は『国王暗殺の共謀罪』。……ギリアードは、国王陛下を毒殺し、その罪を王女殿下と我々に擦り付けたようです」
「陛下が……崩御されたと?」
最悪の事態です。 国王が死に、その罪を着せられた王女が捕らえられた。 これでギリアードは、幼い王子(まだ五歳)を傀儡として即位させ、摂政として全権を握るつもりだ。
「処刑は一週間後。……建国広場にて、公開処刑を行うとのことです」
「一週間……」
ここから王都まで、軍を率いて進めばどんなに急いでも十日はかかります。 間に合いません。 どう考えても、詰みです。
「……どうしますか、閣下」
セバスチャンが問います。
クラウス様は沈黙しました。 ギリリ、と拳を握りしめる音が聞こえます。 怒りで体が震えています。
「……間に合わせる」
クラウス様は顔を上げました。 その瞳は、狂気にも似た決意で燃えていました。
「全軍での進軍は陽動だ。ヴォルフガングに本隊を任せる。……私は、精鋭のみを率いて『最短ルート』を行く」
「最短ルート? まさか……」
私は地図を思い浮かべました。 街道を使わずに王都へたどり着く道。 それは一つしかありません。
「『竜の山脈』を越える」
「自殺行為です!」
私は叫びました。 竜の山脈は、文字通り古代竜が棲むと言われる魔の山。 万年雪に閉ざされ、生きて帰った者はいないとされる場所です。
「だが、それなら三日で着く」
クラウス様は私を見ました。
「アリア。……お前は本隊と共に来い。山脈越えは危険すぎる」
「……嫌です」
私は即答しました。
「置いていかないでください。私は貴方の半身でしょう? 貴方が死地へ行くなら、私も行きます」
「足手まといになるぞ」
「なりません。……竜についての知識なら、『影の書庫』で読みました。竜の巣の場所も、回避ルートも頭に入っています。私がいなければ、貴方は遭難します」
ハッタリではありません。 私は本当に読んでいました。 あらゆる知識を詰め込んだ私の脳みそが、今こそ役に立つ時です。
クラウス様はしばらく私を睨んでいましたが、やがて諦めたようにため息をつきました。
「……分かった。お前の頑固さは、竜の鱗よりも硬いようだな」
彼は私の肩を抱きました。
「行くぞ、アリア。……王女を救い、ギリアードの首を取る。これが最後の賭けだ」
「はい!」
私たちは急いで準備を始めました。 本隊の指揮をバルバロッサ卿に託し、ミラを城の安全な場所に隠し(「必ず帰ってくるから」と約束して)、選抜された十名の精鋭と共に、夜明け前の闇へと出発しました。
目指すは死の山脈。 そしてその先にある、王都の処刑台。
私たちの本当の戦いは、ここからが本番でした。
私たちの逃避行は、過酷という言葉では生温いものでした。 追っ手の目を欺くため、主要な街道は使えず、獣道のような山越えのルートを選ばざるを得ませんでした。 食料は森で調達した木の実や、川魚。 夜は洞窟や廃屋で身を寄せ合い、互いの体温だけを頼りに眠る日々。
かつて「国一番の淑女」と呼ばれた私が、今では泥と煤にまみれ、髪はボサボサ。 それでも、私の心は折れていませんでした。
「……寒い」
馬車の荷台で、ミラがガタガタと震えています。 この馬車は、途中の宿場町でセバスチャンが「調達(という名の半強制的交渉)」してきた、幌付きの荷馬車です。 隙間風が容赦なく吹き込み、北へ近づくにつれて気温は氷点下へと下がっていました。
「頑張って、ミラ。もう少しよ」
私は自分のショールをミラに巻き付け、さらにその上から抱きしめました。 私の体温など微々たるものですが、少しでもあの子を温めたかったのです。
「……アリア」
御者台に座っていたクラウス様が、幌の隙間から顔を覗かせました。 その眉毛や髪には、白い霜が降りています。
「もうすぐ『境界』だ。あそこを越えれば、私の庭だ」
「境界……」
私は幌を少しめくり、外を見ました。 そこには、世界を一変させるような光景が広がっていました。
見渡す限りの雪原。 鉛色の空から舞い落ちる白い悪魔。 そして、その彼方にそびえ立つ、巨大な山脈。 あれこそが、ラインハルト公爵領『ノースランド』を抱く、北の山々でした。
「……すごい」
その厳しくも美しい光景に、私は言葉を失いました。
「ここが、閣下の故郷……」
「ああ。何もない、凍てついた不毛の大地だ。王都の連中は『流刑地』と呼んで忌み嫌うがな」
クラウス様は自嘲気味に笑いましたが、その瞳には故郷への深い愛着と誇りが宿っていました。
「私にとっては、どんな宝石箱よりも美しい場所です」
私が言うと、クラウス様は少し驚いたように目を見開き、それから優しく微笑みました。
「……お前なら、そう言ってくれると思った」
馬車は雪道を軋みながら進みます。 やがて、吹雪の向こうに、巨大な関所が見えてきました。 『氷狼(フェンリル)の砦』と呼ばれる、ノースランドの玄関口です。
砦の上には、王家の旗ではなく、ラインハルト家の『氷の結晶と狼』の旗が掲げられていました。 しかし、その門は固く閉ざされ、城壁の上には弓を構えた兵士たちが殺気立っています。
「止まれ! 何奴だ!」
城壁の上から、野太い声が響きました。
「怪しい馬車だ! 王都からの回し者か!? 答えねば射るぞ!」
どうやら、王都での政変の噂はここまで届いているようです。 彼らは主君であるクラウス様を守るため、あるいは主君を陥れた王都の勢力に対して、極度の警戒態勢を敷いているのでしょう。
クラウス様は馬車を止め、ゆっくりと立ち上がりました。 そして、被っていたフードを脱ぎ捨てました。
「……私の顔を忘れたか、ヴォルフガング」
吹雪の中、クラウス様の凛とした声が響き渡りました。 それは、魔法で増幅されたわけでもないのに、風の音さえも切り裂いて兵士たちの耳に届きました。
城壁の上がざわめきました。 そして、中央にいた大柄な指揮官が、身を乗り出しました。
「その銀髪……その声……まさか……!」
指揮官は目を疑うように瞬きし、そして叫びました。
「閣下!? クラウス閣下であらせられるか!!」
「遅いぞ。門を開けろ。……ただいま戻った」
その一言で、砦全体が歓喜の渦に包まれました。 「閣下が生きておられたぞ!」 「すぐに開門せよ!」 「伝令! 本城へ知らせろ!」
重厚な門が、地響きを立てて開かれました。 中から、数百人の兵士たちが雪崩れ込んできました。 彼らは皆、粗野で、髭面で、王都の騎士のような洗練された鎧は着ていません。 毛皮を纏い、傷だらけの武器を持った、荒くれ者たちです。
けれど、その全員が馬車の前で膝をつき、涙を流して頭を垂れていました。
「ご無事で……! 王都で処刑されたとの噂が流れ、我らは……!」
指揮官のヴォルフガングという男が、雪に額を擦り付けて泣いています。 クラウス様は馬車を降り、彼に歩み寄ると、その肩を叩きました。
「心配をかけたな。……だが、私は死なん。お前たちを残して、死ねるわけがないだろう」
「ううっ、閣下ぁぁぁ……!」
男たちが号泣しています。 これが、氷の公爵の真の姿。 王都では「冷血漢」と恐れられていましたが、ここでは「家族」として、これほどまでに愛されているのです。
私はその光景を見て、胸が熱くなりました。 この人についてきて、本当によかった。
「……アリア様」
横で、セバスチャンが小声で言いました。 彼もまた、目頭をハンカチで押さえています。
「これが、ノースランドの結束です。ここでは、血筋や身分よりも、魂の絆が全てなのです」
「ええ。……素敵な場所ね」
私は微笑み、ミラの手を握り直しました。 私たちは、ついに安全な場所にたどり着いたのです。
◇
砦での歓迎もそこそこに、私たちは本拠地である『白銀城(シルバー・キープ)』へと急ぎました。 そこは、険しい岩山の上に築かれた、難攻不落の要塞でした。 華美な装飾は一切なく、ただ実用性と堅牢さだけを追求した、黒い石造りの城。
「……寒い」
城内に入っても、石壁から冷気が染み出してきます。 王都の公爵邸のような暖房設備はありません。 暖炉で薪が燃えていますが、広すぎる広間を温めるには不十分でした。
「すまないな、アリア、ミラ。王都の生活とは天と地の差だ」
クラウス様が申し訳なさそうに言いましたが、私は首を横に振りました。
「いいえ。屋根があって、壁があって、追っ手がいない。それだけで十分な贅沢です」
「……強いな、お前は」
到着して早々、軍議が開かれることになりました。 休む間もありません。 ギリアード宰相が率いる王都軍は、すでに北へ向けて進軍を開始しているとの情報が入ったからです。
大広間に集まったのは、ノースランドを統べる諸侯や将軍たち。 熊のような大男、眼帯をした古傷だらけの老人、そして短剣をいじり続ける目つきの鋭い青年。 一癖も二癖もありそうな面々が、巨大な円卓を囲んでいました。
クラウス様が上座に座り、その右隣に私が立ちました。 セバスチャンとミラは、別室で休ませています。
「状況を説明する」
クラウス様が、王都で起きた政変、ギリアードの陰謀、そして私たちが逃亡した経緯を簡潔に話しました。 将軍たちは静まり返り、怒りに震えていました。
「許せねえ……! あの古狸、ついに正体を現しやがったか!」 「閣下を反逆者扱いだと? その首をへし折ってやる!」
怒号が飛び交う中、一人の老将が手を挙げました。 ヴォルフガング将軍の父であり、この地のご意見番でもある、鉄血の騎士・バルバロッサ卿です。
「閣下。お怒りはごもっとも。我らは最後の一兵まで戦う覚悟です。……ですが」
バルバロッサ卿の鋭い視線が、私に向けられました。
「そちらの娘御は、どなたですかな?」
会場の視線が、一斉に私に集まりました。 よそ者を見る目。 値踏みする目。 中には、あからさまな敵意を含むものもありました。
「王都から連れ帰った愛人ですか? それとも、新しいメイドですかな?」
誰かが冷笑混じりに言いました。 クラウス様の目がスッと細まり、殺気を放とうとしましたが、私はそれを手で制しました。 ここで彼に守ってもらっては、私はいつまで経っても「守られるだけの女」です。 この荒くれ者たちを従えるには、私自身が実力を示さなければなりません。
私は一歩前に進み出ました。
「お初にお目にかかります。アリア・ベルンシュタインと申します」
私はカーテシーではなく、北方の騎士の礼――右拳を左胸に当てるポーズをとりました。 それだけで、数人の将軍が「ほう」と眉を上げました。
「愛人でも、メイドでもありません。私は閣下の『秘書官』であり、今回の戦いにおける『参謀』を務めさせていただきます」
「……参謀だと?」
バルバロッサ卿が鼻で笑いました。
「娘さん。ここは舞踏会場ではないのだぞ。戦争だ。血と泥と鉄の臭いがする戦場だ。お前のような細腕の女に、何ができると言うのだ」
「細腕ですが、頭は回ります」
私は懐から、王宮の地下から持ち出した『裏帳簿』を取り出し、円卓の上に叩きつけました。 バンッ! という音が響き、全員が注目します。
「これは……?」
「ギリアード宰相の『アキレス腱』です」
私は帳簿を開き、指し示しました。
「ここには、敵の資金源、武器の調達ルート、そして……帝国と内通している証拠が記されています」
「な、なんだと!?」
「さらに、敵軍の補給線の弱点も分析済みです」
私は壁に貼られた地図の前に移動しました。
「王都軍は総勢五万。対する我が軍は一万。正面からぶつかれば負けます。ですが、敵は大軍ゆえに『飯』を食います」
私は地図上の一点を指差しました。
「現在、王都軍の兵糧は、南方の穀倉地帯からこの『リバーサイド橋』を通って運ばれています。ここを落とせば、敵は三日で干上がります」
「……橋を落とす? 馬鹿な。あそこは敵の後方だぞ。どうやって近づく?」
「近づく必要はありません。……この帳簿によれば、その橋を管理している代官は、かつてギリアードに賄賂を強要され、恨みを持っています。彼を寝返らせれば、橋は内側から崩せます」
会場がどよめきました。 敵の内部事情まで把握した上での、具体的な策。 ただの机上の空論ではありません。
「さらに」
私は言葉を継ぎました。
「私は王都の商人組合にもコネクションがあります。彼らを通じて、王都内で『ギリアードが帝国に国を売ろうとしている』という情報を流布させます。民衆が騒ぎ出せば、敵は足元から揺らぎます。……外からの攻撃と、内からの崩壊。これで勝機は五分まで持っていけます」
一気にまくし立てた後、私は静かに将軍たちを見回しました。
「……私の役目は、閣下の剣が届く距離まで、敵を引きずり下ろすことです。そのために、この命と知恵を使うと誓いました」
沈黙が支配しました。 誰も言葉を発しません。
やがて、バルバロッサ卿がゆっくりと立ち上がりました。 彼は私の目の前まで来ると、その巨大な手で私の肩をバシンと叩きました。
「……ぐっ!」
衝撃でよろけそうになりましたが、なんとか踏ん張りました。
「ガハハハハ! 気に入った! いい度胸だ!」
老将軍は豪快に笑いました。
「『狼の目』をしておるわ! 王都の軟弱な女かと思ったが、中身は北の男よりも肝が座っておる!」
彼は円卓に向き直り、叫びました。
「野郎ども! 聞いたか! この嬢ちゃんは、俺たちの『軍師』だ! 文句のある奴は前に出ろ! 俺がへし折ってやる!」
「異議なし!」 「すげえ姉ちゃんだ!」 「これなら勝てるぞ!」
歓声が上がり、場の空気が一変しました。 よそ者扱いだった空気が霧散し、仲間として受け入れられた瞬間でした。
クラウス様が席を立ち、私の隣に来ました。 そして、私の腰に手を回し、皆に見せつけるように宣言しました。
「紹介が遅れたな。……彼女は私の参謀であり、そして未来の『公爵夫人』だ」
「「「おおおおおッ!!」」」
さらに大きな歓声が上がりました。 口笛を吹く者、机を叩いて喜ぶ者。 荒々しいけれど、温かい祝福。
私は顔が熱くなるのを感じながら、クラウス様を見上げました。 彼は「よくやった」と目で語りかけていました。
◇
軍議が終わった後の深夜。 私は城のバルコニーで、一人雪景色を眺めていました。
作戦は決まりました。 三日後、全軍を出撃させ、王都へ向けて進軍を開始します。 これは、国の命運をかけた内戦の始まりです。 多くの血が流れるでしょう。 私が提案した「兵糧攻め」で、飢える兵士も出るでしょう。
その重圧に、少しだけ手が震えていました。
「……眠れないか?」
背後から、毛布がかけられました。 クラウス様です。 彼は私の隣に立ち、同じ月を見上げました。
「……怖いです」
私は正直に言いました。
「私の策で、人が死にます。もしかしたら、罪のない人も巻き込むかもしれません。……私は、取り返しのつかないことをしているのではないでしょうか」
「戦争とはそういうものだ」
クラウス様は淡々と言いました。
「綺麗事では守れない。お前はそれを知っているはずだ。……だからこそ、お前はカミロの前でも、エレナの前でも引かなかった」
「……はい」
「背負うな。その罪も、血も、全て私が半分持つ。……いや、全軍の指揮官である私が九割持つ。お前は私を信じて、前に進む道だけを照らしてくれればいい」
彼は私の手を握り、その冷たい指先で私の掌に口づけました。
「お前は私の『北極星(ポラリス)』だ。お前がいれば、私は迷わない」
「……クラウス様」
涙がこぼれました。 この人の言葉は、いつだって私の心の凍りついた部分を溶かしてくれます。
「分かりました。……私は貴方の星になります。どんなに暗い夜でも、貴方が道を見失わないように輝き続けます」
私は涙を拭い、彼の胸に飛び込みました。 冷たい風の中で、二人の体温だけが熱く燃えていました。
その時。 夜空の向こう、南の方角から、赤い狼煙(のろし)が上がりました。
「……来たか」
クラウス様の目が鋭くなります。 それは敵軍の接近を知らせる合図ではなく、王都に残した密偵からの緊急信号でした。 色は「赤」。 意味は――『極めて重大な危機』。
「セバスチャン!」
クラウス様が呼ぶと、影からセバスチャンが現れました。 手には、伝書鳩が運んできた小さな紙片を持っています。
「閣下、ご報告いたします」
セバスチャンの声が、珍しく焦りを含んでいました。
「王都にて、エリザベート王女殿下が……拘束されました」
「なっ……!?」
私は息を呑みました。
「罪状は『国王暗殺の共謀罪』。……ギリアードは、国王陛下を毒殺し、その罪を王女殿下と我々に擦り付けたようです」
「陛下が……崩御されたと?」
最悪の事態です。 国王が死に、その罪を着せられた王女が捕らえられた。 これでギリアードは、幼い王子(まだ五歳)を傀儡として即位させ、摂政として全権を握るつもりだ。
「処刑は一週間後。……建国広場にて、公開処刑を行うとのことです」
「一週間……」
ここから王都まで、軍を率いて進めばどんなに急いでも十日はかかります。 間に合いません。 どう考えても、詰みです。
「……どうしますか、閣下」
セバスチャンが問います。
クラウス様は沈黙しました。 ギリリ、と拳を握りしめる音が聞こえます。 怒りで体が震えています。
「……間に合わせる」
クラウス様は顔を上げました。 その瞳は、狂気にも似た決意で燃えていました。
「全軍での進軍は陽動だ。ヴォルフガングに本隊を任せる。……私は、精鋭のみを率いて『最短ルート』を行く」
「最短ルート? まさか……」
私は地図を思い浮かべました。 街道を使わずに王都へたどり着く道。 それは一つしかありません。
「『竜の山脈』を越える」
「自殺行為です!」
私は叫びました。 竜の山脈は、文字通り古代竜が棲むと言われる魔の山。 万年雪に閉ざされ、生きて帰った者はいないとされる場所です。
「だが、それなら三日で着く」
クラウス様は私を見ました。
「アリア。……お前は本隊と共に来い。山脈越えは危険すぎる」
「……嫌です」
私は即答しました。
「置いていかないでください。私は貴方の半身でしょう? 貴方が死地へ行くなら、私も行きます」
「足手まといになるぞ」
「なりません。……竜についての知識なら、『影の書庫』で読みました。竜の巣の場所も、回避ルートも頭に入っています。私がいなければ、貴方は遭難します」
ハッタリではありません。 私は本当に読んでいました。 あらゆる知識を詰め込んだ私の脳みそが、今こそ役に立つ時です。
クラウス様はしばらく私を睨んでいましたが、やがて諦めたようにため息をつきました。
「……分かった。お前の頑固さは、竜の鱗よりも硬いようだな」
彼は私の肩を抱きました。
「行くぞ、アリア。……王女を救い、ギリアードの首を取る。これが最後の賭けだ」
「はい!」
私たちは急いで準備を始めました。 本隊の指揮をバルバロッサ卿に託し、ミラを城の安全な場所に隠し(「必ず帰ってくるから」と約束して)、選抜された十名の精鋭と共に、夜明け前の闇へと出発しました。
目指すは死の山脈。 そしてその先にある、王都の処刑台。
私たちの本当の戦いは、ここからが本番でした。
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