56 / 58
56話「娘ではなく道具」
セレナが顔を覆って震えていたその時。
背後の扉が、音もなく静かに開いた。
「……セレナ」
低く、深く響く声。
振り返ると、そこにはオスカーが立っていた。
彼の視線は、セレナの足元に落ちたアルヴェイン公爵家の紋章が入った封筒と、彼女の手の中でくしゃくしゃになった便箋を正確に捉えていた。
「閣下……申し訳ありません、お見苦しいところを」
セレナは慌てて目元を拭い、姿勢を正そうとした。
だが、足の震えが止まらず、よろめいて机の角に肩をぶつけてしまう。
オスカーは足早に歩み寄り、崩れ落ちそうになる彼女の腕を強く、だが痛くないように支えた。
「強がるな」
「私は……大丈夫です。ただ、お父様からの手紙を読んで、少し……」
「『家のために、大人しく罪を認めろ』とでも書いてあったか」
オスカーの言葉に、セレナは息を呑んだ。
彼は公爵の手紙を読んだわけではない。だが、中央の貴族の冷酷な論理と、セレナが抱える根源的な傷を、痛いほど理解していたのだ。
「……はい」
セレナはうつむき、絞り出すような声で告白した。
「お父様にとって、私は娘ではなく、家を維持するための道具でした。役に立つ間だけは『よくやっている、それで十分だ』と褒められ、不都合になれば『家のために切り捨てる』と追放されました。そして今、私が再び使える道具になりそうだと分かれば、呼び戻そうとする」
セレナの言葉は、まるで自分自身の傷口に塩を塗り込むように痛ましかった。
「私は……ただ、認めてほしかっただけなのに。私が私であるからではなく、役に立つから生かされているのだと……頭では分かっていたのに、どうしても、期待を捨てきれなかった……!」
感情の堤防が決壊し、セレナの目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
王宮の理不尽な断罪にも、極寒の北辺の生活にも決して泣かなかった彼女が、初めて他人の前で完全に感情を崩し、声を上げて泣いていた。
オスカーは何も言わなかった。
安易な慰めの言葉も、理屈による励ましも口にしない。
彼はただ、セレナの震える身体を自身の広い胸に引き寄せ、その背中を大きく温かい手でしっかりと包み込んだ。
獣の毛皮の匂いと、薪の燃えるような微かな熱。
その絶対的な安心感の中で、セレナはオスカーの胸に顔を押し当て、子供のように泣き続けた。
「……泣け」
オスカーが、彼女の銀色の髪を不器用に撫でながら、低く囁くように言った。
「誰かの道具でいるための仮面など、ここでは必要ない。お前はお前だ。役に立とうが立つまいが、俺はお前という人間を絶対に手放さない」
その言葉が、セレナの胸の奥底に刺さっていた氷の棘を、静かに溶かしていく。
ずっと、自分が消えてしまいそうで怖かった。
でも、彼は隠さない。彼は目を逸らさない。
どんなに惨めで、見苦しくて、感情に振り回される弱い自分であっても、彼はすべてを受け止め、その腕の中に留めてくれる。
「オスカー様……っ」
セレナは初めて、彼の名前を震える声で呼んだ。
彼の手の温もりにすがりつくように、彼の背中に腕を回す。
執務室の中には、セレナのしゃくり上げる声と、暖炉の火が爆ぜる音だけが響いていた。
すべての鎧を脱ぎ捨て、最も深い傷を晒け出した夜。
この涙の後に残るのは、過去への未練ではなく、彼と共に前を向いて戦うための、純粋で強靭な覚悟だけだ。
背後の扉が、音もなく静かに開いた。
「……セレナ」
低く、深く響く声。
振り返ると、そこにはオスカーが立っていた。
彼の視線は、セレナの足元に落ちたアルヴェイン公爵家の紋章が入った封筒と、彼女の手の中でくしゃくしゃになった便箋を正確に捉えていた。
「閣下……申し訳ありません、お見苦しいところを」
セレナは慌てて目元を拭い、姿勢を正そうとした。
だが、足の震えが止まらず、よろめいて机の角に肩をぶつけてしまう。
オスカーは足早に歩み寄り、崩れ落ちそうになる彼女の腕を強く、だが痛くないように支えた。
「強がるな」
「私は……大丈夫です。ただ、お父様からの手紙を読んで、少し……」
「『家のために、大人しく罪を認めろ』とでも書いてあったか」
オスカーの言葉に、セレナは息を呑んだ。
彼は公爵の手紙を読んだわけではない。だが、中央の貴族の冷酷な論理と、セレナが抱える根源的な傷を、痛いほど理解していたのだ。
「……はい」
セレナはうつむき、絞り出すような声で告白した。
「お父様にとって、私は娘ではなく、家を維持するための道具でした。役に立つ間だけは『よくやっている、それで十分だ』と褒められ、不都合になれば『家のために切り捨てる』と追放されました。そして今、私が再び使える道具になりそうだと分かれば、呼び戻そうとする」
セレナの言葉は、まるで自分自身の傷口に塩を塗り込むように痛ましかった。
「私は……ただ、認めてほしかっただけなのに。私が私であるからではなく、役に立つから生かされているのだと……頭では分かっていたのに、どうしても、期待を捨てきれなかった……!」
感情の堤防が決壊し、セレナの目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
王宮の理不尽な断罪にも、極寒の北辺の生活にも決して泣かなかった彼女が、初めて他人の前で完全に感情を崩し、声を上げて泣いていた。
オスカーは何も言わなかった。
安易な慰めの言葉も、理屈による励ましも口にしない。
彼はただ、セレナの震える身体を自身の広い胸に引き寄せ、その背中を大きく温かい手でしっかりと包み込んだ。
獣の毛皮の匂いと、薪の燃えるような微かな熱。
その絶対的な安心感の中で、セレナはオスカーの胸に顔を押し当て、子供のように泣き続けた。
「……泣け」
オスカーが、彼女の銀色の髪を不器用に撫でながら、低く囁くように言った。
「誰かの道具でいるための仮面など、ここでは必要ない。お前はお前だ。役に立とうが立つまいが、俺はお前という人間を絶対に手放さない」
その言葉が、セレナの胸の奥底に刺さっていた氷の棘を、静かに溶かしていく。
ずっと、自分が消えてしまいそうで怖かった。
でも、彼は隠さない。彼は目を逸らさない。
どんなに惨めで、見苦しくて、感情に振り回される弱い自分であっても、彼はすべてを受け止め、その腕の中に留めてくれる。
「オスカー様……っ」
セレナは初めて、彼の名前を震える声で呼んだ。
彼の手の温もりにすがりつくように、彼の背中に腕を回す。
執務室の中には、セレナのしゃくり上げる声と、暖炉の火が爆ぜる音だけが響いていた。
すべての鎧を脱ぎ捨て、最も深い傷を晒け出した夜。
この涙の後に残るのは、過去への未練ではなく、彼と共に前を向いて戦うための、純粋で強靭な覚悟だけだ。
あなたにおすすめの小説
捨てられた花嫁は没落公爵と未来を簿に刻む
なつめ
恋愛
巨額の持参金とともに伯爵家へ嫁いだミレーヌ・オルヴェイユは、夫にも婚家にも実家にも、妻ではなく“財布”として扱われていた。
夫は彼女の金で愛人を囲い、義母は宝石を買い、実家はさらに金を無心する。
すべてを帳簿に記録していたミレーヌは、ある日静かに離縁を選ぶ。
行き場を失った彼女が次に向かったのは、借金まみれで社交界から見放されたヴァルクレア公爵家。
そこで彼女は、誇り高く不器用な若き公爵エルネスト・ヴァルクレアと出会う。
彼は彼女の持参金には手を出さず、こう言った。
「君の金ではなく、君の目を借りたい。帳簿を見る目を」
財布扱いされた女と、没落しかけた公爵家。
帳簿、領地改革、使用人の再配置、社交界復帰。
数字を一つずつ整えるたび、二人の距離も少しずつ近づいていく。
村娘になった悪役令嬢
枝豆@敦騎
恋愛
父が連れてきた妹を名乗る少女に出会った時、公爵令嬢スザンナは自分の前世と妹がヒロインの乙女ゲームの存在を思い出す。
ゲームの知識を得たスザンナは自分が将来妹の殺害を企てる事や自分が父の実子でない事を知り、身分を捨て母の故郷で平民として暮らすことにした。
村娘になった少女が行き倒れを拾ったり、ヒロインに連れ戻されそうになったり、悪役として利用されそうになったりしながら最後には幸せになるお話です。
※他サイトにも掲載しています。(他サイトに投稿したものと異なっている部分があります)
アルファポリスのみ後日談投稿しております。
初夜に前世を思い出した悪役令嬢は復讐方法を探します。
豆狸
恋愛
「すまない、間違えたんだ」
「はあ?」
初夜の床で新妻の名前を元カノ、しかも新妻の異母妹、しかも新妻と婚約破棄をする原因となった略奪者の名前と間違えた?
脳に蛆でも湧いてんじゃないですかぁ?
なろう様でも公開中です。
婚約破棄?王子様の婚約者は私ではなく檻の中にいますよ?
荷居人(にいと)
恋愛
「貴様とは婚約破棄だ!」
そうかっこつけ王子に言われたのは私でした。しかし、そう言われるのは想定済み……というより、前世の記憶で知ってましたのですでに婚約者は代えてあります。
「殿下、お言葉ですが、貴方の婚約者は私の妹であって私ではありませんよ?」
「妹……?何を言うかと思えば貴様にいるのは兄ひとりだろう!」
「いいえ?実は父が養女にした妹がいるのです。今は檻の中ですから殿下が知らないのも無理はありません」
「は?」
さあ、初めての感動のご対面の日です。婚約破棄するなら勝手にどうぞ?妹は今日のために頑張ってきましたからね、気持ちが変わるかもしれませんし。
荷居人の婚約破棄シリーズ第八弾!今回もギャグ寄りです。個性な作品を目指して今回も完結向けて頑張ります!
第七弾まで完結済み(番外編は生涯連載中)!荷居人タグで検索!どれも繋がりのない短編集となります。
表紙に特に意味はありません。お疲れの方、猫で癒されてねというだけです。
【完結】婚約者に忘れられていた私
稲垣桜
恋愛
「やっぱり帰ってきてた」
「そのようだね。あれが問題の彼女?アシュリーの方が綺麗なのにな」
私は夜会の会場で、間違うことなく自身の婚約者が、栗毛の令嬢を愛しそうな瞳で見つめながら腰を抱き寄せて、それはそれは親しそうに見つめ合ってダンスをする姿を視線の先にとらえていた。
エスコートを申し出てくれた令息は私の横に立って、そんな冗談を口にしながら二人に視線を向けていた。
ここはベイモント侯爵家の夜会の会場。
私はとある方から国境の騎士団に所属している婚約者が『もう二か月前に帰ってきてる』という話を聞いて、ちょっとは驚いたけど「やっぱりか」と思った。
あれだけ出し続けた手紙の返事がないんだもん。そう思っても仕方ないよでしょ?
まあ、帰ってきているのはいいけど、女も一緒?
誰?
あれ?
せめて婚約者の私に『もうすぐ戻れる』とか、『もう帰ってきた』の一言ぐらいあってもいいんじゃない?
もうあなたなんてポイよポイッ。
※ゆる~い設定です。
※ご都合主義です。そんなものかと思ってください。
※視点が一話一話変わる場面もあります。
【完結】私は側妃ですか? だったら婚約破棄します
hikari
恋愛
レガローグ王国の王太子、アンドリューに突如として「側妃にする」と言われたキャサリン。一緒にいたのはアトキンス男爵令嬢のイザベラだった。
キャサリンは婚約破棄を告げ、護衛のエドワードと侍女のエスターと共に実家へと帰る。そして、魔法使いに弟子入りする。
その後、モナール帝国がレガローグに侵攻する話が上がる。実はエドワードはモナール帝国のスパイだった。後に、エドワードはモナール帝国の第一皇子ヴァレンティンを紹介する。
※ざまあの回には★がついています。
これって私の断罪じゃなくて公開プロポーズですか!?
桃瀬ももな
恋愛
「カタリーナ・フォン・シュバルツ! 貴様との婚約を破棄し、国外追放に処す!」
卒業パーティーの最中、第一王子アルフォンスから非情な宣告を突きつけられた公爵令嬢カタリーナ。
生まれつきの鋭い目つきと、緊張すると顔が強張る不器用さゆえに「悪役令嬢」として孤立していた彼女は、ついに訪れた「お決まりの断罪劇」に絶望……するかと思いきや。
(……あれ? 殿下、いま小さく「よっしゃあ!」ってガッツポーズしませんでした!?)