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第3話:小さな奇跡と彼の変化
翌朝、私は意を決して、侍女に一つの願い事をしてみることにした。
昨夜、部屋に食事を運んできてくれた、マーサという初老の侍女長だ。
彼女は多くを語らないが、その瞳の奥には、確かな優しさが滲んでいた。
「あの、マーサさん。少しだけ……中庭に出てもよろしいでしょうか?」
私の言葉に、マーサは少し驚いた顔をした。
その顔には「なぜ、あのような場所に?」と書いてある。
「中庭、でございますか? あのような荒れ果てた場所に……何か御用でも?」
「はい。少し、気になる木がありまして」
私の真剣な眼差しに、マーサは何かを感じ取ったらしい。
しばらく私をじっと見つめた後、小さくため息をついて、こう言った。
「……公爵様からは、リリアーナ様の行動を制限するなと、固く仰せつかっております。お好きになさってくださいませ」
「ありがとうございます!」
私は深く頭を下げると、早速、昨日窓から見えた中庭へと向かった。
古い石の階段を降り、錆びついた扉を開ける。
足を踏み入れた途端、淀んだ、生気のない空気が私の肌を刺した。
地面は固くひび割れ、雑草一本生えていない。
まるで、生命そのものを拒絶しているかのようだ。
こんな場所で、本当に奇跡など起こせるのだろうか。
一瞬、弱気になったけれど、私は首を振ってその思いを振り払った。
目的の場所へ、土を踏みしめながら歩みを進める。
そこには、黒く変色し、ほとんどの葉を落とした一本の薔薇の木が、まるで墓標のように、かろうじて立っていた。
でも、諦めずに、よく見てみる。
すると、枝の先に、米粒ほどの小さな蕾が一つだけ、必死にしがみついているのが見えた。
「……頑張ってるんだね、あなたも」
私はその蕾に、自分自身を重ねていた。
偽物だと罵られ、全てを奪われ、王都を追放された私。
でも、まだ死んだわけじゃない。
心臓は動いているし、こうして生きている。
諦めるのは、まだ早い。
そっと、その枯れ木に両手を伸ばす。
王宮では、こんな力、誰も見向きもしなかった。
地味で、矮小で、聖女の御業とは呼べない、と。
でも、今なら。
この死んだ土地なら、私の力がほんの少しでも役に立つかもしれない。
目を閉じ、意識を集中させる。
私の身体から、温かい何かが、ゆっくりと手のひらへと集まっていく感覚。
(お願い、元気になって……!)
(もう一度、綺麗な花を咲かせて……!)
心の底から、そう願う。
すると、私の両手のひらから、淡い、若葉色の光が溢れ出した。
光は、優しく、慈しむように枯れ木を包み込む。
それはほんの数秒の出来事だった。
光が消えた後、私は恐る恐る目を開ける。
信じられない光景が、目の前に広がっていた。
黒く変色していた幹や枝に、うっすらと、本当にうっすらとだが、緑色が戻っている。
そして、あれほど小さく硬かった蕾が、ほんの少しだけ膨らみ、その先端に、淡い、淡いピンク色が覗いていたのだ。
「……咲く、かもしれない」
完全ではない。
でも、確かにこの木は、私の力に応えてくれた。
胸の奥から、じわりと温かいものが込み上げてくる。
王都を追われてから、初めて感じた、純粋な喜びだった。
「すごい……本当に、咲かせることができるんだ……」
夢中で薔薇の木に見入っていると、ふいに背後から声がした。
「——何をしている」
その声に、心臓が喉から飛び出しそうになるほど驚いた。
振り返ると、そこに立っていたのは、いつの間に現れたのか、アレクシス様だった。
彼の蒼い瞳が、驚きに見開かれているように見えた。
いや、見えた、ではない。
完璧な無表情を常に貼り付けていた彼の顔が、確かに、驚愕に揺らいでいた。
「こ、公爵様……! こ、これは、その……勝手なことをして、申し訳ありません……!」
叱られてしまうかもしれない。
そう思って、慌てて弁解しようとする私を、彼は手で制した。
彼はゆっくりと薔薇の木に近づき、その変化を目の当たりにして、息を呑んだのが分かった。
手袋に覆われた指先が、微かに震えている。
「……君が、やったのか?」
彼の声もまた、微かに震えていた。
「は、はい……。私の力は、植物を少しだけ元気にする、それだけなので……本当に、少しだけ……」
俯いて、言い訳のように呟く。
けれど、アレクシス様からの叱責はなかった。
代わりに、彼は信じられないものを見るような目で、薔薇の木と私の顔を、何度も、何度も、交互に見つめている。
重い、けれど嫌ではない沈黙が、二人の間に流れる。
やがて、彼はぽつりと言った。
「……そうか」
たった、それだけ。
けれど、その声には、今まで感じたことのない響きが含まれていた。
それは、驚きと……そして、ほんのわずかな***期待***のような色。
「……少し、冷えてきた。部屋に戻りなさい」
そう言って、彼は私に背を向けて城の中へ戻っていく。
その背中が、いつもより少しだけ大きく、そして、温かく見えたのは、決して気のせいではないだろう。
部屋に戻ると、先ほどの侍女マーサが、温かいハーブティーを持ってきてくれた。
「リリアーナ様。先ほど、中庭で……」
マーサの目も、少しだけ潤んでいるように見えた。
彼女も、あの薔薇の変化に気づいたのかもしれない。
「あの薔薇は、先代の公爵妃様が、それはそれは大切にされていたものなのです。公爵様のお母上の……。この土地が呪われてから、ずっと、ずっと枯れたままでしたのに……」
そうだったんだ……。
アレクシス様のお母様の、大切な形見。
だから、あんな表情を……。
その夜。
夕食のスープに、緑色の野菜が少しだけ入っていた。
それは、私が元気にした中庭の片隅で、奇跡的に芽吹いたハーブの葉だった。
そして、その日の夜から、アレクシス様の私に対する態度が、ほんの少しだけ変わった気がした。
廊下ですれ違う時に、ほんの一瞬だけ、視線が優しくなったような。
それはまだ、本当に些細な変化。
でも、この凍てついた城と、彼の心に、私が起こした小さな奇跡が、確かな波紋を広げ始めている。
その予感が、私の胸を、静かに、そして温かく震わせていた。
昨夜、部屋に食事を運んできてくれた、マーサという初老の侍女長だ。
彼女は多くを語らないが、その瞳の奥には、確かな優しさが滲んでいた。
「あの、マーサさん。少しだけ……中庭に出てもよろしいでしょうか?」
私の言葉に、マーサは少し驚いた顔をした。
その顔には「なぜ、あのような場所に?」と書いてある。
「中庭、でございますか? あのような荒れ果てた場所に……何か御用でも?」
「はい。少し、気になる木がありまして」
私の真剣な眼差しに、マーサは何かを感じ取ったらしい。
しばらく私をじっと見つめた後、小さくため息をついて、こう言った。
「……公爵様からは、リリアーナ様の行動を制限するなと、固く仰せつかっております。お好きになさってくださいませ」
「ありがとうございます!」
私は深く頭を下げると、早速、昨日窓から見えた中庭へと向かった。
古い石の階段を降り、錆びついた扉を開ける。
足を踏み入れた途端、淀んだ、生気のない空気が私の肌を刺した。
地面は固くひび割れ、雑草一本生えていない。
まるで、生命そのものを拒絶しているかのようだ。
こんな場所で、本当に奇跡など起こせるのだろうか。
一瞬、弱気になったけれど、私は首を振ってその思いを振り払った。
目的の場所へ、土を踏みしめながら歩みを進める。
そこには、黒く変色し、ほとんどの葉を落とした一本の薔薇の木が、まるで墓標のように、かろうじて立っていた。
でも、諦めずに、よく見てみる。
すると、枝の先に、米粒ほどの小さな蕾が一つだけ、必死にしがみついているのが見えた。
「……頑張ってるんだね、あなたも」
私はその蕾に、自分自身を重ねていた。
偽物だと罵られ、全てを奪われ、王都を追放された私。
でも、まだ死んだわけじゃない。
心臓は動いているし、こうして生きている。
諦めるのは、まだ早い。
そっと、その枯れ木に両手を伸ばす。
王宮では、こんな力、誰も見向きもしなかった。
地味で、矮小で、聖女の御業とは呼べない、と。
でも、今なら。
この死んだ土地なら、私の力がほんの少しでも役に立つかもしれない。
目を閉じ、意識を集中させる。
私の身体から、温かい何かが、ゆっくりと手のひらへと集まっていく感覚。
(お願い、元気になって……!)
(もう一度、綺麗な花を咲かせて……!)
心の底から、そう願う。
すると、私の両手のひらから、淡い、若葉色の光が溢れ出した。
光は、優しく、慈しむように枯れ木を包み込む。
それはほんの数秒の出来事だった。
光が消えた後、私は恐る恐る目を開ける。
信じられない光景が、目の前に広がっていた。
黒く変色していた幹や枝に、うっすらと、本当にうっすらとだが、緑色が戻っている。
そして、あれほど小さく硬かった蕾が、ほんの少しだけ膨らみ、その先端に、淡い、淡いピンク色が覗いていたのだ。
「……咲く、かもしれない」
完全ではない。
でも、確かにこの木は、私の力に応えてくれた。
胸の奥から、じわりと温かいものが込み上げてくる。
王都を追われてから、初めて感じた、純粋な喜びだった。
「すごい……本当に、咲かせることができるんだ……」
夢中で薔薇の木に見入っていると、ふいに背後から声がした。
「——何をしている」
その声に、心臓が喉から飛び出しそうになるほど驚いた。
振り返ると、そこに立っていたのは、いつの間に現れたのか、アレクシス様だった。
彼の蒼い瞳が、驚きに見開かれているように見えた。
いや、見えた、ではない。
完璧な無表情を常に貼り付けていた彼の顔が、確かに、驚愕に揺らいでいた。
「こ、公爵様……! こ、これは、その……勝手なことをして、申し訳ありません……!」
叱られてしまうかもしれない。
そう思って、慌てて弁解しようとする私を、彼は手で制した。
彼はゆっくりと薔薇の木に近づき、その変化を目の当たりにして、息を呑んだのが分かった。
手袋に覆われた指先が、微かに震えている。
「……君が、やったのか?」
彼の声もまた、微かに震えていた。
「は、はい……。私の力は、植物を少しだけ元気にする、それだけなので……本当に、少しだけ……」
俯いて、言い訳のように呟く。
けれど、アレクシス様からの叱責はなかった。
代わりに、彼は信じられないものを見るような目で、薔薇の木と私の顔を、何度も、何度も、交互に見つめている。
重い、けれど嫌ではない沈黙が、二人の間に流れる。
やがて、彼はぽつりと言った。
「……そうか」
たった、それだけ。
けれど、その声には、今まで感じたことのない響きが含まれていた。
それは、驚きと……そして、ほんのわずかな***期待***のような色。
「……少し、冷えてきた。部屋に戻りなさい」
そう言って、彼は私に背を向けて城の中へ戻っていく。
その背中が、いつもより少しだけ大きく、そして、温かく見えたのは、決して気のせいではないだろう。
部屋に戻ると、先ほどの侍女マーサが、温かいハーブティーを持ってきてくれた。
「リリアーナ様。先ほど、中庭で……」
マーサの目も、少しだけ潤んでいるように見えた。
彼女も、あの薔薇の変化に気づいたのかもしれない。
「あの薔薇は、先代の公爵妃様が、それはそれは大切にされていたものなのです。公爵様のお母上の……。この土地が呪われてから、ずっと、ずっと枯れたままでしたのに……」
そうだったんだ……。
アレクシス様のお母様の、大切な形見。
だから、あんな表情を……。
その夜。
夕食のスープに、緑色の野菜が少しだけ入っていた。
それは、私が元気にした中庭の片隅で、奇跡的に芽吹いたハーブの葉だった。
そして、その日の夜から、アレクシス様の私に対する態度が、ほんの少しだけ変わった気がした。
廊下ですれ違う時に、ほんの一瞬だけ、視線が優しくなったような。
それはまだ、本当に些細な変化。
でも、この凍てついた城と、彼の心に、私が起こした小さな奇跡が、確かな波紋を広げ始めている。
その予感が、私の胸を、静かに、そして温かく震わせていた。
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