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第15話:『元婚約者の未練。「やり直そう」と言われましたが、私の隣にはもっと素敵な彼がいるので』
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王宮の大広間は、数千の魔法灯によって昼間のように明るく照らし出されていた。 天井画には神話の英雄たちが描かれ、磨き上げられた床は大理石。 壁際には楽団が控え、優雅な弦楽器の音色がさざ波のように会場を満たしている。
その煌びやかな空間が、今、水を打ったように静まり返っていた。
すべての視線が、大扉から現れた二人の男女に注がれている。
一人は、この国の第二王子であり、数々の武勲で知られる英雄、レオンハルト殿下。 漆黒の礼服に身を包み、黄金の髪をなびかせたその姿は、まさに太陽の化身のような輝きを放っている。
そして、その腕に手を添え、優雅に歩を進める女性。 「……まさか、あの方は……」 「フェルゼン家の……エリザ嬢か?」 「追放されたと聞いていたが……なんという美しさだ……」
貴族たちのひそひそ話が、波紋のように広がっていく。
私は背筋をピンと伸ばし、口元には余裕の微笑みを湛えていた。 身につけているのは、レオンが王家御用達のデザイナーに作らせた、真紅のドレスだ。 それは、フェルゼン伯爵家で着せられていた地味な服でも、リゾートで着ていた軽やかなドレスでもない。 王族のパートナーとして立つにふさわしい、重厚かつ洗練されたデザイン。 胸元には、レオンから贈られたアメジストのネックレスが、彼の瞳と同じ色で輝いている。
(……見えるわ)
私は扇子の隙間から、周囲の人々の顔を観察した。 かつて私を「地味な女」「面白みのない女」と嘲笑っていた令嬢たちが、驚愕と嫉妬で顔を歪めている。 私の実務能力を利用するだけ利用して、裏では馬鹿にしていた貴族たちが、信じられないものを見る目で固まっている。
痛快だ。 これまでの人生で、こんなに胸がすく瞬間があっただろうか。
「緊張しているか、エリザ?」
隣を歩くレオンが、小声で囁いてきた。 私は少しだけ彼の方へ顔を傾けた。
「いいえ。……むしろ、ワクワクしていますわ」
「はは、頼もしいな。……さあ、彼らに『格』の違いを見せつけてやろう」
レオンは私の手を強く握り、玉座の前まで進んだ。 そこには、国王陛下と王妃殿下が座しておられる。
「父上、母上。……ただいま戻りました」
レオンが深く一礼する。私もそれに倣い、完璧なカーテシーを披露した。 国王陛下は、厳めしい顔を緩めて頷かれた。
「うむ。大儀であった、レオンハルト。……そして、そなたが噂のエリザ・フェルゼン嬢か」
「はい、陛下。お目にかかれて光栄です」
「ギルバート(辺境伯)から手紙が届いておる。『わしの自慢の孫娘を泣かせたら、王都に隕石を落とす』とな」
「ぶっ……」
会場のどこかで誰かが吹き出す音がした。 おじい様、脅迫状を送るのはやめてください。
「ははは! あの頑固者のギルバートがそこまで言うとはな。……よい。楽にするがよい。今宵は祝いの席だ」
国王陛下の許可を得て、私たちは振り返り、貴族たちの方を向いた。 その瞬間、まるで堰を切ったように人々が押し寄せてきた。
「おお、レオンハルト殿下! ご帰還おめでとうございます!」 「エリザ様! お美しい! 以前から私は、貴女様の才能に気づいておりましたぞ!」 「エリザ様、今度ぜひ我が家のお茶会に……!」
手のひら返し。 見事なまでの変わり身の早さだ。 特に、かつて私に仕事を押し付けていた財務大臣の太った夫人が、揉み手をして近づいてきたのには失笑を禁じ得なかった。
「あら、エリザ様ぁ。お久しぶりですわねぇ。あの時は誤解があって……これからは仲良くしましょうねぇ」
「……ごきげんよう、夫人」
私は扇子で口元を隠し、氷点下の視線を送った。
「『あの時』とは、いつのことでしょうか? 私、自分にとって価値のない人間のことは、記憶しない主義でして」
「ひっ……」
「それに、私のドレスに触れないでくださいます? 安物の香水の匂いが移りますから」
夫人は顔を真っ赤にして後ずさった。 周囲からクスクスと笑い声が漏れる。 もう、私は誰にも媚びない。 嫌なものは嫌と言い、敵は容赦なく切り捨てる。それが、レオンの隣に立つ者の流儀だ。
◇
パーティーが中盤に差し掛かった頃。 人垣が割れ、一組の集団がこちらへ近づいてきた。
軍服を着た大柄な男と、派手なドレスの女。 そして、その二人に両腕を掴まれ、引きずられるようにして歩く、青白い顔の青年。
「……来たか」
レオンが不快そうに目を細めた。 現れたのは、騎士団長夫妻と――その息子、カイルだった。
カイルは昨日のボロボロの姿から一変、清潔な礼服を着せられ、髪も整えられていた。 しかし、その瞳は虚ろで、まるで魂が抜けた人形のようだ。 父親である騎士団長に小突かれ、ハッとしたように顔を上げた。
「レ、レオンハルト殿下……。ご帰還、お慶び申し上げます……」
騎士団長が脂汗を流しながら頭を下げる。 その横で、カイルもぎこちなく礼をした。
「……何の用だ、騎士団長」
レオンの声は冷たい。 「はっ! いえ、その……息子のカイルが、どうしても殿下とエリザ嬢にご挨拶したいと申しまして……」
騎士団長はカイルの背中をバシッと叩いた。 「おい、言え! 練習した通りに!」
カイルはビクッと震え、私を見た。 その目に、微かな光が戻る。 それは「希望」という名の、あまりにも身勝手な光だった。
「……エリザ」
カイルが一歩前に出た。
「エリザ、会いたかった……」
「……カイル様」
私は無表情で返した。
「ごきげんよう。昨日の今日で、よくもまあ顔を出せましたわね。その神経の図太さだけは感心しますわ」
「ち、違うんだ! 昨日は混乱していて……!」
カイルは必死な形相で言い募った。
「父上に聞いたんだ。僕の除名処分のこと……。あれは間違いだと。父上が何とかしてくれると」
チラリと騎士団長を見る。 騎士団長は慌てて取り繕った。
「そ、そうです! 息子の書類不備など、些細なミス! 私が責任を持って指導しますので、どうか除名処分だけは……!」
「そして、エリザ」
カイルは私の手を取ろうと手を伸ばした。 レオンがすかさず私の前に立ち、その手を遮る。
「気安く触るな」
「ひっ……! で、殿下、おどきください! これは僕と彼女の問題なんです!」
カイルは叫んだ。
「エリザ! 僕は気づいたんだ! マリアじゃない! 僕に必要なのは君だったんだ!」
会場がざわめく。 元婚約者による、公開復縁要請。 野次馬にとっては最高の見世物だろう。
「マリアは何もできなかった。掃除も、料理も、書類作成も。……でも君は違った。君は完璧だった。君こそが、僕の理想の妻だったんだ!」
カイルは陶酔したように語り続けた。
「やり直そう、エリザ! 僕たちはやり直せる! 僕が騎士団長になり、君がその妻として支える。……そうすれば、フェルゼン家の借金だって、僕の家が肩代わりして……」
「おい、カイル! 借金の肩代わりなど約束していないぞ!」 騎士団長が慌てて訂正するが、カイルの耳には入っていない。
「君だって、まだ僕のことが好きなんだろう? あんなに尽くしてくれたんだから! さあ、殿下の横から離れて、僕のところへおいで!」
カイルは両手を広げた。 まるで、私が感動して飛び込んでくるのを待っているかのように。
(……あぁ)
私は心の底からため息をついた。 (この人は、本当に何も変わっていない。何もわかっていない)
私はレオンの背中から一歩踏み出し、カイルの正面に立った。 そして、今まで見せたことのないような、慈悲深く、そして残酷な笑顔を向けた。
「カイル様。……いいえ、カイルさん」
「エ、エリザ……?」
「貴方のお話は、とても感動的でしたわ。……『自分がいかに無能で、自分勝手か』ということを、これほど雄弁に語れる方はなかなかいらっしゃいませんもの」
「え……?」
「私が完璧だった? 理想の妻? ……笑わせないでください」
私の声が、氷のように会場に響き渡る。
「私が貴方の書類を作っていたのは、貴方が無能だからです。私が貴方の世話をしていたのは、貴方が一人では何もできない子供だからです。……それは『愛』ではなく、『介護』でしたのよ」
「か、介護……?」
「ええ。私はもう、貴方の介護士をするつもりはありません。……それに」
私は振り返り、レオンを見上げた。 レオンは愛おしそうに私を見つめ返してくれる。
「私の隣には今、自分で考え、自分で行動し、そして私を守ってくれる……本物の『男性』がいますので」
「なっ……!」
カイルの顔が歪んだ。 プライドをズタズタにされた屈辱と、怒りで。
「そ、そんな……! 僕だって! 僕だって騎士団長の息子だぞ! 殿下といったって、所詮は次男じゃないか! 僕の方が君を幸せにできる!」
カイルが錯乱して暴言を吐いた。 その瞬間。
「黙れ、下郎」
ドォォォォン……!
レオンから放たれた殺気が、物理的な圧力となってカイルを押し潰した。 カイルは「ぐえっ」と声を漏らし、その場に膝をついた。 騎士団長夫妻も、ガタガタと震えて動けない。
レオンはゆっくりと歩み寄り、カイルを見下ろした。
「……私のことを侮辱するのは構わん。だが」
レオンが剣の柄に手をかけた。
「私の最愛の女性を、その汚い口でこれ以上語るなら……舌を切り落とすぞ?」
「ひぃぃっ……!」
「それと、騎士団長」
レオンの矛先が父親に向く。
「は、はいっ!」
「息子の不始末を揉み消そうとした件、および……過去数年にわたる騎士団予算の横領疑惑。すべて調査済みだ」
「な、ななな……!?」
「フェルゼン伯爵(エリザの父)と結託し、装備品の架空発注を行なっていただろう? 証拠の帳簿は、エリザがすべて保管していた」
私がニッコリと微笑み、懐から一枚の書類(コピー)を取り出して見せた。
「こちらですわ、殿下。……裏帳簿のコピーです」
「ば、馬鹿な! あれは燃やしたはず……!」
「燃やしたのはダミーですわ。本物は、私が厳重に管理しておりましたもの」
騎士団長の顔色が、土気色を通り越して真っ白になった。 「終わりだ」
レオンが衛兵に合図を送る。
「この者たちを捕らえよ! 国家予算横領、および王族への不敬罪だ!」
「ま、待ってください殿下! 私は知らな……!」 「嫌だ! 僕は悪くない! エリザ、助けてくれぇぇ!」
抵抗も虚しく、騎士団長夫妻とカイルは衛兵たちに取り押さえられ、引きずられていった。 カイルの「エリザぁぁぁ!」という情けない叫び声が、扉の向こうに消えるまで、会場は静まり返っていた。
◇
静寂の中、レオンが私に向き直った。 殺気は消え、いつもの優しい瞳に戻っている。
「……怖がらせてすまない、エリザ」
「いいえ。……とても素敵でしたわ」
「そうか。……なら、よかった」
レオンはふっと笑い、そして会場全体に聞こえるように声を張り上げた。
「皆、聞いたな! エリザ・フェルゼン嬢は、私の正式な婚約者だ! 彼女に対する無礼は、このレオンハルトに対する反逆とみなす!」
王子の力強い宣言。 それは、私の「完全勝利」の証だった。
「さあ、エリザ。音楽が止まってしまったな。……もう一度、始めてもらおうか」
レオンが楽団に目配せすると、再びワルツが流れ始めた。 今度は、より華やかで、希望に満ちた旋律だ。
「踊っていただけますか? 私の女神」
「喜んで、私の英雄(ヒーロー)」
私たちは手を取り合い、フロアの中央で踊り始めた。 周囲の貴族たちが、今度こそ心からの(あるいは恐怖からの)拍手を送る。
回転する景色の中で、私はレオンの瞳だけを見つめていた。 過去のしがらみは全て断ち切られた。 実家の家族も、元婚約者も、もう私の人生には何の影響も与えない。
これからは、この人と共に歩んでいく。 新しい、輝かしい未来を。
「……愛してるよ、エリザ」
「私もよ、レオン」
私たちは幸せに包まれながら、夜が明けるまで踊り続けた。
◇
翌日。 王都の新聞の一面を飾ったのは、『フェルゼン伯爵家の没落』と『騎士団長の逮捕』、そして『第二王子と奇跡の令嬢の婚約』というビッグニュースだった。
街の人々は「ざまぁみろ」と喝采を送り、新しいカップルの誕生を祝福した。
そして。 牢獄の中で、かつての家族と元婚約者が、冷たい石の床で身を寄せ合い、「あの時、エリザを大切にしていれば……」と後悔の涙を流していたことは、誰も知らない物語の隅っこのお話。
さて、これにて一件落着……と思いきや。 物語はまだ終わらない。 断罪劇は終わったが、まだ最後の「物理的な制裁」が残っている人物たちがいる。 そう、まだゲストハウスから連行される前に一悶着あった「あの人たち」の顛末と、そして……祖父ギルバート卿による「最後の仕上げ」が。
――次回、『祖父、ブチギレる。「わしの孫を侮辱した罪、万死に値する」……おじい様、物理攻撃はやめてください』。 時間を少し巻き戻し、家族たちが連行される直前の「祖父無双」のエピソードをお届けします。お楽しみに!
その煌びやかな空間が、今、水を打ったように静まり返っていた。
すべての視線が、大扉から現れた二人の男女に注がれている。
一人は、この国の第二王子であり、数々の武勲で知られる英雄、レオンハルト殿下。 漆黒の礼服に身を包み、黄金の髪をなびかせたその姿は、まさに太陽の化身のような輝きを放っている。
そして、その腕に手を添え、優雅に歩を進める女性。 「……まさか、あの方は……」 「フェルゼン家の……エリザ嬢か?」 「追放されたと聞いていたが……なんという美しさだ……」
貴族たちのひそひそ話が、波紋のように広がっていく。
私は背筋をピンと伸ばし、口元には余裕の微笑みを湛えていた。 身につけているのは、レオンが王家御用達のデザイナーに作らせた、真紅のドレスだ。 それは、フェルゼン伯爵家で着せられていた地味な服でも、リゾートで着ていた軽やかなドレスでもない。 王族のパートナーとして立つにふさわしい、重厚かつ洗練されたデザイン。 胸元には、レオンから贈られたアメジストのネックレスが、彼の瞳と同じ色で輝いている。
(……見えるわ)
私は扇子の隙間から、周囲の人々の顔を観察した。 かつて私を「地味な女」「面白みのない女」と嘲笑っていた令嬢たちが、驚愕と嫉妬で顔を歪めている。 私の実務能力を利用するだけ利用して、裏では馬鹿にしていた貴族たちが、信じられないものを見る目で固まっている。
痛快だ。 これまでの人生で、こんなに胸がすく瞬間があっただろうか。
「緊張しているか、エリザ?」
隣を歩くレオンが、小声で囁いてきた。 私は少しだけ彼の方へ顔を傾けた。
「いいえ。……むしろ、ワクワクしていますわ」
「はは、頼もしいな。……さあ、彼らに『格』の違いを見せつけてやろう」
レオンは私の手を強く握り、玉座の前まで進んだ。 そこには、国王陛下と王妃殿下が座しておられる。
「父上、母上。……ただいま戻りました」
レオンが深く一礼する。私もそれに倣い、完璧なカーテシーを披露した。 国王陛下は、厳めしい顔を緩めて頷かれた。
「うむ。大儀であった、レオンハルト。……そして、そなたが噂のエリザ・フェルゼン嬢か」
「はい、陛下。お目にかかれて光栄です」
「ギルバート(辺境伯)から手紙が届いておる。『わしの自慢の孫娘を泣かせたら、王都に隕石を落とす』とな」
「ぶっ……」
会場のどこかで誰かが吹き出す音がした。 おじい様、脅迫状を送るのはやめてください。
「ははは! あの頑固者のギルバートがそこまで言うとはな。……よい。楽にするがよい。今宵は祝いの席だ」
国王陛下の許可を得て、私たちは振り返り、貴族たちの方を向いた。 その瞬間、まるで堰を切ったように人々が押し寄せてきた。
「おお、レオンハルト殿下! ご帰還おめでとうございます!」 「エリザ様! お美しい! 以前から私は、貴女様の才能に気づいておりましたぞ!」 「エリザ様、今度ぜひ我が家のお茶会に……!」
手のひら返し。 見事なまでの変わり身の早さだ。 特に、かつて私に仕事を押し付けていた財務大臣の太った夫人が、揉み手をして近づいてきたのには失笑を禁じ得なかった。
「あら、エリザ様ぁ。お久しぶりですわねぇ。あの時は誤解があって……これからは仲良くしましょうねぇ」
「……ごきげんよう、夫人」
私は扇子で口元を隠し、氷点下の視線を送った。
「『あの時』とは、いつのことでしょうか? 私、自分にとって価値のない人間のことは、記憶しない主義でして」
「ひっ……」
「それに、私のドレスに触れないでくださいます? 安物の香水の匂いが移りますから」
夫人は顔を真っ赤にして後ずさった。 周囲からクスクスと笑い声が漏れる。 もう、私は誰にも媚びない。 嫌なものは嫌と言い、敵は容赦なく切り捨てる。それが、レオンの隣に立つ者の流儀だ。
◇
パーティーが中盤に差し掛かった頃。 人垣が割れ、一組の集団がこちらへ近づいてきた。
軍服を着た大柄な男と、派手なドレスの女。 そして、その二人に両腕を掴まれ、引きずられるようにして歩く、青白い顔の青年。
「……来たか」
レオンが不快そうに目を細めた。 現れたのは、騎士団長夫妻と――その息子、カイルだった。
カイルは昨日のボロボロの姿から一変、清潔な礼服を着せられ、髪も整えられていた。 しかし、その瞳は虚ろで、まるで魂が抜けた人形のようだ。 父親である騎士団長に小突かれ、ハッとしたように顔を上げた。
「レ、レオンハルト殿下……。ご帰還、お慶び申し上げます……」
騎士団長が脂汗を流しながら頭を下げる。 その横で、カイルもぎこちなく礼をした。
「……何の用だ、騎士団長」
レオンの声は冷たい。 「はっ! いえ、その……息子のカイルが、どうしても殿下とエリザ嬢にご挨拶したいと申しまして……」
騎士団長はカイルの背中をバシッと叩いた。 「おい、言え! 練習した通りに!」
カイルはビクッと震え、私を見た。 その目に、微かな光が戻る。 それは「希望」という名の、あまりにも身勝手な光だった。
「……エリザ」
カイルが一歩前に出た。
「エリザ、会いたかった……」
「……カイル様」
私は無表情で返した。
「ごきげんよう。昨日の今日で、よくもまあ顔を出せましたわね。その神経の図太さだけは感心しますわ」
「ち、違うんだ! 昨日は混乱していて……!」
カイルは必死な形相で言い募った。
「父上に聞いたんだ。僕の除名処分のこと……。あれは間違いだと。父上が何とかしてくれると」
チラリと騎士団長を見る。 騎士団長は慌てて取り繕った。
「そ、そうです! 息子の書類不備など、些細なミス! 私が責任を持って指導しますので、どうか除名処分だけは……!」
「そして、エリザ」
カイルは私の手を取ろうと手を伸ばした。 レオンがすかさず私の前に立ち、その手を遮る。
「気安く触るな」
「ひっ……! で、殿下、おどきください! これは僕と彼女の問題なんです!」
カイルは叫んだ。
「エリザ! 僕は気づいたんだ! マリアじゃない! 僕に必要なのは君だったんだ!」
会場がざわめく。 元婚約者による、公開復縁要請。 野次馬にとっては最高の見世物だろう。
「マリアは何もできなかった。掃除も、料理も、書類作成も。……でも君は違った。君は完璧だった。君こそが、僕の理想の妻だったんだ!」
カイルは陶酔したように語り続けた。
「やり直そう、エリザ! 僕たちはやり直せる! 僕が騎士団長になり、君がその妻として支える。……そうすれば、フェルゼン家の借金だって、僕の家が肩代わりして……」
「おい、カイル! 借金の肩代わりなど約束していないぞ!」 騎士団長が慌てて訂正するが、カイルの耳には入っていない。
「君だって、まだ僕のことが好きなんだろう? あんなに尽くしてくれたんだから! さあ、殿下の横から離れて、僕のところへおいで!」
カイルは両手を広げた。 まるで、私が感動して飛び込んでくるのを待っているかのように。
(……あぁ)
私は心の底からため息をついた。 (この人は、本当に何も変わっていない。何もわかっていない)
私はレオンの背中から一歩踏み出し、カイルの正面に立った。 そして、今まで見せたことのないような、慈悲深く、そして残酷な笑顔を向けた。
「カイル様。……いいえ、カイルさん」
「エ、エリザ……?」
「貴方のお話は、とても感動的でしたわ。……『自分がいかに無能で、自分勝手か』ということを、これほど雄弁に語れる方はなかなかいらっしゃいませんもの」
「え……?」
「私が完璧だった? 理想の妻? ……笑わせないでください」
私の声が、氷のように会場に響き渡る。
「私が貴方の書類を作っていたのは、貴方が無能だからです。私が貴方の世話をしていたのは、貴方が一人では何もできない子供だからです。……それは『愛』ではなく、『介護』でしたのよ」
「か、介護……?」
「ええ。私はもう、貴方の介護士をするつもりはありません。……それに」
私は振り返り、レオンを見上げた。 レオンは愛おしそうに私を見つめ返してくれる。
「私の隣には今、自分で考え、自分で行動し、そして私を守ってくれる……本物の『男性』がいますので」
「なっ……!」
カイルの顔が歪んだ。 プライドをズタズタにされた屈辱と、怒りで。
「そ、そんな……! 僕だって! 僕だって騎士団長の息子だぞ! 殿下といったって、所詮は次男じゃないか! 僕の方が君を幸せにできる!」
カイルが錯乱して暴言を吐いた。 その瞬間。
「黙れ、下郎」
ドォォォォン……!
レオンから放たれた殺気が、物理的な圧力となってカイルを押し潰した。 カイルは「ぐえっ」と声を漏らし、その場に膝をついた。 騎士団長夫妻も、ガタガタと震えて動けない。
レオンはゆっくりと歩み寄り、カイルを見下ろした。
「……私のことを侮辱するのは構わん。だが」
レオンが剣の柄に手をかけた。
「私の最愛の女性を、その汚い口でこれ以上語るなら……舌を切り落とすぞ?」
「ひぃぃっ……!」
「それと、騎士団長」
レオンの矛先が父親に向く。
「は、はいっ!」
「息子の不始末を揉み消そうとした件、および……過去数年にわたる騎士団予算の横領疑惑。すべて調査済みだ」
「な、ななな……!?」
「フェルゼン伯爵(エリザの父)と結託し、装備品の架空発注を行なっていただろう? 証拠の帳簿は、エリザがすべて保管していた」
私がニッコリと微笑み、懐から一枚の書類(コピー)を取り出して見せた。
「こちらですわ、殿下。……裏帳簿のコピーです」
「ば、馬鹿な! あれは燃やしたはず……!」
「燃やしたのはダミーですわ。本物は、私が厳重に管理しておりましたもの」
騎士団長の顔色が、土気色を通り越して真っ白になった。 「終わりだ」
レオンが衛兵に合図を送る。
「この者たちを捕らえよ! 国家予算横領、および王族への不敬罪だ!」
「ま、待ってください殿下! 私は知らな……!」 「嫌だ! 僕は悪くない! エリザ、助けてくれぇぇ!」
抵抗も虚しく、騎士団長夫妻とカイルは衛兵たちに取り押さえられ、引きずられていった。 カイルの「エリザぁぁぁ!」という情けない叫び声が、扉の向こうに消えるまで、会場は静まり返っていた。
◇
静寂の中、レオンが私に向き直った。 殺気は消え、いつもの優しい瞳に戻っている。
「……怖がらせてすまない、エリザ」
「いいえ。……とても素敵でしたわ」
「そうか。……なら、よかった」
レオンはふっと笑い、そして会場全体に聞こえるように声を張り上げた。
「皆、聞いたな! エリザ・フェルゼン嬢は、私の正式な婚約者だ! 彼女に対する無礼は、このレオンハルトに対する反逆とみなす!」
王子の力強い宣言。 それは、私の「完全勝利」の証だった。
「さあ、エリザ。音楽が止まってしまったな。……もう一度、始めてもらおうか」
レオンが楽団に目配せすると、再びワルツが流れ始めた。 今度は、より華やかで、希望に満ちた旋律だ。
「踊っていただけますか? 私の女神」
「喜んで、私の英雄(ヒーロー)」
私たちは手を取り合い、フロアの中央で踊り始めた。 周囲の貴族たちが、今度こそ心からの(あるいは恐怖からの)拍手を送る。
回転する景色の中で、私はレオンの瞳だけを見つめていた。 過去のしがらみは全て断ち切られた。 実家の家族も、元婚約者も、もう私の人生には何の影響も与えない。
これからは、この人と共に歩んでいく。 新しい、輝かしい未来を。
「……愛してるよ、エリザ」
「私もよ、レオン」
私たちは幸せに包まれながら、夜が明けるまで踊り続けた。
◇
翌日。 王都の新聞の一面を飾ったのは、『フェルゼン伯爵家の没落』と『騎士団長の逮捕』、そして『第二王子と奇跡の令嬢の婚約』というビッグニュースだった。
街の人々は「ざまぁみろ」と喝采を送り、新しいカップルの誕生を祝福した。
そして。 牢獄の中で、かつての家族と元婚約者が、冷たい石の床で身を寄せ合い、「あの時、エリザを大切にしていれば……」と後悔の涙を流していたことは、誰も知らない物語の隅っこのお話。
さて、これにて一件落着……と思いきや。 物語はまだ終わらない。 断罪劇は終わったが、まだ最後の「物理的な制裁」が残っている人物たちがいる。 そう、まだゲストハウスから連行される前に一悶着あった「あの人たち」の顛末と、そして……祖父ギルバート卿による「最後の仕上げ」が。
――次回、『祖父、ブチギレる。「わしの孫を侮辱した罪、万死に値する」……おじい様、物理攻撃はやめてください』。 時間を少し巻き戻し、家族たちが連行される直前の「祖父無双」のエピソードをお届けします。お楽しみに!
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あっけなく信じるルークに呆れつつも、ヴィオラに不安はなかった。
これからの顛末も、打開策も全て知っているからだ。
前世の記憶を持ち、ここが物語の世界だと知るヴィオラは……悲運な運命を受け入れて彼らに意趣返す。
ふりかかる不幸を全て覆して、幸せな人生を歩むため。
◇◇◇◇◇
設定は甘め。
不安のない、さっくり読める物語を目指してます。
良ければ読んでくだされば、嬉しいです。
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