悪役令嬢ですが、二度目は無能で通します……なので執事は黙っててください

放浪人

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第12話 無能の手

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(視点:リディア)

やってしまった。
後悔と自己嫌悪で、胃のあたりが重い。
採掘場の事務所を出る時、私はわざとインクをこぼし、帳簿の不自然な箇所をレージに教えた。

あんな子供騙しの演技、彼に通じないわけがない。
彼はすぐに私の意図を察し、帳簿の数字を読み取った。
その時の彼の一瞬の視線。
『余計なことを』という叱責(しっせき)ではなく、『なぜそこまで』という悲しみを含んだ目。

(黙って見過ごせばよかったのに)

無能を演じると決めたのだから、横領など気づかないふりをして、バルドが逃げ切るのを見ていればよかったのだ。
けれど、あの帳簿を見た瞬間、体が勝手に動いていた。
数字が合わない気持ち悪さ。
そして何より、公爵家の資産が食い物にされていることへの生理的な嫌悪感。
かつて領地経営に命を削った記憶が、私を突き動かしてしまった。

帰りの馬車の中、沈黙が重くのしかかる。
レージは向かいの席で、静かに手袋を直している。
その動作の一つ一つが、カチリカチリと時計の針のように正確で、私の逃げ場を削っていくようだ。

「……リディア様」

名前を呼ばれただけで、肩が跳ねる。

「はい」

「先ほどのインク。……見事な手際でした」

皮肉だろうか。それとも称賛だろうか。
彼の声からは感情が読み取れない。
ただ、近い。
いつの間にか彼が席を立ち、私のすぐ隣に座り込んでいた。

「あそこまで露骨に示されれば、バルドも言い逃れはできません。過去三ヶ月分の採掘量と出荷量のズレ。それを隠すための二重帳簿。……あなたは、一瞬でそれを見抜かれた」

「……ぐ、偶然よ。手が滑っただけ」

「ええ、偶然でしょう。リディア様は数字が苦手で、経営になど興味がない。……そういうことにしておきます」

彼は私の耳元に顔を寄せ、囁くように言った。
吐息がかかる距離。
その熱さが、冷え切った私の耳を焦がす。

「ですが、あまり無理はなさいませんように。あなたが賢さを見せれば見せるほど、敵は警戒し、より深く潜ります」

「……っ」

「汚れ役は私が引き受けます。あなたはただ、綺麗な無能な人形のままでいてください」

それは警告であり、懇願だった。
彼は私の手を取り、インクの染みがわずかに残る指先を、自身の手袋で覆い隠す。
守られている。
けれど、それは同時に「檻」の中に閉じ込められているようでもあった。

「……レージは、私が邪魔?」

思わず漏れた問いに、彼は少しだけ目を見開いた。
そして、すぐに優雅に首を横に振る。

「滅相もございません。ただ……」

彼は言葉を切り、視線を私の指先から、窓の外の雪景色へと移した。

「あなたが傷つくのを、これ以上見たくないだけです」

その横顔が、ひどく寂しげに見えて。
私は「黙って」という言葉を飲み込んだ。
この人は、私の嘘を暴かない代わりに、私の真実も許さない。
無能という嘘で守られる安寧と、有能さを使ってでも何かを変えたい衝動。
その狭間で、私は身動きが取れなくなっていた。

「……わかったわ。もう何もしない」

私は嘘をついた。
また、右の口角が上がるのを感じながら。
レージはそれを見ても何も言わず、ただ静かに「黙っております」とだけ返した。

馬車が揺れる。
私の手は、彼の手袋の中で温められ続けていたが、心臓だけが冷たい雪の中に置き去りにされたように震えていた。
この完璧な執事は、優しい顔をして、私の退路を一つずつ確実に消している。
それが一番、怖かった。
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