君がため、滝を昇らん

娑婆聖堂

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第一話 滝

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 セミの声が強まる初夏の頃であった。田のイネは水と陽光を存分に吸い、大地の引力に抗して背を伸ばす。川を通じて海からさかのぼる風は、その幼子たちを慈しむかのようにそよいでいるのであった。
 川の幅は十間18mほど。大人でも足がつかない深さである。不思議なことに河原と呼べるようなものがなく、斜面を剣で割ったように急に深くなっていた。水は驚くほど澄んでいて、水中で踊る魚の背びれまで見える。流れが速く水深が深いためであろうか、カエルや水棲の虫の類は見受けられない。

 草花が緑の絨毯を作る川の横を、流れに逆らって行くと、降り落ちる水の塊が見える。滝であった。滝つぼの至近から見上げると首が痛くなりそうな瀑布は、轟く音と共に水晶のようなしぶきを散らす。3里先からでも見える堂々たる姿は、夏の日差しを反射して輝く柱のよう。
 この滝もまた不思議である。山の樹々から垂れる雫が水の筋となり、筋が集まって流れを作り、流れが合流すると川となる。その川が断崖に達すると、そのきざはしからあふれて滝と呼ばれることになるのだ。それが自然であり、道理というものである。
 しかしてこの滝には元となる川が無い。川の元となる山が無い。あるのは平野の内に孤立する苔むした大岩である。小山のようにでんとそびえる碧の大岩には草木が萌え、その周りには人の胴ほどの縄が張られて、ここが禁足の地であることを示していた。その卵型の大岩のてっぺんから、川一つを満たす水量が絶えず湧き出しているのだ。

 その荘厳にして神秘を湛える清水の御柱に、一点の影があった。水面より人ひとり分は離れた位置でもがくその影は、人の形をしている。あり得るはずもないことだ。無論人の身では、滝どころか川の流れに逆らう事さえ難しいであろう。しかし確かにその影は人であり、落ち来る水を蹴立てて瀑布を這い上がっているのだ。
 滝つぼの周りには村中の人間が集い、その奇跡とも幻ともつかぬ現象を見守っている。人が滝を昇ることに驚いている様子はない。ただ、神事に立ち会うかのように真剣に、固唾をのんで見つめている。

「昇ったぞ」

「ここまでは、まず、よいな」

「成るのか?」

「向こうの山一番の丈夫だそうだ。あれでだめなら」

「次はイナバか」

「成ってくれ。成ってくれよ」

「成れ!」

「龍に成れ!」


 人影が滝の半ばまで上がる。遅々とした歩みだが、確かに滝を昇っていた。
 唐突に、水を下に送り込んでいた影の手足が、凍ったように止まった。網に揚げられた魚の様に体を曲げ、既に遥か下方にある下界を向く。

 人影が滝からはじき出された。

「あっ!」

 どこからか抑えた悲鳴が上がる。


 真白いしぶきにまかれ、大柄な男が滝から落ちる。まっすぐ、大地に帰るように。幾条もの虹が帯の様にかかり、男を空に留めようとするが、光の布に人を救う力は無い。
 滝つぼに沈んだ男を、しかし助けようとする者はいない。無駄であることが分かり切っているからだ。滝から落ちれば命は無い。それは絶対の法則である。滝に入った者の運命は二つに一つ。龍となって天に昇るか、力尽きて黄泉に落ちるか。
 いずれにせよ、人の世に戻る可能性は絶無である。

「だめか……」

「まただめだった……」

「次は我らだ」

「イナバの村から龍を出さねば」

「今度こそ、龍を」


 沈痛な面持ちで村人たちが話し合う。龍がいなければ、イナバの村だけではない、オオヤシマ66か国の内の一つ、イナバの国全体が神々の猛威から無防備になる。それは大きな悲劇を意味していた。
 そしてその大きな悲劇とは比べ物にならぬ小さな、しかし確かな悲劇が、小さな村を覆っていた。川から人が浮かび上がる。もはや動くことはない。神職のものが引き上げて、故郷に葬られることになるだろう。水も、風も、雲も、変わらず流れ続ける。眩しすぎる初夏の、とある日のことであった。

 人は滝を昇れば龍となる。成れねば死あるのみ。それが世界の法であった。 
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