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-重く消えない記憶(メモリア)-
Episode20 -8月7日-
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悪夢から目が覚めた時、双葉の目はまだ覚めていなかった。
隣にいたお母さんはもういない。仕事に行ったか、1回家に帰ったのだろう。
病室で、双葉の真っ黒く濁った心は、浄化されると良いのだが、実際それはどうなるか分からない。
一時的にでも回復してくれたら、私は何よりも嬉しいだろう。
私は、双葉の動かない手をそっと握りしめた。夢で見た、あの冷たい川の感触がまだ指先に残っている。あれがただの悪夢なら、どんなに良かっただろう。
けれど、2日前に示された「理」と、父の手帳に刻まれた「14年前の契約」。それらが、私の見た映像をただの夢ではなく、「確定した結末」として突きつけてくる。
蒼葉「……待っててね、双葉。お姉ちゃんが、絶対にあっちの世界には行かせないから」
私はお母さんへ「病院にいるのが辛いから、一度冬姫の家に行く」と短いメッセージを残し、逃げるように病室を飛び出した。
朝日が昇り始めた街は、昨日までと同じ顔をして私を迎える。
けれど、私の目には街を覆う空気が、微かに歪んだ「泡」の集合体に見え始めていた。
病院から走って、冬姫の家へと向かう。でも、実際言うとここがどこなのかは、あまりよくわからない。
私はスマホのマップを頼りに、冬姫の家へと向かうことにした。
蒼葉(双葉……お願いだから危ないことはしないでね……)
私は、心の中でそう願っていた。
-✳-
冬姫の家は、相変わらず静まり返っていた。しかし、部屋の奥からはパソコンの微かな駆動音と、古書をめくる乾いた音が聞こえてくる。
私が踏み込むと、冬姫は顔を上げず、デスクに広げられた複数の資料を指差した。
冬姫「おかえり。……ちょうどいいタイミング。医学的な数値ではないけれど、一つ、確信に近い『考察』に辿り着いたの」
彼女の目は、心なしか以前よりも鋭く、どこか底知れない光を宿しているように見えた。私は唾を飲み込み、彼女の隣に座る。
蒼葉「……双葉を救うための、ヒントになるの?」
冬姫「それは、あなた次第よ。……いい、蒼葉。今まで私たちは『蝶』を、体を蝕む病や、遺伝的な欠陥として捉えてきた。でも、この街に残る古い記述や、あなたのお父さんの手帳を照らし合わせると、別の姿が見えてくるの」
冬姫は、一枚の古い図解を私に見せた。そこには、円環を描いて舞う蝶と、その中心に座る巫女のような人影が描かれていた。
冬姫「蝶はね、肉体を食べているんじゃない。……『記憶の重さ』を食べているの」
蒼葉「記憶の……重さ?」
冬姫「そう。正確には、その人が抱える『過去への執着』や『純粋すぎる愛』。蝶にとって、それは最高の苗床になる。……双葉があれほど急激に悪化したのは、彼女自身の精神が折れたからだけじゃない。彼女の中に、他人の手に負えないほど巨大な『後悔』が根付いてしまったからよ」
冬姫は淡々と、けれど残酷な事実を突きつけるように言葉を重ねた。
冬姫「医学的に言えば、拒食や嘔吐は内臓の疾患。でも私の考察では、それは『人間としての時間の拒絶』。双葉は、今この瞬間を生きることを体が拒んでいるの。代わりに、蝶が彼女を『完成』へと導いている……。つまり、彼女を連れ去ろうとしているあの『花畑』は、死後の世界なんかじゃない。『誰かの強い未練が作り上げた、終わらない過去』そのものなのよ」
私は、あの日の夢で見たあの景色を思い出した。あの青空と白い花。あれは、誰かの後悔が形になった場所だったのか。
蒼葉「……じゃあ、どうすれば双葉を引き留められるの?」
冬姫「方法は一つ。……その蝶の『興味』を、別の対象に移すこと。蝶が求めているのは、より純度の高い、狂気にも似た『愛』。もし、双葉よりも深い絶望を抱え、彼女以上に過去に縛られている人間が隣にいれば、蝶はそちらを新たな主人として選ぶ可能性がある」
冬姫が初めて私を直視した。その瞳は、私の心の奥にある「代わりになりたい」という歪んだ願望を見透かしているようだった。
冬姫「でも、それは医学では推奨されない『禁忌』。蝶を自分に引き寄せるということは、あなたが双葉の代わりに、永遠の過去に囚われることを意味するわ。……蒼葉、あなたはそれでも、彼女の『影』を背負うつもり?」
冬姫の言葉は、助言というよりも、悪魔の誘いのようだった。
けれど、私の心に迷いはなかった。夢で見た、あの川へ落ちていく双葉の背中を救えるなら、私は喜んで蝶の苗床にでも、地獄の住人にでもなってやる。
蒼葉「……分かってる。冬姫、教えてくれてありがとう」
私の声は、自分でも驚くほど冷たく、そして静かだった。
かつてポンコツで天然だった冬姫から、考えられないほど詳しい情報を聞けた。
あとは、私自身が双葉を救うだけ。
私が、冬姫の部屋を出て、楓くんに電話をしようとしたその瞬間、足元に写真が散らばっているのを見つけた。
蒼葉「…ん?何これ…?」
拾い上げた写真に写っていたのは、今の冬姫からは想像もつかない、あどけない表情の少女だった。
まだ幼い冬姫。少しサイズが大きな白いワンピースを着て、口元には食べかけのアイスがついている。カメラに向かって、今にも転びそうな不安定な足取りで、満面の笑みを浮かべていた。
蒼葉「……っ、ふふ。何これ、可愛い……。冬姫、これ……」
私が写真を見せびらかすと、後ろで難解な文献を漁っていた冬姫が、弾かれたように振り返った。彼女の顔が、見る間に耳まで真っ赤に染まっていく。
双葉「ちょ、ちょっと! 蒼葉、見ないで! それは……その、昔の荷物に紛れ込んでただけで……!」
慌てて写真を奪い取ろうとする冬姫。かつての、あの「ポンコツで天然」だった頃の彼女そのものの反応に、私は一瞬だけ、この地獄のような現実を忘れそうになった。
蒼葉「全然変わってないね、冬姫。この時も、今も」
冬姫「……うるさい。もう、からかわないで」
冬姫はぷいと顔を背けたが、奪い取った写真を大切そうに胸に抱えた。
けれど、すぐに彼女は真剣な、少しだけ寂しそうな顔に戻り、私を真っ直ぐに見つめた。
冬姫「ねえ、蒼葉。お願いがあるの。……研究のために、双葉ちゃんの小さい頃の写真をくれないかしら?」
蒼葉「双葉の、写真……?」
冬姫「ええ。蝶に『記憶』を食わせるための、触媒として使うの。なるべく、彼女が一番幸せだった頃、そして……あなたとの絆が一番強かった時のものを」
冬姫の言葉に、胸の奥がチクリと痛んだ。
幸せだった頃の記憶を、蝶を騙すための「餌」にする。それは、大切な思い出を汚すような、罪悪感を伴う行為だった。
蒼葉「……分かった。家に戻ったら、一番いいのを探して持ってくるね」
私は、冬姫に背を向けた。写真の中の、あの無邪気な冬姫。
そして、アルバムの中に閉じ込められたままの、笑っている双葉。
二人の笑顔を守るためなら、私はどんな「思い出」だって差し出してみせる。
冬姫の家を出た私の指先は、スマホの画面で「楓くん」の名前を探していた。
蒼葉「もしもし、楓くん?」
楓「お、蒼葉か。蒼葉から電話かけてくるなんて珍しいな。何かあったのか?双葉ちゃんのこと?」
蒼葉「うん、冬姫から新しい情報幾つか聞いてね……それで……」
楓「それで…どうしたんだ?」
蒼葉「……ううん、なんでもない。それじゃ話すね」
私は、冬姫から教えてもらった双葉の余命について、新しい蝶に関する情報を全て楓くんに伝えた。
楓「なるほどな……なぁ蒼葉、今から双葉ちゃんに会うことはできるか?」
蒼葉「あ、うん…!いいよ、今から私も行こうとしてたところだし。一緒に行こ?」
楓「分かった。すぐに向かうよ。病院の前で待ち合わせしよう」
楓くんの心強い声に、私は少しだけ震える指で通話を切った。冬姫から聞いた「新しい蝶」の情報、それが何を意味するのか、まだ整理はついていない。けれど、何かが動き出そうとしている予感だけがあった。
病院の白い廊下を、楓くんと並んで歩く。独特の消毒液の匂いが鼻をつき、私の鼓動は早まるばかりだった。
楓「……大丈夫だ。双葉ちゃんなら、きっと」
楓くんが私を元気づけるように、無理に作ったのではない、少しだけ柔らかな笑顔を見せてくれた。その優しさに頷き、私は病室のドアに手をかけた。
蒼葉「双葉、失礼するよ……っ」
言葉が、喉の奥で止まった。ベッドの上で、白いカーテン越しに差し込む夕日を浴びて、一人の少女が体を起こしていた。
双葉「……あ、お姉ちゃん」
ずっと、ずっと、深い眠りの底にいたはずの双葉が、私を見ていた。
数日前まで土気色だった顔には、奇跡のようにほんのりと赤みが差している。サイドテーブルには、空になったゼリーのカップが置かれていた。
蒼葉「双葉……っ、双葉なの!? 目が覚めたのね、本当に……っ!」
私は、双葉の元へ駆け寄り、彼女の細い肩を抱きしめた。温かい。ちゃんと、命の熱が伝わってくる。
双葉「ちょっと、お姉ちゃん、苦しいってば……。もう、大げさなんだから」
双葉は呆れたように笑い、けれどその瞳にも薄っすらと涙が浮かんでいた。私はもう、言葉にならなくて、ただただ子供のように号泣してしまった。
そんな私を宥めようとする双葉が、ふと、私の後ろに立つ人物に気づいて目を見開いた。
双葉「げっ……お兄ちゃん。なんであんたまで来てるのよ」
楓くんの姿を見た瞬間、双葉の頬がさっきとは違う理由で朱に染まった。
楓「……久しぶりだな、双葉ちゃん。顔色が良くなって安心したよ」
双葉「別に、あんたに見せるために良くなったわけじゃないし! ……ったく、お姉ちゃんが泣き虫なのは、あんたがちゃんと支えてないからじゃないの?」
あの頃と変わらない、強気でツンデレな口調。楓くんは困ったように笑い、私はその光景があまりに懐かしくて、涙を拭いながら笑みをこぼした。
少し落ち着いた頃、双葉が思い出したように私の袖を引いた。
双葉「ねえ、お姉ちゃん。ゼリー食べたら喉乾いちゃった。売店で『イチゴオレ』買ってきて。一番甘いやつね」
双葉「イチゴオレ? うん、分かった。すぐ買ってくるね」
私は幸せな気持ちで病室を飛び出した。エレベーターを待つ間も、スキップしたいような気分だった。
売店で冷えたイチゴオレを手に取り、病室に戻ると、ちょうど楓くんが「じゃあ、俺は今日は帰るな。また明日来るよ」と双葉に声をかけているところだった。
双葉「お兄ちゃん、またね」
双葉の少し照れくさそうな声を見送り、楓くんが廊下へ消えていく。
私は買ってきたイチゴオレを双葉に手渡そうとした。その時だった。
双葉「……っ、い、た……」
双葉の手が、受け取ろうとしたイチゴオレを弾いた。
蒼葉「双葉? どうしたの?」
見ると、双葉は青ざめた顔で自分の腹部を強く押さえていた。
双葉「な、なんか……急に、お腹が……。う、あぁっ!」
最初は「冷たいゼリーでも食べたから、食あたりかな?」なんて軽く考えていたのかもしれない。けれど、双葉の表情は一瞬で苦悶に歪み、額からは尋常ではない量の汗が吹き出した。
蒼葉「双葉! 双葉、しっかりして!」
双葉「い、たい……っ、お姉ちゃん……助けて……あ、あぁぁぁ!!」
双葉はベッドの上でのたうち回り、必死に痛みを堪えようとしている。
けれど、その苦痛は次第に強まり、ついには声にならない悲鳴となって彼女を襲った。
蒼葉「誰か! 誰か来てください!」
私はパニックになり、震える手で何度も、何度もナースコールを叩きつけるように押した。
バタバタと廊下を走る足音が聞こえ、数人の看護師と医師が病室になだれ込んでくる。
看護師「双葉ちゃん! 分かる!? どこが痛むの!」
医師「呼吸確保! ストレッチャー用意して、今すぐ検査室へ!」
意識が混濁し始めた双葉が、酸素マスクをつけられ、慌ただしく運び出されていく。
さっきまで笑ってイチゴオレを欲しがっていた彼女の姿は、もうどこにもなかった。
私は、廊下に一人取り残され、床に転がったままのイチゴオレのパックを、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
隣にいたお母さんはもういない。仕事に行ったか、1回家に帰ったのだろう。
病室で、双葉の真っ黒く濁った心は、浄化されると良いのだが、実際それはどうなるか分からない。
一時的にでも回復してくれたら、私は何よりも嬉しいだろう。
私は、双葉の動かない手をそっと握りしめた。夢で見た、あの冷たい川の感触がまだ指先に残っている。あれがただの悪夢なら、どんなに良かっただろう。
けれど、2日前に示された「理」と、父の手帳に刻まれた「14年前の契約」。それらが、私の見た映像をただの夢ではなく、「確定した結末」として突きつけてくる。
蒼葉「……待っててね、双葉。お姉ちゃんが、絶対にあっちの世界には行かせないから」
私はお母さんへ「病院にいるのが辛いから、一度冬姫の家に行く」と短いメッセージを残し、逃げるように病室を飛び出した。
朝日が昇り始めた街は、昨日までと同じ顔をして私を迎える。
けれど、私の目には街を覆う空気が、微かに歪んだ「泡」の集合体に見え始めていた。
病院から走って、冬姫の家へと向かう。でも、実際言うとここがどこなのかは、あまりよくわからない。
私はスマホのマップを頼りに、冬姫の家へと向かうことにした。
蒼葉(双葉……お願いだから危ないことはしないでね……)
私は、心の中でそう願っていた。
-✳-
冬姫の家は、相変わらず静まり返っていた。しかし、部屋の奥からはパソコンの微かな駆動音と、古書をめくる乾いた音が聞こえてくる。
私が踏み込むと、冬姫は顔を上げず、デスクに広げられた複数の資料を指差した。
冬姫「おかえり。……ちょうどいいタイミング。医学的な数値ではないけれど、一つ、確信に近い『考察』に辿り着いたの」
彼女の目は、心なしか以前よりも鋭く、どこか底知れない光を宿しているように見えた。私は唾を飲み込み、彼女の隣に座る。
蒼葉「……双葉を救うための、ヒントになるの?」
冬姫「それは、あなた次第よ。……いい、蒼葉。今まで私たちは『蝶』を、体を蝕む病や、遺伝的な欠陥として捉えてきた。でも、この街に残る古い記述や、あなたのお父さんの手帳を照らし合わせると、別の姿が見えてくるの」
冬姫は、一枚の古い図解を私に見せた。そこには、円環を描いて舞う蝶と、その中心に座る巫女のような人影が描かれていた。
冬姫「蝶はね、肉体を食べているんじゃない。……『記憶の重さ』を食べているの」
蒼葉「記憶の……重さ?」
冬姫「そう。正確には、その人が抱える『過去への執着』や『純粋すぎる愛』。蝶にとって、それは最高の苗床になる。……双葉があれほど急激に悪化したのは、彼女自身の精神が折れたからだけじゃない。彼女の中に、他人の手に負えないほど巨大な『後悔』が根付いてしまったからよ」
冬姫は淡々と、けれど残酷な事実を突きつけるように言葉を重ねた。
冬姫「医学的に言えば、拒食や嘔吐は内臓の疾患。でも私の考察では、それは『人間としての時間の拒絶』。双葉は、今この瞬間を生きることを体が拒んでいるの。代わりに、蝶が彼女を『完成』へと導いている……。つまり、彼女を連れ去ろうとしているあの『花畑』は、死後の世界なんかじゃない。『誰かの強い未練が作り上げた、終わらない過去』そのものなのよ」
私は、あの日の夢で見たあの景色を思い出した。あの青空と白い花。あれは、誰かの後悔が形になった場所だったのか。
蒼葉「……じゃあ、どうすれば双葉を引き留められるの?」
冬姫「方法は一つ。……その蝶の『興味』を、別の対象に移すこと。蝶が求めているのは、より純度の高い、狂気にも似た『愛』。もし、双葉よりも深い絶望を抱え、彼女以上に過去に縛られている人間が隣にいれば、蝶はそちらを新たな主人として選ぶ可能性がある」
冬姫が初めて私を直視した。その瞳は、私の心の奥にある「代わりになりたい」という歪んだ願望を見透かしているようだった。
冬姫「でも、それは医学では推奨されない『禁忌』。蝶を自分に引き寄せるということは、あなたが双葉の代わりに、永遠の過去に囚われることを意味するわ。……蒼葉、あなたはそれでも、彼女の『影』を背負うつもり?」
冬姫の言葉は、助言というよりも、悪魔の誘いのようだった。
けれど、私の心に迷いはなかった。夢で見た、あの川へ落ちていく双葉の背中を救えるなら、私は喜んで蝶の苗床にでも、地獄の住人にでもなってやる。
蒼葉「……分かってる。冬姫、教えてくれてありがとう」
私の声は、自分でも驚くほど冷たく、そして静かだった。
かつてポンコツで天然だった冬姫から、考えられないほど詳しい情報を聞けた。
あとは、私自身が双葉を救うだけ。
私が、冬姫の部屋を出て、楓くんに電話をしようとしたその瞬間、足元に写真が散らばっているのを見つけた。
蒼葉「…ん?何これ…?」
拾い上げた写真に写っていたのは、今の冬姫からは想像もつかない、あどけない表情の少女だった。
まだ幼い冬姫。少しサイズが大きな白いワンピースを着て、口元には食べかけのアイスがついている。カメラに向かって、今にも転びそうな不安定な足取りで、満面の笑みを浮かべていた。
蒼葉「……っ、ふふ。何これ、可愛い……。冬姫、これ……」
私が写真を見せびらかすと、後ろで難解な文献を漁っていた冬姫が、弾かれたように振り返った。彼女の顔が、見る間に耳まで真っ赤に染まっていく。
双葉「ちょ、ちょっと! 蒼葉、見ないで! それは……その、昔の荷物に紛れ込んでただけで……!」
慌てて写真を奪い取ろうとする冬姫。かつての、あの「ポンコツで天然」だった頃の彼女そのものの反応に、私は一瞬だけ、この地獄のような現実を忘れそうになった。
蒼葉「全然変わってないね、冬姫。この時も、今も」
冬姫「……うるさい。もう、からかわないで」
冬姫はぷいと顔を背けたが、奪い取った写真を大切そうに胸に抱えた。
けれど、すぐに彼女は真剣な、少しだけ寂しそうな顔に戻り、私を真っ直ぐに見つめた。
冬姫「ねえ、蒼葉。お願いがあるの。……研究のために、双葉ちゃんの小さい頃の写真をくれないかしら?」
蒼葉「双葉の、写真……?」
冬姫「ええ。蝶に『記憶』を食わせるための、触媒として使うの。なるべく、彼女が一番幸せだった頃、そして……あなたとの絆が一番強かった時のものを」
冬姫の言葉に、胸の奥がチクリと痛んだ。
幸せだった頃の記憶を、蝶を騙すための「餌」にする。それは、大切な思い出を汚すような、罪悪感を伴う行為だった。
蒼葉「……分かった。家に戻ったら、一番いいのを探して持ってくるね」
私は、冬姫に背を向けた。写真の中の、あの無邪気な冬姫。
そして、アルバムの中に閉じ込められたままの、笑っている双葉。
二人の笑顔を守るためなら、私はどんな「思い出」だって差し出してみせる。
冬姫の家を出た私の指先は、スマホの画面で「楓くん」の名前を探していた。
蒼葉「もしもし、楓くん?」
楓「お、蒼葉か。蒼葉から電話かけてくるなんて珍しいな。何かあったのか?双葉ちゃんのこと?」
蒼葉「うん、冬姫から新しい情報幾つか聞いてね……それで……」
楓「それで…どうしたんだ?」
蒼葉「……ううん、なんでもない。それじゃ話すね」
私は、冬姫から教えてもらった双葉の余命について、新しい蝶に関する情報を全て楓くんに伝えた。
楓「なるほどな……なぁ蒼葉、今から双葉ちゃんに会うことはできるか?」
蒼葉「あ、うん…!いいよ、今から私も行こうとしてたところだし。一緒に行こ?」
楓「分かった。すぐに向かうよ。病院の前で待ち合わせしよう」
楓くんの心強い声に、私は少しだけ震える指で通話を切った。冬姫から聞いた「新しい蝶」の情報、それが何を意味するのか、まだ整理はついていない。けれど、何かが動き出そうとしている予感だけがあった。
病院の白い廊下を、楓くんと並んで歩く。独特の消毒液の匂いが鼻をつき、私の鼓動は早まるばかりだった。
楓「……大丈夫だ。双葉ちゃんなら、きっと」
楓くんが私を元気づけるように、無理に作ったのではない、少しだけ柔らかな笑顔を見せてくれた。その優しさに頷き、私は病室のドアに手をかけた。
蒼葉「双葉、失礼するよ……っ」
言葉が、喉の奥で止まった。ベッドの上で、白いカーテン越しに差し込む夕日を浴びて、一人の少女が体を起こしていた。
双葉「……あ、お姉ちゃん」
ずっと、ずっと、深い眠りの底にいたはずの双葉が、私を見ていた。
数日前まで土気色だった顔には、奇跡のようにほんのりと赤みが差している。サイドテーブルには、空になったゼリーのカップが置かれていた。
蒼葉「双葉……っ、双葉なの!? 目が覚めたのね、本当に……っ!」
私は、双葉の元へ駆け寄り、彼女の細い肩を抱きしめた。温かい。ちゃんと、命の熱が伝わってくる。
双葉「ちょっと、お姉ちゃん、苦しいってば……。もう、大げさなんだから」
双葉は呆れたように笑い、けれどその瞳にも薄っすらと涙が浮かんでいた。私はもう、言葉にならなくて、ただただ子供のように号泣してしまった。
そんな私を宥めようとする双葉が、ふと、私の後ろに立つ人物に気づいて目を見開いた。
双葉「げっ……お兄ちゃん。なんであんたまで来てるのよ」
楓くんの姿を見た瞬間、双葉の頬がさっきとは違う理由で朱に染まった。
楓「……久しぶりだな、双葉ちゃん。顔色が良くなって安心したよ」
双葉「別に、あんたに見せるために良くなったわけじゃないし! ……ったく、お姉ちゃんが泣き虫なのは、あんたがちゃんと支えてないからじゃないの?」
あの頃と変わらない、強気でツンデレな口調。楓くんは困ったように笑い、私はその光景があまりに懐かしくて、涙を拭いながら笑みをこぼした。
少し落ち着いた頃、双葉が思い出したように私の袖を引いた。
双葉「ねえ、お姉ちゃん。ゼリー食べたら喉乾いちゃった。売店で『イチゴオレ』買ってきて。一番甘いやつね」
双葉「イチゴオレ? うん、分かった。すぐ買ってくるね」
私は幸せな気持ちで病室を飛び出した。エレベーターを待つ間も、スキップしたいような気分だった。
売店で冷えたイチゴオレを手に取り、病室に戻ると、ちょうど楓くんが「じゃあ、俺は今日は帰るな。また明日来るよ」と双葉に声をかけているところだった。
双葉「お兄ちゃん、またね」
双葉の少し照れくさそうな声を見送り、楓くんが廊下へ消えていく。
私は買ってきたイチゴオレを双葉に手渡そうとした。その時だった。
双葉「……っ、い、た……」
双葉の手が、受け取ろうとしたイチゴオレを弾いた。
蒼葉「双葉? どうしたの?」
見ると、双葉は青ざめた顔で自分の腹部を強く押さえていた。
双葉「な、なんか……急に、お腹が……。う、あぁっ!」
最初は「冷たいゼリーでも食べたから、食あたりかな?」なんて軽く考えていたのかもしれない。けれど、双葉の表情は一瞬で苦悶に歪み、額からは尋常ではない量の汗が吹き出した。
蒼葉「双葉! 双葉、しっかりして!」
双葉「い、たい……っ、お姉ちゃん……助けて……あ、あぁぁぁ!!」
双葉はベッドの上でのたうち回り、必死に痛みを堪えようとしている。
けれど、その苦痛は次第に強まり、ついには声にならない悲鳴となって彼女を襲った。
蒼葉「誰か! 誰か来てください!」
私はパニックになり、震える手で何度も、何度もナースコールを叩きつけるように押した。
バタバタと廊下を走る足音が聞こえ、数人の看護師と医師が病室になだれ込んでくる。
看護師「双葉ちゃん! 分かる!? どこが痛むの!」
医師「呼吸確保! ストレッチャー用意して、今すぐ検査室へ!」
意識が混濁し始めた双葉が、酸素マスクをつけられ、慌ただしく運び出されていく。
さっきまで笑ってイチゴオレを欲しがっていた彼女の姿は、もうどこにもなかった。
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