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パン職人のオス/味覚の研究
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しおりを挟む「フェリチェ、おつかいを頼んでもいいかな? オムレツを作るのに、卵を買ってきてくれる?」
「ああ、いいぞ」
バスケットを片手に、フェリチェは元気よく玄関に向かう。
イードの作るオムレツは、ふんわりした見た目の美しさと、ぷるぷるとろとろの半熟具合がたいへん美味で、フェリチェもお気に入りの一品だ。
「たまご屋の近くには、グンタが買ってきてくれたパンの店があるな」
まだ三分の一ほど残っているバゲットを切って、イードは包み紙を見て頷く。
「ベーカリー・グウタンだね」
「そこの主人は若いオスだ。華やかさはないが、堅実そうで、家庭的な雰囲気がいい。グンタみたいにどっしりした体も頼りになりそうだ」
「へえ、今度はアモンさんに興味があるんだ?」
「夫にするなら、ああいう感じがいいのかもしれん。おつかいついでに、ちょっと観察してくるぞ!」
「はいはい、行ってらっしゃい。お釣りで買っていいのは、まんまるパン一個までだよ」
「承知した。では行ってくる」
※ ※ ※
しばらくして、フェリチェはロロの時と同様に、すっかり元気をなくして帰ってきた。
「おかえり、卵は買えた?」
「……おう。ばっちり新鮮で、いいものを買ってきた。美味いオムレツが作れるぞ」
「そのわりには、しゅんとしてるね」
ボウルに卵を割り入れるのを手伝いながら、フェリチェはがっくりと肩を落とした。
「フェリチェは、自分が嫌いになった。フェリチェは浅ましいメスなんだ」
「急にどうしたの。ちゃんと聞くから、一つ一つ話してみて」
「だってだな……」
卵を買った後、フェリチェはグウタンのパン屋に寄って、まんまるパンを選びながら店主のアモンを観察した。
逞しい腕でパン生地を捏ねる姿が力強くて、心ならずきゅんと胸が熱くなった。見た目がそれほど優れているわけでもなく、話ぶりが洗練されているわけでもない。だが工房から投げかけられる優しげな笑顔が魅力的で、彼の作るパンにはその人柄が滲み出ていた。
素朴で安心感のあるアモンを、次の恋の相手にするのもいいかもしれないと満足げに会計に向かったフェリチェは、そこでふと売り子の娘に目がいった。
おとなしそうだが、丁寧な手つきとはにかんだ接客が愛らしい娘だ。それだけなら、特に気にも留めなかったのだが、イードのもとですっかり人間観察の目を磨いたフェリチェには、娘が店主を見つめる眼差しが他とは違うことにすぐに気付いてしまった。
「キラキラしていた。すごく純粋に、あのオスを想っていることが伝わってくる目をしていたんだ。その時、窓ガラスに映った自分の目を見て、フェリチェは思ったんだ。フェリチェの、あいつを見る目は全然キラキラじゃない。
フェリチェは、ふさわしい番を選ぶことに目が眩んで、大事なことを忘れるところだった。恋とはあれこれ考えてするものではない、縁が結ぶものだ」
イードは黙って卵を混ぜる。フェリチェの声と、空気を含んだ卵が混ざる音以外、キッチンは静かだ。
「あの娘の純心に、フェリチェは屈したんだ。フェリチェに、本当の恋はまだまだ難しいのかもしれん」
すべての卵を割り終えると、フェリチェは買ってきたまんまるパンにかじりついた。
「……今日のパンは硬い気がする」
「今日は昨日より肌寒いから、発酵が足りなかったんじゃない?」
イードは本音なのか慰めなのかわからない調子で、ボウルから視線を上げることもない。
「……すまない、オムレツは後で食べる。少し部屋で休みたい」
「そう。お腹が空いたら出ておいで」
熱したフライパンに、卵液が滑り込む音が背後でしたが、フェリチェの耳はぴくりとも動かなかった。
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