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パン職人のオス/味覚の研究
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しおりを挟む昼が過ぎて、太陽が西に傾くまで、寝台にぼんやりと転がっていたフェリチェは、扉の隙間から侵入してきた香りにはっと飛び起きた。
ほのかに甘い卵と、香ばしいカラメルが混ざり合った甘美な香りが、フェリチェの鼻先まで漂ってくる。途端に現金な腹が鳴って、おずおずと扉を開くと、キッチンには変わらずイードが立っていた。
「おいで。ちょうど焼けたところだから、冷めないうちに食べよう」
テーブルには、二人分の皿が用意され、ふんわりと黄色いものが盛られている。卵の香りはするが、オムレツではなかった。
厚めに切ったバゲットを、牛乳と砂糖を加えた卵液に浸して、たっぷりのバターで焼いたものだ。そこへイードは火から下ろした小鍋を傾けて、これまたたっぷりとカラメルを回しかけた。
ナイフで触れれば、バゲットはフェリチェに柔らかな身を差し出した。つやつやしたカラメルを滴らせながら、それは掲げたフォークの先でふるふると震える。
熱々のまま頬張れば、バゲットとは思えないぷるりとした食感が口内を満たし、噛みしめたそばから染み込んだ上質なバターとカラメルが溢れ出した。
「……美味い」
「ギュンターがくれたパンも、すっかり硬くなってたからね。フェリチェが割ってくれた卵をしっかり吸って、美味しく生まれ変わったんだよ」
「……だからパンの硬さ柔らかさなど、心境には関係ないとでも言いたいのか?」
「何のこと? 俺はただ、食材を無駄なく美味い状態で食べたいだけだよ」
付け合わせの、塩気が効いた花椰菜のスープを飲むイードに、含みは感じられない。
「底知れん奴め……」
「まだそんなに食べてないけど」
「そうではなくてだな。ふんっ、もういい。くそぅ、スープもいい塩加減で美味いな……。甘いのとしょっぱいので、フォークが止まらないぞ」
フェリチェは里では木の実なんかを主に食べていて、街に降りれば人間の作る凝った料理を食べたりもしたが、これといって食には特にこだわりがなかった。イードと生活するようになってからは、食事が楽しみの一つになっているのは否定しようもない。
(それもこれも、イードさんの作る料理がどれも美味しいのがいけないんだわ。わたくしは食いしん坊ではありませんもの!)
ほろ苦いカラメルとバターの甘い脂が絡んだところが特に美味いと伝えると、イードは貯蔵庫からいくつかの小瓶を出してきた。
「フェリチェの味覚は、どこまで発達しているか調べてもいい? まずは酸味だけど……」
小瓶からプラムに似た赤っぽい小さな実を一粒取り出して、イードはフェリチェの手に乗せた。
「東洋の島国で生まれた保存食でね、酸っぱいけど毒ではないから食べてみて」
甘酸っぱい実を想像して、フェリチェは口に放り入れた。途端に、衝撃的な酸味に口内を襲われ、思わず吐き出してしまった。
「あれ? ダメだった? それならレモンもダメかな?」
「ぺっぺっ……! レモンは好きだ。だがこれは何だ。酸っぱさの種類が違う、それに匂いも嫌だ!」
口の中に溢れてくる唾液と一緒に、フェリチェは口直しにスープを飲み干す。
「へえ、酸味の違いか。ふんふん、敏感だなぁ。じゃあ次は辛味、行ってみようか? これは同じペッパー類でも、胡椒と赤唐辛子。どんな違いを感じられるかな」
「不味いのは嫌だぞ」
そんなふうに調味料などで、フェリチェの味覚と好みの研究は進められた。
フェリチェの味覚が、繊細な旨みまで感じられるほど優れていると判明する頃には、いろいろなものを含まされて、食事量に反してすっかり満腹な気になってしまっていた。
口内に残るあらゆる味の名残を消すため、フェリチェは牛乳を飲んで口をすすいだ。
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