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惑う/嗅覚の研究
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しおりを挟む「……俺、どうかしてた……ね?」
「フェリチェに訊くことか、馬鹿者!」
いつもの、のんびりした調子で確証なさそうに尋ねてくる声に、フェリチェは安堵するとともに苛立ちを募らせた。
体が自由になったのを幸いに、拳を振り上げ、ところ構わず叩きつける。
「イードの馬鹿者っ、もう知らん! 頼まれたって金輪際、触れさせてなどやらないからな!」
「いてっ、いたた……ごめんって、これにはわけが……」
「うるさいっ、黙れ!」
闇雲な拳でも、それなりに狙いすましたようにイードの胸を攻撃できている。だが彼に一番の打撃を与えたのは、叩きつける威力によるものではない。フェリチェの震えた握り拳、そのものだ。
イードは胸を打ち据えられる寸前で、フェリチェの拳を絡めとった。毛を逆立て、フェリチェは威嚇する。
「触るなと言ったばかりだっ……」
「チェリ。聞いて」
イードは引っ掻かれても、フェリチェの手を離そうとはしなかった。その意志は堅いが、先程までの強引さは欠片もない。片手は震える手をそっと包み、もう片方の手では固く結ばれた目隠しを外してやった。
しばらくぶりの明るい世界に、フェリチェは目をしばたたかせる。ぼんやりした輪郭がだんだん像を結ぶと、すっかり見慣れた、イードの均整の取れた顔が目の前に現れた。
変に笑顔で取り繕ったりしない、いつも通り……目の前の観察対象に注がれる真摯な眼差しがあるのみだ。その深い緑色の瞳の中には、再び泣き出しそうな、フェネットの娘が映り込んでいた。
「ごめん、怖かったね」
「……当たり前だ! フェリチェはいま初めての発情期で……、もし……、もしあのままだったらどうなっていたと思う。私生児をもうけることは、フェネットにとって最大の不名誉なんだぞ!」
「分かってる、ごめんよ。……何を言っても、無責任な男にしか聞こえないだろうから、俺から伝えられるのは観察結果だけだ」
「お前はっ、こんな時にもそんなことばかりっ……」
「聞いて。今後、チェリを守るために大切なことだ」
昔話をしている時でさえ見せなかった、真剣な眼差しで請われ、いつまでもわめいてばかりいられないことをフェリチェは悟った。息を整えて耳を傾けると、イードは小さくありがとうと微苦笑を零し、話し始めた。
「おそらく、繁殖期のフェネットから発せられる香りに、催淫効果があるんだ」
イードは窓という窓を開けて換気しつつ、さらなる用心のため、新しい布で鼻と口を覆った。
「より繁殖率を上げるために備わった性質なんだろうけれど、実によく出来てるよ。これでは、巣篭もりが必要なはずだ」
発情期の間、フェリチェを隔離するより他あるまいとイードは結論する。
「……イードがおかしくなったのも、そのせいだと言うのか?」
フェリチェがじっとりと不信の目で睨みつけると、イードは少しばかり首を傾げた。
「なんて答えるべきかな。そうだ……って言っても言い訳にしかならないし、君を魅力的だと思っているのは、なにも今日に限ったことじゃないからなあ」
「んっ!?」
「ん? どうかした?」
「……お前、フェリチェのこと……」
好きなのか?
どう思ってる?
……と、直球で尋ねるのは照れ臭くて、言葉が続かない。ならば、幻惑の中の世迷言から探りを入れてみようと、フェリチェはカマをかけてみた。
「あ、愛してるって言ったのは……何だったんだ?」
「ああ、あれは……」
イードの次の言葉を待つだけで、なぜ鼓動が速くなるのか……。その理由も彼の答え次第でわかるような気がして、フェリチェは不安と期待がごっちゃになった緊張感で、まともに息さえできなかった。
「昔に流行ったアンシア歌劇の一幕で、そんな台詞があったなあって思い出してさ。使い方と意味は間違ってなかったよね?」
「……歌劇の台詞」
「アンシア語は、それくらいしか知らないからさあ」
「そう、か……」
ほっと撫で下ろした胸のどこかで、がっかりしている自分がいるのに気付いて、フェリチェは大きく頭を振った。発情期の匂いとやらは分からないが、少なからずおかしくなっているのだと、血迷った考えを締め出した。
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