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第6話 パート

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 サンダーバード湖から帰ってきた日曜日の夜、

マルヴィナたちの家に人が訪ねてきた。

「やあこんばんは」
入ってきたのは、太ったとても大きな体、頭を完全に剃り上げたスキンヘッド、青白い顔の男性だった。

「やあこんばんはボブ」
玄関で、付け髭をつけてパイプをくわえたヨエルが出迎える。

「きみたち、ボブさんが来たよ」
マルヴィナ、クルト、二コラ、ミシェルもリビングに集まってきた。ボブがソファのひとつに座り、残りのそれぞれが定位置についた。

「やあきみたち、調子はどうだい?」
ボブはタオルで汗を拭きながら、コップに入った水を一気に飲んだ。マルヴィナたちは、そこそこだとか、まあまあだとか適当に答えた。

「船で渡る前に、グラネロ砦にも寄ってきたよ。みんな元気そうだった。町がどんどん大きくなっていてね、建設費用もかさんでいるようだけど」
ボブがうちわを扇ぎながら話し、みんなも聞いている。

「アイヒホルンも治水工事がだいたい終わって、市街の拡張に手を付けだしたよ。ビヨルリンシティも、人口がだいぶ減ったのを逆に利用して、街区の再開発を行っている。まだ今年の結果はまとまっていないけど、この四半期で経済的にはかなりよくなっているだろうね」
ボブの汗もやっと止まったようだ。

「マルーシャ女王は、このまま継続して頑張ってくれ、と言っていた」
ボブは懐から封筒を取り出して、ミシェルが立ち上がってそれを受け取った。

中をさっそくあらためると、
「あら、先月よりだいぶ少ないね。二千ゴンドルピーしかないけど……」

「ああ、マルーシャ女王も言っていたが、少し経済的に厳しくなってきたから、それで頑張ってほしいと」

「家賃が千ゴンドルピーかかるしね……、みんな食べ盛りだから。あたしがパートに出るしかないのかな」
ミシェルが頭の中で家計の計算をはじめた。

「そうだね、ぼくの給料と仕送りだけだと厳しいな」
と心配そうな表情のヨエル。

「うむ。だけど、まだ仕送りがあるだけマシだという考え方もある。この国の一般のひとは自分で稼いでいるわけだからね。それに、ムーア学園の学費だって一括で国元が払ってくれだだろう?」
とボブの言葉に、まあそうだけど、とミシェルも納得せざるを得ない。

「だけど、ここにいるマルヴィナはいちおうゾンビ帝国の皇帝だぜ? もう少し国家予算をまわしてくれてもいい気がするけどなあ」
とクルト。そうよ、わたしは皇帝よ、と思い出したかのようにマルヴィナも苦言だが、

「それはわかる。しかし、最近の為替はゴンドルピーがどんどん値上がりしているんだよ。もう以前の倍ぐらいになってる。誰かが為替操作しているんじゃないか、という噂もある。ローレシア大陸で作ったものが安く売れるんでそれはいいことなんだが……」
それに、とボブ。

「このわたしなんかは無償無給で食事もしないで二十四時間働いているんだ。それにくらべたら君たちもまだマシだと思うがね」
というボブに、まあゾンビだからしょうがないね、と他のみんな。

「この前なんか、船の乗るときに客室じゃなくて貨物室に乗ったんだ。運賃を節約するためにね。一晩パレットの上に座って、暗いし寒いし怖いし、特にやることがないし」
マルヴィナは、ボブが貨物室のパレットの上に座ってじっとしているのを想像して恐くなった。

そのあと、ボブはもう一杯のコップの水を飲み干すと、今晩も宿に泊まらずに移動だよ、と捨て台詞を残してアパートから去っていった。

そのあとのリビングでは、

「本当に大丈夫なの?」
とミシェルの周りにみんなが集まった。ミシェルが紙に数字を書き出していく。

「家賃が千ルピー、水道光熱費が二百ルピー、食費がかなり頑張って節約して八百ルピー、これで二千になっちゃうね。ヨエルの給料は?」

「ぼ、ぼくは限界まで花屋のシフト入って六百ルピーかな?」

「二千と六百。おやつ代とお小遣いと雑費含めてちょうどぐらいだね」

「貯金はないの?」
とマルヴィナ。

「先月は生活に必要なものを買い足したからね。いくら家具付きのアパートとはいえ、何かしらいるものが出てくるから」

「ぼくも働きに出ようか?」
と今度は二コラ。

「うーん、学費も払っちゃったし、まだいいんじゃないかな」
ミシェルもつらそうに答える。

「だけど、この状況だとさすがに進学は難しいね」
とクルト。

「うん、申し訳ないんだけど、大学や専門学校に行かせる余裕はないね。国元にから出してくれればいいんだけど……」
と腕組みするミシェル。

「いや、たぶんあのボブの感じだと無理そうだし、それにおれ、就職先もう考えてるんだ」
とクルトも明るく言った。

「うん。ありがとうクルト。あたしもパートに出るよ。さすがに貯金なしでぎりぎりの収入はまずいね」
ということで、だいたいの方針が決まった。

「就職かあ……」
マルヴィナは、今の学園を卒業したら大学にも行かないでしばらく家でのんびりする、というイメージも少しだけ持っていたのだが、この雰囲気ではそれは難しそうだ。

「まずは一年頑張って卒業して、それからおれたちが働きはじめたらきっとよくなるよ!」
クルトが元気に言って、その日は解散になった。

マルヴィナの心の中に、就職という言葉が現実味を帯びてじわりじわりと重くのしかかってきた。


 翌週のある授業。

「この正方行列をベクトルに作用させるとこの縦列がこうなってここがこうなって」

「この問題はこっちから逆行列を作用させてここがこうなってこうなって」

「行列式がなぜこうなるかは家で教科書をよく読んでよく暗記するように」

マルヴィナは、授業の終盤で目を覚ました。

「わたし、そもそもこの記号がなんで足し算になるのか、引き算になるのか、割り算や掛け算になるのかがそもそもわからないわ」
そう口の中で呟いたが、その声が思ったより教室の中で響いてしまった。

「なんだと?」
数人の生徒が起きてうしろを振り返る。

「そんなもん、常識だろう、そんなこともわからんかったら、小学校に戻って勉強しなおせっちゅうに」
と言いながら、その数学教師がチョークで黒板をカンカン叩いた。

「君らは、とにかく言われたことを暗記すりゃいいんじゃ。とにかく受験のために暗記して、いい大学に入って、いい巨大ギルドに入る。そこで言われたことをひたすら実行して、出世することがすべてなのじゃ。他人から評価されるのがすべてなのじゃ!」
数学教師がさらにチョークで黒板をかんかん叩き、チョークがその勢いでボロボロ崩れた。

「そんなことはないんじゃないのかな」
クルトが助け舟を出した。

「なんだと! カンカン!」
新しいチョークを取り出して黒板を叩く。

「巨大ギルドに入って出世することが偉いとはおれは思わないな。それよりも、新しいギルドを開始すること、つまり創ギルドのほうが偉いんじゃないか。だって、どんな巨大ギルドだって最初は小さいギルドから始まったんだぜ?」

「な、な、なんと……。そんなもん、おまえたちにはぜったいできん、ぜったい失敗するぞ!」
次のチョークを取り出して、黒板に叩きつける。

「いや、だから、自信がないなら最初は巨大ギルドに入って勉強するのはありだと思うぜ? それに、どちらにしてもそれで大成功する必要も、他人の評価を気にする必要もないんじゃないかな。自分で自分の人生を納得できればいいと思うんだけど」
クルトが自分の言葉に自分で納得してうなずいた。

「な、ななな、なんちゅう狂った考え方じゃ、頭が狂っとる。自分で納得だと? そんな人生、必ず借金まみれになって、地獄に落ちるぞ? 他人に褒めてもらえない人生など、まったく意味がないんじゃ!」
そこでちょうど黒板にぶつけるチョークが無くなって、チャイムが鳴った。

マルヴィナがなぜかすっきりした気持ちになってふと教室に貼ってあったカレンダーを見ると、次の週末は連休のようだ。

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