紫蜉蝣

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椿に、雪

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 板間の燻みは目立つが、二部屋程自由の利く、下戸塚しもとつかの下宿に決めた。当初の予定であつた、四畳半と追加の六畳の合間、襖すらも取り払つた此の空間は、替へたばかりの藺草の香でもつて、私を迎へて呉れる。中でも、数寄屋すきや造りに似た自由さで施された間越しの彫刻欄間らんまが、如何やら、一般的な松等では無く、椿であるらしい亊が、私は特段気に入つてゐた。表の大通りに面したまど硝子も、僅か下の雪道の白を反射させつゝ、上からの陽をいつぱいに室内へと注がせており、心地の好い物であつた。加へ、私は、高所に恐怖を覚える質でも無かつたし、行き交う人々を、相手に其れと知られずに眺められるといふのも、今となつては秘かな愉しみになつてゐた。無論、本と紙と筆程度しか余計な荷物の無い身としては、一間で十二分であつたが、此の家の道樂息子が、其の内の一間に入り浸つた爲、所謂、此れは家主からの慈悲であらうと思ふ亊とした。更に、賃料を、三圓から二圓に引き下げて貰ひ暮らすとなると、懊悩おうのうの種である道樂息子が、其の一間に亊件を携へ歸つたとて、元来依り亊勿れ主義である私では、大声を上げるには至れなかつた。其処で漸く、よもや此れは慈悲で無く買収だつたのでは、等と思ふのであるが、其の頃には荷解きも済んでおり、腰も落ち着いてしまつてゐたのであるから仕方が無い。何依り、年期物では在るが随分と質の良い文机迄借りられる此の住まひを見付けてしまつては、他を選ぶにしても不服が出るといふ物である。
 さうして今、私は此の下宿に寝泊まりしてゐる。有り余る十畳の内の一畳程度に――とは言へ、己の図体では一畳に納まり等はしないのであるが――縮こまり眠るのは、寒郷で染み付いた癖である。然し、戸締りの確りとしてゐるだけで、全く天国のやうだ。仮令たとい呪詛でも行わんとするやうな深夜に
「やあ、葉山。遊びもせずに夜が更ければ睡眠とは、聊か肌に髪にと気遣う女のやうでは無いかい。否、待合の女ですら、もう少しばかりは起きてゐるだらうよ」
等と揶揄されたとて、文句の一ツも言へぬ身なのである。其れに、もう彼是と、半年程此のやうにして暮らしてゐれば、突然の来訪に慣れるといふのも道理であつた。しかして、何を、と身を起こし、大欠伸を一つ零せば「嗚呼、女であればそのやうな欠伸等零すまいね」等と揶揄が重なる。其れでも私は、未だ瞼に障子糊でも塗られたやうな心持であつたが、今日も今日とて淡い月明かりを従へ、酒氣を纏ひ乍千鳥足でやつて来た彼が、次のやうに言ふ亊だけは聞き逃さなかつた。
「きみ、此度の『文學界』を讀んだかい」
 其の問いに、薄布と言へど、立派に暖を与へて呉れる蒲団に包まり乍、私は緩慢とした動きで眠たい目を擦つた。さうして、夢現も朧な儘の思考で以て
「未だ、讀んでは居ないけれども」
とだけ、答へた。
「兎にも角にも先ずは讀んでみると好い。嗚呼、今讀むのは『大つごもり』のみで十分だとも」
 第二十四號の『文學界』を投げて寄越す此の男こそが、何を隠そう、件の道樂息子である。此の男の見目は、人目を惹く物であつた。黒とは言ひ難い、黄枯茶きがらちゃの燻んだやうな髪色に、檳榔子黒びんろうじぐろものうげな眸が、西洋とも日本國とも言へぬ不釣り合いさでもつて、彼を異國人のやうに際立たせてゐた。然し中身は、純然たる日本男児であるかと問はれゝば、其れも又否であり、道樂の名に恥じぬやう、等と言ひ、日夜下らぬ賭け亊に明け暮れ、待合では毎度違う女を呼び、酒だ遊びだと金を湯水の如く遣うやうな、全く以て、如何しやうも無い男であつた。現に、年も暮れと言ふのに、此の男は、酒に因り汗なぞ掻いてゐるのであるから、全く此の隠遁者いんとんしゃと正反対では、治りやうの無い病である。然し、私が彼を受け入れるには、賃料や間借に勝る、一ツの明瞭なる理由があつた。
 其れは、彼がある才に、大変に恵まれてゐた亊にある。
 私はやおら身を起こすと、其の投げられた書を手に取つた。彼の言ふ『大つごもり』の作者は『一葉』とされており、直ぐに、又彼へと視線を投げ返す。
「月秋、きみ、此れは」
「『暗夜』に続く作品さ」
 一葉とは、『都之花』に載つた『うもれ木』で初めて出逢つた作家である。幸田露伴先生を彷彿とさせる、理想主義的作風であつたが、先の『雪の日』では、女性特有の感性を持つてして、何とも美しい言葉での文と成つてゐた。
 私は如何にも、彼女の小説を好いてゐるのである。抑女流作家である彼女に、多少の敬慕を抱いていた亊は自覚の範疇である。然し、其れが、誠不純の尊敬であるか、将又、惚れた腫れたであるかと問はれゝば、日が暮れる迄考え込んでも答え等出ないであらう程に、私は彼女の文章を好んでゐた。作品を遡り『闇桜』を讀んだ際にも、彼女の言葉の選びを、文の運びを、綴る風景を、心情を好いてゐると確信した程である。月秋は、私が一葉を好む事を知つて居るのだから、此のやうな夜更けに持ち寄つて呉れたのやも知れぬ。本依り、如何しやうも無いが、悪い男では無いのだ。
 しかして彼は、短く切り揃へ乍も、後ろへ撫で付けるやうにした髪をがし〳〵と掻き崩し、はア、と息を吐いた。彼の髪が一房はらりと前に戻り垂れ、其の幽鬱の一ツを隠す。やゝあつてから、彼は歳晩を吸い込み、けれどもね、と続けた。
「俺には、此れは彼女の駆け出しに過ぎぬと感ぜられてならぬ」
「其れ程迄にかい」
 私はもう、すつかり眠氣等吹き飛んでしまつて、其のやうに答えたきり、一心不乱に頁を捲るだけとなる。登場人物であるお峰の、悲哀と人の生まれの業とがまざ〳〵と描かれた其れに没頭し、何度も読み返し、漸く一息吐いた頃にはすつかり東の空も白んでゐた。彼はと言へば、私が先迄遣つてゐた蒲団を占領し、うつら〳〵と轉寝をしてゐるやうな有り様であつたが、換氣もせぬやうな、酒の芳る篭つた空氣を吸い込み乍、私の興奮は中々冷め遣らなかつた。一葉を讀んだ後といふのは、決まつて筆を執りたくなる。今日も例に漏れず、其の儘私は、文机へと向かつた。小説と謂ふのは、本と紙と筆とが余計な荷物である私の、唯一の趣味である。幸か不幸か、私の周りには文字といふ物に憑りつかれる者が多い。私も、其の内の一人に過ぎなかつた。然し、私は魅了されてゐたのみに過ぎない。
 彼、月秋といふ男には才があつた。其れは、書の才である。
 偏に書と言へど、読み書きに留まらず多岐に亘るが、彼は「見出す」といふ亊に長けてゐた。一葉を最初に私に勧めて呉れたのも彼であつたし、川上眉山を良いと言つて、貸して呉れたのも、彼であつた。昨年には『葦分船』に載つてゐた、啣月楼主人なぞといふ筆名の書を持つては、良いだらうと騒いでゐた。其の中絶を知つた時ばかりは、聊か静かではあつたが、兎にも角にも、彼が幾万とある書の中から、才を持つ者を見出す力に長けてゐた亊は、亊実である。読めば心千万、然し確かにと、頷かざるを得ぬのだ。一葉が荒物雑貨・駄菓子店に居ると知り、私が、彼女は筆を折つたのではと項垂れた時も、彼ばかりは「まあ、待つてゐて御覧」等と、悠長に構えてゐた程である。
 月秋と出逢つてからといふもの、私は酷く芳醇な迄に、潤つた生活を送つてゐた。紙と洋墨の香り、新たな書物。騒がしくも誇れる友人。悩む可くは、彼との才の差であつたが、彼は決して、其の才をひけらかす亊は無かつた。さうして私にだけ、此れは如何だらうか、等と、未だ新しい紙の薫りを纏ひ乍、告げるのである。其れから私の讀み耽る私の隣に、何をするでも無く片膝を立てゝ坐り、文机を見ては「ふうん」と零すのだ。
「……讀み終へたかい」
 酒氣も聊か抜けた所為か、呂律も幾分増しになつたやうで、彼はさう言うや否や、窗に面する障子をすたり、と開け放つた。我に返つた所為か、酷く大きく聞こえる虎落笛を鳴らしてゐた霜風が、簡捷と室内を満たし、私は背筋に富士壺でも固着したかのやうに、身を震わせた。指先から冷えるやうで、仕方無しと筆を置き、冷えた両掌を口の前で揉み、息を吐き掛ける。白く空気を揺らす其れは、次第に霧散し、然し、其れでも此の過ぎる冷気が、緩和される筈も無く、私は酒氣を逃がす依りも、暖を優先し、思わず彼の使用してゐた、薄蒲団を引き剥がした。
「寒い、寒い、窗を閉めて呉れ」
 元依り此れは、自分の物であるのだからと、己に言ひ聞かせ乍包まれば、彼の使用した所為で、少し酒と女の匂いがして、私はついと眉を寄せる。然し、次には蒲団に埋もれた儘、私は月秋へと詰め寄つてゐたのだ。
 正しく此れは、天啓であつたかのやうで、其れを誠とするのであれば、今、月秋は、私にとつての御仏に他ならなかつた。私は信心深い質では無いが、月秋に関しては、其れを改めなければならぬやうである。詰まる処、川の流れに文字を詠むやうに、木々の騒めきに音を聞くやうに、何て事の無い其の香に私は、すとん、と納得してしまつたのである。さうして、其れを疑う等出来なかつたのである。其れは、正に物語のやうに、然し、其れ依りも幾分荒唐無稽であつたが、私にとつては、紛れも無い事実なのであつた。
 しかして、其のやうな天啓を得た私は、蒲団を纏つた儘で壁際迄詰め寄り、
「此れだよ、月秋!」
と叫んだのである。彼はと言ふと、落ち着きはらつた様子で
「人様の前で芋虫のやうに蠢くとは尾篭な」
とだけ答へた。尾篭とは、言ひ過ぎでは無いだらうか、と思う処でもあるが、然し確かに、聊か失礼であつたと姿勢を正す。とは言へ、私の脳等、今や玩具箱を引つくり返しただけでは飽き足らず、駄々を捏ね蹴散らし、喚く幼子の去つた後と、寸分変違わぬ有様であつたので、先ず言葉にする依りも、思考整理も兼ねて、大きく手を振る事をした。其れから、ゆつくりと息を吸う。此の発見といふのは、全くジャアナリスチックでも無いのだが、其れでも、何事も伝へるといふのは、難儀であるのだ。言葉といふ物は大変に気難しがりで、肝心な時に、容量を得ぬ物で、例に依つて私は、あゝ、だの、うゝ、だのと、暫し訳も無く呻く事となる。よう漸と人並と言へる程度に脳内が落ち着いた頃、深呼吸を一ツ。
「どだい、変な話であつたのだ。詰まり、詰まりだよ、きみ。私は何も私で無くとも良いのだ。何とも莫迦らしいじゃあないか。きみ、解るかい?」
「……全く判らないともさ」
「違う、違う。嗚呼、だから。私は、清澄で無くとも良いのだよ」
 要領を得ない。丸で言葉とは雪のやうだ、と片隅で思う。時間を掛けて掬い固めれば触れられる物を、降り注ぐ其れは、性急に触れたとて、消えゆくだけなのである。誠、其の雪解けで墨を擦る酔狂が多く居るとは驚きであるが、無論私も、其の一人であるからには、何も言へぬ。
 扨、清澄とは、紛う事無き私の名であつた。産まれて依り二十四年、葉山清澄と言へば私であると思つてゐたし、私は葉山清澄以外成りえないとさへ思つてゐた。然し、其れが、抑々の間違いであつたのだ。型に嵌めるとは、愚かな事を。先人とて、同様の手法を遣つてゐたといふのに、私は、何を意固地になつてゐたのか。
 外を見遣れば、道の白銀が昇りゆく陽に照らされ、眩く己の主張を始めてゐる。自分が此処にあると、大声を張り上げんばかりの反射を持つて、私に所在を教えて呉れる。然し、私の身に富士壺を植え付け乍撫でる風と相まれば、自然と、其の主張は、煩わしさの鳴りを潜めた。私は唯、酒氣に代わり、其の白銀の空気を吸い込むと、文机の上、其の作者名を塗り潰す。それからもう一度だけ、解るかい、と呟く。
「良いかい、葉山。葉山清澄とは紛れも無く君の名――」
等と、困惑と疲弊とを載せてゐた彼は、然し暫くすると「やあ」と納得の貌で零す。
「やあ、其れは名案だ」
 開け放たれた儘の窗の外では、椿が雪に埋もれ咲いてゐた。


語句
下戸塚…現在の東京都新宿区早稲田のあたり。
懊悩…なやみもだえること。その様。
待合…客と芸者に席を貸して遊興させる所。芸者との遊興を目的とするところ。
隠遁者…俗世間を逃れて隠れ住むこと。またそのような暮らしの人。
虎落笛…冬の激しい風が竹垣や柵などに吹きつけて発する笛のような音。
尾篭…不潔であること。また、そのさま。
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