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本編 第二部(シオン・エンド編)
84. 力強い手
しおりを挟む池に落っこちた僕は、驚いた拍子に水を飲んでしまい、パニックになった。あいにくと、貴族の教養に泳ぎなんて入っていない。
とっさに葉をつかんだが、まったく頼りにならなかった。
どちらが水面なのかも分からず、闇雲に手足を振り回していると、バシャンと水音がして、顔が水の外に出た。
「ディル様、大丈夫です。暴れないで」
必死に息をしながらもがく僕を、シオンがなだめる。
「げほっ、ごほっ」
暴れないでと言われても、何もしなかったら沈む。恐怖に支配されている僕がシオンにしがみついて、シオンまで巻き添えにする前に、シオンは僕を支えたまま、片手と両足で水の中を移動する。
「レイブン卿、こちらです!」
「タルボ殿、ディル様を」
「ええ。ディル様、失礼!」
タルボが断って、僕の後ろ襟をつかんで、乱暴に地面へ引き上げた。
僕はうずくまって水を吐き、肺に空気が戻って、激しくせき込む。苦しくて涙が出た。遅れて這いあがったシオンが、僕の背中を叩き、水を吐かせようとする。
「……い、いったい、何が……」
とぎれとぎれに問うと、シオンが答えた。
「欄干が壊れて、あなたが池に落ちたんですよ。すぐに飛び込んで助けましたが、もう大丈夫ですか?」
よろよろと顔を上げて、僕は瞬きをする。至近距離にシオンの綺麗な顔があったので驚いた。怖い顔をしているが、心配でたまらないからだとすぐに分かる。
「大丈夫です……」
「良かった!」
シオンにぐっと抱きしめられた後、シオンはすぐにタルボに話しかける。
「お体が冷えておいでだ。タルボ殿、上着を貸してください」
「もちろんです、どうぞ!」
薄手の上着をすぐに脱いで、タルボが僕に着せかける。気休めにすぎなかったが、それでもいくらか温かく感じられた。
「池というのは、上は水温がぬるくても、下のほうが冷たいことがあるんですよ。そのせいで、水に落ちただけでも、心臓に負荷がかかって亡くなる方もいます。とにかく体を温めて、ゆっくり休んでください」
「はい……」
溺死しかけたのだとようやく気付いて、僕は寒さのせいではなく、身を震わせる。
僕にとって死とは最後の自由だった。怖いことではなかったはずなのに。
「シオン……」
シオンの黒衣にしがみつくと、タルボがシオンに声をかける。
「レイブン卿、構わず、ディル様をお運びください」
「分かりました。行きましょう、ディル様」
僕を抱えたまま、シオンはきびきびした足取りで馬車のほうへ行く。ふと、僕はネルヴィスのことを思い出した。
ネルヴィスは少し離れた所で、凍りついて立ち尽くしている。
「ネル……」
彼にとっても想定外の事故だったと、それだけで僕には分かった。いつも冷静沈着なネルヴィスが動けないでいるのだ。
僕はネルヴィスに問題ないと言おうと思ったが、シオンは厳しい声を出した。
「フェルナンド卿、管理不行き届きですよ。無事だから良かったものの、ディル様に何かあったら、いくらレイブン領に助言をくださった方といえ、殴っていたでしょう」
ネルヴィスははっと我に返ると、蒼白な顔で謝る。
「……申し訳ありませんでした。こんなはずでは。私はただ……」
消え入りそうな声で何か言いかけて、ネルヴィスは首を振る。
「いえ、それより、すぐに屋敷へ」
ネルヴィスは馬車の御者に指示をするが、シオンは僕を馬の鞍に乗せると、すぐに後ろにまたがった。
「単騎のほうが速いので、こちらでまいります」
はっきりとは言わないが、シオンが怒っていることは僕にも分かった。馬はすぐに走り出し、屋敷の玄関にあっという間に到着する。
ずぶ濡れの僕とシオンが現れたので、屋敷は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
すぐさまハーシェスが現れ、僕達を見て、さすがに息をのんだ。
「橋が壊れて、池に落ちた? なんという……。お二人とも、すぐにこちらへ。大浴場なら、いつも湯がはっていますから」
ハーシェスの案内で、一階の奥にある部屋に通された。脱衣所とはとても思えない豪華な部屋で、僕はタルボの手を借りて服を脱ぐ。
遠慮して出て行こうとするシオンを呼び止める。
「気にせず、シオンも脱いでください。一緒にお風呂に入りましょう」
大浴場というくらいだから、広々としているはずだ。
「いえ……その……」
「僕を助けて濡れたんですから、出て行けなんて心の狭いことは言いませんよ」
僕の言い分の何が間違っているのか、シオンは困った顔をした。タルボがぼそりとつぶやく。
「ディル様、大胆ですねえ」
「……何が? 駄目なんですか?」
「あなたがそうおっしゃるなら、この傍仕えは何も申しませんよ」
やれやれというため息が聞こえてきそうな声でつぶやいて、タルボは僕を大浴場のほうに案内する。
大浴場は半露天風呂だ。
手前は屋敷の屋根が伸びているが、奥半分は外に出ている。周りから見えないようにしっかりと壁で囲まれていた。
僕は風呂に体を沈める。思っていたより冷えていたようで、芯まで温まる気がした。
「まずはしっかり温まってください」
「大丈夫ですよ、タルボ。入浴くらい自分でできますから」
体を洗う手伝いまでしそうなタルボに、僕は急いで断った。
「かしこまりました。さて、次はレイブン卿ですね」
そう言ってタルボが脱衣所に舞い戻るや、シオンのぎょっとした声が聞こえてきた。
「自分で脱げます!」
「水で張り付いているから、脱ぎにくいでしょう? 遠慮しなくてよろしい! ディル様をお待たせするほうが失礼です!」
「うっ」
僕を話題にしてシオンを黙らせ、脱衣の手伝いをしたようだ。
しばらくして、全裸になったシオンがそろりとやって来た。
そこで初めて、僕はシオンのことを意識する。
使用人に世話されるのは当たり前のことで、親しい使用人の前で裸になるくらい、僕は恥ずかしいとは思わない。……のだが、シオンは別だ。
(そうだよね! 風呂に入るんだから、お互いに裸だ!)
どうしてこんな当たり前のことが頭から抜け落ちていたんだろうか。タルボが大胆だと茶化すのも当然だ。
レイブン領のごたごたの中で、シオンとは一夜を共にした。あの時にお互いの裸を見ていたのに、日の光の中でとなると気恥ずかしさがこみあげる。
芸術家が丹精込めて作り上げた石像みたいな、立派な体躯をしたシオンは、僕から少し離れた所から、湯に入った。
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