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プロローグ 悠と都榛
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夜が明けた。
カーテンの隙間から漏れる光は、都内駅チカ2LDKの隅々を淡く照らし出す。
その部屋には微かに芳醇な、しかしどこか生々しい花の匂いが漂っていた。
坂崎 悠は、ソファでもベッドでもなく、床に小さく丸まって眠っている。
彼の染めたての赤髪は、まるで夜のネオンを吸い込んだかのようだ。
「ただいま」
頭上から降ってきた声は、鼓膜をなぞるように柔らかい。
鉛のような瞼の隙間から、黒髪の男が覗き見ている。
三島 都榛───悠の二つ年下の同居人だ。
彼は上司のハラスメントまがいの飲み会を終え、ようやく帰ってきたらしい。
都榛は微かに笑うと、悠に手を差し伸べた。
悠は素直にその手を取り、ぐっと体を起こす。
「すみません、出迎えもせずに」
「気にしなくていい。お前も帰ったばかりだろ」
都榛は疲労の色を隠せず、そのままソファに横になろうとする。
悠は彼のアウターを脱がせ、そっとハンガーにかけた。
キッチンに向かう悠に、都榛がぽつりと声をかける。
「また床で寝たのか」
悠は顔を曇らせ、僅かに視線を落とした。都榛に心配をかけたくない。
「次から気を付けます」
「……やっぱり俺たち引っ越さないか」
それは都榛が繰り返し口にする提案だった。
日当たりのいい部屋に移れば、悠が床で寝ることも減るだろうと。
悠は指先にぎゅっと力を込めた。
都榛が気に入って、二人で決めた部屋だ。そう容易く変えたくはない。
悠がいつも通り断りを入れると、都榛は「そうか」とだけ言った。
「腹、減っていますか?」
「少しだけ……でも先に眠りたい」
都榛の目はほとんど開いておらず、ソファに沈み込むように、頭を揺らしている。
都榛にブランケットをかけた悠は、ふと思い出したように自分のポケットから何かを取り出した。
「そういえば、これはどうします?」
都榛の顔が苦痛に歪む。嫌なものでも見たような表情だ。
「食べる」
食い気味に答えた都榛は、悠の手に収まる一輪の花を奪い取った。
そしてシャク、と音を立てて花びらを口にする。
出会ったばかりの頃は「美味しい」と食べてくれていたのに、花を食むときの都榛はいつだって苦しそうだ。
その表情が捨てられる前の紙屑みたいに、ぐしゃぐしゃと悠の胸をざわつかせる。
この花がどうやって生まれたのか、都榛が知ってしまう前に戻れたのなら。どんなに嘆こうとも、あの不自由で幸せだった日々は戻らない。
「はる……」
遥か彼方、記憶の海に沈んでいく悠を都榛が呼び戻す。花を握っていたはずの都榛の手が、自分の頬に触れていることに気づいて、無意識のうちに心拍が上がった。
「やっぱり俺たちブートニエールにならないか」
ブートニエールとは、いわゆる夫婦みたいなものだ。互いを助け合い、補い合う。何度聴いても慣れない、悠には不釣り合いな美しい響き。
悠が「それはできません」と零すと都榛は眉根を寄せ、明らかに悲しそうな表情をした。
「お前ばっかり苦しむのはフェアじゃない」
「俺は苦しんでなんかいません」
「昨日も仕事中に倒れたんだろ」
「少し立ちくらみがただけです。俺は元々低血圧なんで」
都榛が「問題ないわけない」と言うより先に、悠は「大丈夫ですから」と言い放った。
真っ青な顔に、わざとらしいほど柔らかい笑顔を浮かべて。
都榛は、悠のこの表情にめっぽう弱い。怒りや涙といった感情ではなく、全てを諦め、降りかかる負の感情を静かに受け入れてしまったような、その姿に都榛はどうしてやることもできなかった。
悠は黙り込む都榛に、ブランケットをかけ直すとさっさとリビングを出ていく。
いつの間にか都榛よりもずっと小さくなってしまった背中。そこに、どれだけの苦悩を抱えて生きているのだろうか。
都榛は、手元に残った一枚の花弁を見つめていた。
この花が、どれだけの苦痛の上に咲いたのか。身体から切り離すとき、どれだけ悠を苦しめたのかを都榛は知ってしまった。
悠の身体から生まれた花。それは悠の命を吸い取ったかのように、真っ赤な色をしていた。
───かつての青さを残さずに。
カーテンの隙間から漏れる光は、都内駅チカ2LDKの隅々を淡く照らし出す。
その部屋には微かに芳醇な、しかしどこか生々しい花の匂いが漂っていた。
坂崎 悠は、ソファでもベッドでもなく、床に小さく丸まって眠っている。
彼の染めたての赤髪は、まるで夜のネオンを吸い込んだかのようだ。
「ただいま」
頭上から降ってきた声は、鼓膜をなぞるように柔らかい。
鉛のような瞼の隙間から、黒髪の男が覗き見ている。
三島 都榛───悠の二つ年下の同居人だ。
彼は上司のハラスメントまがいの飲み会を終え、ようやく帰ってきたらしい。
都榛は微かに笑うと、悠に手を差し伸べた。
悠は素直にその手を取り、ぐっと体を起こす。
「すみません、出迎えもせずに」
「気にしなくていい。お前も帰ったばかりだろ」
都榛は疲労の色を隠せず、そのままソファに横になろうとする。
悠は彼のアウターを脱がせ、そっとハンガーにかけた。
キッチンに向かう悠に、都榛がぽつりと声をかける。
「また床で寝たのか」
悠は顔を曇らせ、僅かに視線を落とした。都榛に心配をかけたくない。
「次から気を付けます」
「……やっぱり俺たち引っ越さないか」
それは都榛が繰り返し口にする提案だった。
日当たりのいい部屋に移れば、悠が床で寝ることも減るだろうと。
悠は指先にぎゅっと力を込めた。
都榛が気に入って、二人で決めた部屋だ。そう容易く変えたくはない。
悠がいつも通り断りを入れると、都榛は「そうか」とだけ言った。
「腹、減っていますか?」
「少しだけ……でも先に眠りたい」
都榛の目はほとんど開いておらず、ソファに沈み込むように、頭を揺らしている。
都榛にブランケットをかけた悠は、ふと思い出したように自分のポケットから何かを取り出した。
「そういえば、これはどうします?」
都榛の顔が苦痛に歪む。嫌なものでも見たような表情だ。
「食べる」
食い気味に答えた都榛は、悠の手に収まる一輪の花を奪い取った。
そしてシャク、と音を立てて花びらを口にする。
出会ったばかりの頃は「美味しい」と食べてくれていたのに、花を食むときの都榛はいつだって苦しそうだ。
その表情が捨てられる前の紙屑みたいに、ぐしゃぐしゃと悠の胸をざわつかせる。
この花がどうやって生まれたのか、都榛が知ってしまう前に戻れたのなら。どんなに嘆こうとも、あの不自由で幸せだった日々は戻らない。
「はる……」
遥か彼方、記憶の海に沈んでいく悠を都榛が呼び戻す。花を握っていたはずの都榛の手が、自分の頬に触れていることに気づいて、無意識のうちに心拍が上がった。
「やっぱり俺たちブートニエールにならないか」
ブートニエールとは、いわゆる夫婦みたいなものだ。互いを助け合い、補い合う。何度聴いても慣れない、悠には不釣り合いな美しい響き。
悠が「それはできません」と零すと都榛は眉根を寄せ、明らかに悲しそうな表情をした。
「お前ばっかり苦しむのはフェアじゃない」
「俺は苦しんでなんかいません」
「昨日も仕事中に倒れたんだろ」
「少し立ちくらみがただけです。俺は元々低血圧なんで」
都榛が「問題ないわけない」と言うより先に、悠は「大丈夫ですから」と言い放った。
真っ青な顔に、わざとらしいほど柔らかい笑顔を浮かべて。
都榛は、悠のこの表情にめっぽう弱い。怒りや涙といった感情ではなく、全てを諦め、降りかかる負の感情を静かに受け入れてしまったような、その姿に都榛はどうしてやることもできなかった。
悠は黙り込む都榛に、ブランケットをかけ直すとさっさとリビングを出ていく。
いつの間にか都榛よりもずっと小さくなってしまった背中。そこに、どれだけの苦悩を抱えて生きているのだろうか。
都榛は、手元に残った一枚の花弁を見つめていた。
この花が、どれだけの苦痛の上に咲いたのか。身体から切り離すとき、どれだけ悠を苦しめたのかを都榛は知ってしまった。
悠の身体から生まれた花。それは悠の命を吸い取ったかのように、真っ赤な色をしていた。
───かつての青さを残さずに。
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