ピュアブルーにくちづけ

南野うか

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第6話 おやすみの前に

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 雷鳴が、遠くで響いた。
 暗い部屋に閃光が差し込み、男の影を壁に大きく映し出す。
 雨を弾くネオンの光が、硝子越しに滲んでいた。
 はるの瞳は、わずかに揺れた。
 それでも彼は、動揺を表に出さない。
 グラスを磨く手つきは、いつもと同じ。
 男がこちらに向けた視線には、あの頃と同じ薄汚れた光が宿っている。
 けれど、都榛とばりの前で怯えるわけにはいかなかった。
 その違和感を、都榛が感じ取っていることに気づきながらも。
「お客さん、見ない顔だけど、誰?」
 都榛はいつも通り、人好きのする懐っこい顔をしていた。
 だがその声は、低く響く。
 空気が、ぴんと張り詰めるのが分かった。
 男は笑った。
 「ただの古い知り合いだよ。なあ、ハル?」
 悠は唇の端をわずかに上げ、静かに首を傾げた。
 「……さあ。そんな薄汚れた知り合いは、俺にはいないね」
 短い沈黙。
 男は、狂ったように笑い出した。
 都榛も、店の客も、おかしなものを見るようにその光景を見ていた。
「まあいい」
 笑い声が止み、再び静寂に包まれる。
 耳を裂くような痛い、沈黙だった。
「お前と俺の仲だ。また来る」
 そう言い残して、男は去っていった。
 残された静寂の中で、雷鳴が再び轟く。
 客の雑談。店のBGM。
 グラスを磨く音だけが、やけに鮮やかに響いた。
 だが都榛は何も言わなかった。
 ただ、悠の手が小刻みに震えていることだけを見つめていた。

 ◇ ◇ ◇ ◇

 それから数日。
 異国の空気にも慣れ、代わり映えしない日々が続いていた。
 昼営業の終わり際、悠の視界がふっと白く霞んだ。
 ふらりと傾く身体を、都榛の腕が抱き留める。
 まるで、最初からそうなると分かっていたように。
 「大丈夫か」
 低く、柔らかな声。
 吐息が頬をかすめ、悠の呼吸が詰まる。
 「……平気です」
 そう答えたものの、足が言うことを聞かない。
 下が四十、上が六十の低血圧。
 悠の身体は昔から、脆かった。
「別に放っておけば治りますから……重いでしょ、俺」
 腕の中で身じろげば、都榛はそれに逆らうように悠をきつく抱きしめた。
「軽い、俺の半分くらいしかない」
「いや、そんなに変わらないですよね」
 悠が眉を寄せる。
 都榛の眉間がようやく緩んだ。
「ったく……減らず口叩けるならもう少し健康に気を遣え」
「……分かってますよ」
 微かに口を尖らせた悠の頬を、都榛はがっしりと掴んだ。

 ◇

 鍵をかけた二人の部屋。
 同じ布団を分け合うことにが当たり前になって来た今日この頃。
 そっとベッドに横たえられた悠は、掠れる声で言う。
「風呂に入ってません。シーツが……」
「別に洗えばいいだろ」
「洗うの、俺ですけど」
 張りつめていた空気に、小さな笑い声が落ちる。
 苦笑いの中に、ほんの少しだけ安堵が滲んだみたいだった。
 都榛がベッドの端に腰を下ろす。
 男二人分の体重を受けて軋むスプリングの音。
 雨の匂いと、静かな間。
 やがて、低く穏やかな声が響く。
「……さっきの男、誰だ?」
 悠の胸の奥がきゅっと縮む。
 それでも、表情だけは変えずにいた。
「さあ、知らないですね」
 悠は天井を見つめたまま、軽く肩をすくめる。
「嘘ついてるよな」
 都榛の声は淡々としていた。
 責めるようでも、試すようでもない。
 ただ見抜かれているという事実が、悠の呼吸を奪った。
「嘘なんてつくわけ―――」
 都榛が身を乗り出す。
 ベッドの上で、悠の肩を押し倒すようにして覆いかぶさった。
 近い距離に、息が触れる。
 悠は反射的に、都榛のシャツのボタンへと手をかけた。
「……わかりました」
 絞り出した声は掠れていた。
 三つ目のボタンをはずし終えると、ベッドに身を投げ出す。
「好きにしてください」
 こんな身体でいいのなら、と。
 悠は胸元に咲いていた一輪の花を引きちぎり、床に捨てた。
「違う」
「何が違うんですか」
 都榛の手が、悠の指を掴んだ。
 掌に残る深紅の花弁を奪い取るように。
「俺は、こんな風にしたいんじゃない」
 その声が、ひどく優しくて、痛かった。
 悠の瞳に滲んだ光が、ぼやける。
 何も言えず、目を伏せるしかなかった。
 沈黙の中、都榛はそのまま悠を抱きしめた。
 花弁の香りが、わずかに血の匂いを帯びていた。
「……お前がどうしてそんなふうに、自分を壊そうとするのか、俺にはわからない」
 低い声が耳元に落ちる。
「俺はお前を汚れたと思ったことなんて一度もない」
 悠の肩がぴくりと揺れた。
「やめてください、そういうの……」
「なんでだよ」
「俺は元々汚いところで生きてきた人間なので」
 震える声は、壊れそうに静かだった。
 悠は、都榛の胸の中で小さく息を吐く。
「俺はずっと都榛さんの傍にいます。貴方が俺を必要としなくなるまで」
 都榛が言葉を探す間もなく、悠は続けた。
「だから、優しくしないで。優しくされると……おかしくなりそうです」
 都榛は何も言わなかった。
 ただ、悠を抱き寄せたまま、彼の髪を撫でた。
 その仕草はまるで、壊れものを扱うようだった。
「悠……」
 悠は都榛の言葉を遮るように、唇を合わせた。
 愛おしむと言うより、衝突に近い。
 やがて、悠の瞼がゆっくりと落ちる。
 都榛から体液を奪わずとも悠は触れ合うだけで幸せだった。
 近くで都榛の呼吸が聞こえる。
 その瞳が今日も星屑を落としたように輝いている。
 いつかそれが自分ではない誰かに向けられるように。

 夜もすがら。
 静まり返った部屋の中、悠はそっと目を開けた。
 隣で眠る都榛の寝息が、規則正しく響いている。
 指先で、彼の髪をなぞった。
 手入れの行き届いた黒髪が指の中でさらさらほどけていく。
 長いまつ毛、節くれだった指。
 獣のような表情をしようとも、寝顔は昔と変わらない。
 いくら悠より大きくなろうとも、悠にとってはあの頃から変わらない大切な存在だ。
 悠を人として扱ってくれた都榛に、ただ報いたいだけなのに―――。

 悠はそっとベッドを抜け出した。
 裸足の足裏に、床の冷たさが沁みる。
 カーテンの隙間から差し込む月明かりの下で、胸のあたりがじんと焼けついた。
 痛みが、熱を帯びて広がる。
 やがて悠の足を伝って、青白い茎がゆっくりと伸びていった。
 それをぐしゃりと握りしめて、ごみ箱に放る。
 まだ青い鮮やかな匂い。

 ごみ箱の中でただ焼却されるのを待つ花は、まるであの頃の悠のように静かに時が過ぎるのを待っていた。
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