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第5話 溺れる
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冷たい風が頬をなぞった。
何日も前から雨が止まない。
この街に来てからというもの、空はいつもどこか濁っていて、どれほど目を凝らしても星の欠片すら目にしなかった。
馴染みのないスパイスの匂い。
濡れたコンクリートに反射する、昼夜問わず狂ったように咲くネオンの光。
遠くでは車のクラクションがしきりに響き渡る。
昼夜の区別を失くした街を、悠はまるで他人の夢の中の出来事のように感じていた。
店の扉を開けた瞬間、熱気と煙草の匂いが押し寄せた。
カウンターの中で、悠は淡々と酒を作る。
色とりどりの照明が彼の頬を奇抜な色に染めていく。
その目の前の席に座る、金髪の女たちが甲高く笑っていた。
「あなた、日本人? かわいい顔してるじゃない」
グラスを受け取るはずの手が、悠の頬をなぞる。
悠は眉ひとつ動かさず、ボトルに手を伸ばした。
「俺、そういうの興味ないんで」
乾いた声。鋭い視線。
それでも女たちは離れない。
悠が冷たくすればするほど、彼女たちは面白がるように笑った。
淡い肌に浮かぶ真っ赤なリップが鮮烈だ。
その様子を、都榛は少し離れた席から見ていた。
いつも昼の世界で生きてきた彼にとって、この街はまるで毒そのもののようだ。
煙草の煙、派手なネオン、見知らぬ言葉。
平然と場に溶け込む悠と違い、その横顔にはどこか暗い影が落ちている。
悠と都榛は住む世界が違う―――綺麗な世界にいたのは都榛の方なはずなのに、今の彼は置いていかれたくなくて、親の脚に縋りつく子供のような顔だった。
客を送り出して扉を閉めると、店は急に静かになった。
グラスを拭いていた悠の背後で、都榛が低く言った。
「……楽しそうだな」
「え? 俺ですか?」
「他に誰がいる」
その声音に、悠はわずかに首を傾げた。
悠は接客業自体が嫌いなのに、何が楽しくてあんなに触るわしつこいわな客を相手しなければならないのか。
思い出しても鳥肌が立ちそうな、女たちの視線。
悠は先ほどの光景を思い出して身震いした。
都榛は澄んだ瞳で、窓の向こうにある止まない雨を眺めている。
何を考えているのかは分からなかったが、悠は都榛が不機嫌なことだけは理解できた。
「まさか妬いてるんですか」
少しの沈黙。
都榛が静かに頷いた。
「……うん」
軽口のつもりで言った悠の動きが、ぴたりと止まる。
笑って流されると思っていた。
けれど、都榛の瞳は真剣だった。
「……都榛さん」
「お前、本当に分かっていないのか」
カウンター越しに手を伸ばされる。
指先が頬に触れた瞬間、悠の心臓が跳ねた。
「嫌だな……都榛さん、ホームシックなんじゃないですか?」
乾いた笑いを浮かべながらも、悠の声は震えていた。
その腕を、都榛が掴む。
強く、逃げられないほどに。
「都榛さん……?」
次の瞬間、熱が押し寄せた。
吐息が触れる。
まだまばらに人がいる中で、都榛は人目も気にせず悠を抱きしめると、奥の部屋へと連れて行く。
店で働く同僚たちが「ひゅ~」と口笛を吹いていた。
◇ ◇ ◇
部屋は広く、それなのにベッドは一つしかなかった。
マスターが来ると思っていたここのオーナーは、当然一人分の準備しかしていない。
薄いシーツと、窓から漏れ入るネオンの光。
喧騒から離れた部屋の中を、やけに重い空気が包んだ。
「都榛さん……」
悠の声は、雨音に溶けるほど小さかった。
いつも通りの軽口を叩いて終わりたいのに、身体が動かない。
都榛が口を開く。
「お前さ、俺のことまだ”主の息子”だと思ってるだろ」
「……違います」
「だったら――」
唇が触れた。
かさついたそこに舌が触れ、悠は僅かに身をよじった。
「都榛さん、ちょっと待……っ」
その先の言葉は、都榛の口内に消えていった。
驚きと恐怖、それ以上に悦びが身体の奥からあふれ出した。
悠はずっと、都榛を男として見てしまっていたのだ。
罪なんてなければすぐにでも触れたい。
都榛もそう思っているのなら―――。
「悠、好きだ」
悠が都榛を拒もうとした手が止まる。
都榛の瞳は、獲物を食らう獣のようにぎらりと光っていた。
もう逆らえない。
触れたら簡単に壊れてしまいそうだ。
けれど、全部粉々に砕けて失くなってしまっても良いと心のどこかで思ってしまった。
「あ……」
悠の短い声が漏れる。
何度も熱く、熱く吐き出されるそれは、冷たい空気に溶けて消えた。
でも絡め合う指と指の間で、新たな熱が生まれる。
「いつもの軽口はどうした?」
「そんなこと……」
「自分でできるよな?」
顔は焼けるように熱く、けれどゆっくりと頷いていた。
真っ暗な部屋に映える悠の白い肌。
そこに、花なんてないのに、都榛が歯を立てる。
「…っ……うぁ」
自分から出たとは思えない声に、口を塞ごうとした手は都榛によって捕らえられる。
悠は首を振りながら、ただその熱に沈んでいった。
雨音が止んだ。
窓の向こうに光が差す。
部屋の中に響くには、花の香りと、二人の甘い声だけだった。
遠くの方で、朝を告げる鐘が鳴る。
都榛の指が髪を撫でるたび、悠は胸の奥に沈んでいた恐怖が少しずつ溶けていくのを感じていた。
醜いと思っていた赤が、都榛の手の中で解けていく。
ネオンに照らされ青く、青く。
それは何の贖罪もなく都榛に愛されている時みたいで、ほんの少しだけ、幸福だった。
――ほんの、少しだけ。
◇ ◇ ◇
数日後。
止まない雨が続いていた。
扉を叩く音に、悠はグラスを磨く手を止める。
見覚えのある声だった。
胸の奥で何かが跳ねた。
この声を知っている。
「どうした?」と尋ねた都榛に、「なんでもないです」と答える。
けれど、震えた声は隠せなかった。
扉の向こうには、無精ひげを生やした汚い格好の男が立っていた。
「久しぶりだな」
男の口が弧を描く。
だが、目は笑っていなかった。
誰の知り合いなのかと首を傾げる都榛の隣で、悠の表情がほんの少しだけ強張った。
さっと血の気が引く。
都榛が訝しげにその男を見た。
「いや、久しぶりではないか―――ハル」
世界が、ひときわ大きな音を立てて、崩れた。
何日も前から雨が止まない。
この街に来てからというもの、空はいつもどこか濁っていて、どれほど目を凝らしても星の欠片すら目にしなかった。
馴染みのないスパイスの匂い。
濡れたコンクリートに反射する、昼夜問わず狂ったように咲くネオンの光。
遠くでは車のクラクションがしきりに響き渡る。
昼夜の区別を失くした街を、悠はまるで他人の夢の中の出来事のように感じていた。
店の扉を開けた瞬間、熱気と煙草の匂いが押し寄せた。
カウンターの中で、悠は淡々と酒を作る。
色とりどりの照明が彼の頬を奇抜な色に染めていく。
その目の前の席に座る、金髪の女たちが甲高く笑っていた。
「あなた、日本人? かわいい顔してるじゃない」
グラスを受け取るはずの手が、悠の頬をなぞる。
悠は眉ひとつ動かさず、ボトルに手を伸ばした。
「俺、そういうの興味ないんで」
乾いた声。鋭い視線。
それでも女たちは離れない。
悠が冷たくすればするほど、彼女たちは面白がるように笑った。
淡い肌に浮かぶ真っ赤なリップが鮮烈だ。
その様子を、都榛は少し離れた席から見ていた。
いつも昼の世界で生きてきた彼にとって、この街はまるで毒そのもののようだ。
煙草の煙、派手なネオン、見知らぬ言葉。
平然と場に溶け込む悠と違い、その横顔にはどこか暗い影が落ちている。
悠と都榛は住む世界が違う―――綺麗な世界にいたのは都榛の方なはずなのに、今の彼は置いていかれたくなくて、親の脚に縋りつく子供のような顔だった。
客を送り出して扉を閉めると、店は急に静かになった。
グラスを拭いていた悠の背後で、都榛が低く言った。
「……楽しそうだな」
「え? 俺ですか?」
「他に誰がいる」
その声音に、悠はわずかに首を傾げた。
悠は接客業自体が嫌いなのに、何が楽しくてあんなに触るわしつこいわな客を相手しなければならないのか。
思い出しても鳥肌が立ちそうな、女たちの視線。
悠は先ほどの光景を思い出して身震いした。
都榛は澄んだ瞳で、窓の向こうにある止まない雨を眺めている。
何を考えているのかは分からなかったが、悠は都榛が不機嫌なことだけは理解できた。
「まさか妬いてるんですか」
少しの沈黙。
都榛が静かに頷いた。
「……うん」
軽口のつもりで言った悠の動きが、ぴたりと止まる。
笑って流されると思っていた。
けれど、都榛の瞳は真剣だった。
「……都榛さん」
「お前、本当に分かっていないのか」
カウンター越しに手を伸ばされる。
指先が頬に触れた瞬間、悠の心臓が跳ねた。
「嫌だな……都榛さん、ホームシックなんじゃないですか?」
乾いた笑いを浮かべながらも、悠の声は震えていた。
その腕を、都榛が掴む。
強く、逃げられないほどに。
「都榛さん……?」
次の瞬間、熱が押し寄せた。
吐息が触れる。
まだまばらに人がいる中で、都榛は人目も気にせず悠を抱きしめると、奥の部屋へと連れて行く。
店で働く同僚たちが「ひゅ~」と口笛を吹いていた。
◇ ◇ ◇
部屋は広く、それなのにベッドは一つしかなかった。
マスターが来ると思っていたここのオーナーは、当然一人分の準備しかしていない。
薄いシーツと、窓から漏れ入るネオンの光。
喧騒から離れた部屋の中を、やけに重い空気が包んだ。
「都榛さん……」
悠の声は、雨音に溶けるほど小さかった。
いつも通りの軽口を叩いて終わりたいのに、身体が動かない。
都榛が口を開く。
「お前さ、俺のことまだ”主の息子”だと思ってるだろ」
「……違います」
「だったら――」
唇が触れた。
かさついたそこに舌が触れ、悠は僅かに身をよじった。
「都榛さん、ちょっと待……っ」
その先の言葉は、都榛の口内に消えていった。
驚きと恐怖、それ以上に悦びが身体の奥からあふれ出した。
悠はずっと、都榛を男として見てしまっていたのだ。
罪なんてなければすぐにでも触れたい。
都榛もそう思っているのなら―――。
「悠、好きだ」
悠が都榛を拒もうとした手が止まる。
都榛の瞳は、獲物を食らう獣のようにぎらりと光っていた。
もう逆らえない。
触れたら簡単に壊れてしまいそうだ。
けれど、全部粉々に砕けて失くなってしまっても良いと心のどこかで思ってしまった。
「あ……」
悠の短い声が漏れる。
何度も熱く、熱く吐き出されるそれは、冷たい空気に溶けて消えた。
でも絡め合う指と指の間で、新たな熱が生まれる。
「いつもの軽口はどうした?」
「そんなこと……」
「自分でできるよな?」
顔は焼けるように熱く、けれどゆっくりと頷いていた。
真っ暗な部屋に映える悠の白い肌。
そこに、花なんてないのに、都榛が歯を立てる。
「…っ……うぁ」
自分から出たとは思えない声に、口を塞ごうとした手は都榛によって捕らえられる。
悠は首を振りながら、ただその熱に沈んでいった。
雨音が止んだ。
窓の向こうに光が差す。
部屋の中に響くには、花の香りと、二人の甘い声だけだった。
遠くの方で、朝を告げる鐘が鳴る。
都榛の指が髪を撫でるたび、悠は胸の奥に沈んでいた恐怖が少しずつ溶けていくのを感じていた。
醜いと思っていた赤が、都榛の手の中で解けていく。
ネオンに照らされ青く、青く。
それは何の贖罪もなく都榛に愛されている時みたいで、ほんの少しだけ、幸福だった。
――ほんの、少しだけ。
◇ ◇ ◇
数日後。
止まない雨が続いていた。
扉を叩く音に、悠はグラスを磨く手を止める。
見覚えのある声だった。
胸の奥で何かが跳ねた。
この声を知っている。
「どうした?」と尋ねた都榛に、「なんでもないです」と答える。
けれど、震えた声は隠せなかった。
扉の向こうには、無精ひげを生やした汚い格好の男が立っていた。
「久しぶりだな」
男の口が弧を描く。
だが、目は笑っていなかった。
誰の知り合いなのかと首を傾げる都榛の隣で、悠の表情がほんの少しだけ強張った。
さっと血の気が引く。
都榛が訝しげにその男を見た。
「いや、久しぶりではないか―――ハル」
世界が、ひときわ大きな音を立てて、崩れた。
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