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第4話 揺らぐ境界線
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「海外出店……?」
突然の言葉に、都榛は思わず手を止めた。
【CafeBar:Blue】はちょうどランチの真っ最中。
夜の残り香を丁寧に拭い去った店内には、女性客たちの穏やかな会話が漂っている。
トマトとバジルの香り。氷の砕ける音。
そんな昼下がりにカウンターでショットグラスを煽っているのは、店のマスターだった。
五十を迎えたという彼は、胸元をやたらとはだけたバーテン服姿で、金に染めた頭には黒と白い髪が入り混じっている。
昼間にも関わらず、夜の空気を纏ったままの男だ。
「ああ、ちょっと知り合いの伝手でな。とある街で酒作ってみねえかって」
マスターはストレートのウイスキーを一口。
客の目も気にせず、煙草に火を点ける。
「それで二つ返事したんですか?」
「ああ」
「ああ、って……」
都榛は思わず声を荒げ、机を拭く手を止めた。
空いたグラスをまとめて、カウンターに戻る。
恩人である彼にできることなら報いたい。
日本に来て、右も左も分からなかった彼らにここで生き抜く術を教えてくれた。
大げさだが、ここではマスターが彼らの親代わりのようなものだった。
だが、如何せんこの男はあまりにも自由すぎる。
「出店するなら準備とか……マスター何もやってないじゃないですか」
「それなら全部知り合いがやってくれた。俺は来るだけでいいって言われている」
煙を吐き出しながら笑うマスターに、都榛は苦笑するしかなかった。
「本当にマスターって何者なんですか」
海外にも平然と知り合いがいて、恋人らしき人間が男女問わず店に代わる代わる訪れる。
会話はほとんど通じないのに、英文を読み、異国語を話し出す――底の知れない男だ。
都榛はカレンダーを捲った。
マスターは常に多忙で、そんなに日程を確保できるのだろうか。
頬をかく都榛の隣で、マスターは煙草の先を灰皿に押し付けた。
じゅ、と火が消える音がする。
煙が途切れ、視界が澄んだ瞬間、マスターがずいと顔を寄せてきた。
「な、なんですか…… 」
彼は口の端を持ち上げ、静かに告げる。
「だから”お前ら”、来週から海外な」
◇
灯りを落とした店内。
オレンジ色だった空には、紫の雲がかかっている。
「……今何て、言いました?」
悠の声は酷くざらついていた。
「だから俺達来週から海外だって」
カウンターで酒を作る都榛の隣で、悠は明らかに顔をしかめた。
ランチの片づけを終え、夜スタッフの悠と交代する時間。
昼夜が逆転する彼らにとって、それは一瞬の逢瀬でもあった。
「またアイツですか」
「アイツって言うなよ」
悠が威嚇するように八重歯を覗かせる。
わざとらしいほど敵意を向き出す悠に、都榛はそっと身を寄せた。
耳にかかる短い横髪を梳くって、頬を撫でる。
「前後は遊んで良いって言ってたし、せっかくだから行こう?」
悠は避けるように横を向き、棚からマドラーを取り出した。
「……都榛さんが言うなら」
呟いた声は、グラスの触れ合う音に掻き消された。
都榛同様、悠もマスターに恩があるのだが、度々都榛を連れ出しては潰れるまで飲ませる彼を悠は完全に毛嫌いしていた。
物好きなマスターは、そんな悠を面白がってもっと弄るわけで。
「アイツの命令聞いたわけじゃないですからね」
「分かったって」
都榛がふわりと笑う。
それを見ないように、悠はウイスキーの入ったシェイカーを振った。
「なあ、スーツケースどこしまったっけ?」
「ああ、それなら―――」
◇
男二人の荷物などたかが知れている。
スーツケースひとつに着替えを詰め、彼らは東京を離れた。
揺れる機内。
窓の外には雲の海が広がっている。
「綺麗だな」
都榛の言葉に、悠は僅かに顔を上げた。
「何もかもちっさく見えますね」
塵みたい、と悠は指で小さな隙間を作る。
その手を包んで、都榛は悠の耳もとに唇を寄せた。
「日本に来た時のこと、覚えているか?」
微かな息が頬を撫で、悠はびくりと身を震わせた。
顔を上げた先に、都榛の笑みがある。慌てて視線を逸らし、窓際へ逃げる。
「急にどうしたんだよ」
「いや、別に。ただ、近い、と思っ、て」
「なんだよ、それ。初デートじゃあるまいし」
悠はぎゅっと両掌を握りしめる。
何か言い返そうと思ったのに、気の利いたいつも通りの軽口が出てこなかった。
「誰もデートだなんて……」
漏れ出た言葉は、恥ずかしいくらいに弱々しく、悠は静かに目を伏せた。
静寂。
揺れる機体の中、エンジン音が厳かに響く。
「なあ、悠」
悠は窓際に視線をやったまま「はい」と答えた。
目が合わないまま都榛は続ける。
「お前は日本に来た時、俺が言った言葉を覚えているか?」
悠は一瞬言葉に詰まった。
だがすぐに小さく首を振った。
眺め続ける窓の向こうは、雲をいくつも通り越し、みるみるうちに海色に染まっていく。
「……もう忘れてしまいました」
ぽつりと口にした言葉は、まるで悠自身が自分に言い聞かせているみたいだった。
都榛は何も言わない。
ただ、伏せたままの瞳が、静かに悠を映す。
「悠、何か隠してるんだろ?」
その声に、悠の肩が小さく揺れた。
見つめ返すその瞳から逃げたいのに、逃げられない。
都榛の強い眼差しに、悠は弱かった。
気づけば手を取られ、窓際へと追い詰められていた。
汗ばむ掌が都榛の指を汚してしまいそうで、それでも離せなかった。
「……何にも隠してませんよ」
今の状況は、まるで目を逸らすことが罪だと言われているようで。
都榛を見つめる悠の瞳はゆらゆら揺れていた。
「悠が苦しいと、俺も苦しい」
都榛の声は穏やかだった。
「こんなこと言うと笑うだろうけど——お前をあの場所から連れ出した日、俺は決めたんだ。悠の痛みも全部、俺が受け取るって」
悠は唇を噛み、滲んだ鉄の味を舌で拭った。
都榛は、悠を“人間”として扱ってくれる。
それは当たり前のようで、悠にとっては特別だった。
「悠、ちゃんとブートニエールになろう」
いつも通りに断ろうとしたその手を、都榛は逃がさなかった。
「答えは急がなくていい。一年でも十年でも、待つ。お前の本当の気持ちがわかるまで」
都榛は、どれほど先の未来でも悠が隣にいると信じている。
その純粋さが、嬉しくて、苦しくて、どうしようもなかった。
「……都榛さん」
「ん?」
変わらぬ笑み。幼いころと同じまなざし。
どれだけ拒んでも、何も知らないまま悠の心に踏み込んでくる。
その顔がいつか、軽蔑に変わるのが——怖かった。
「……なんでも、ないです」
あの日、どんな手を使ってでも都榛が悠の世界に入ることを拒むべきだった。
突然の言葉に、都榛は思わず手を止めた。
【CafeBar:Blue】はちょうどランチの真っ最中。
夜の残り香を丁寧に拭い去った店内には、女性客たちの穏やかな会話が漂っている。
トマトとバジルの香り。氷の砕ける音。
そんな昼下がりにカウンターでショットグラスを煽っているのは、店のマスターだった。
五十を迎えたという彼は、胸元をやたらとはだけたバーテン服姿で、金に染めた頭には黒と白い髪が入り混じっている。
昼間にも関わらず、夜の空気を纏ったままの男だ。
「ああ、ちょっと知り合いの伝手でな。とある街で酒作ってみねえかって」
マスターはストレートのウイスキーを一口。
客の目も気にせず、煙草に火を点ける。
「それで二つ返事したんですか?」
「ああ」
「ああ、って……」
都榛は思わず声を荒げ、机を拭く手を止めた。
空いたグラスをまとめて、カウンターに戻る。
恩人である彼にできることなら報いたい。
日本に来て、右も左も分からなかった彼らにここで生き抜く術を教えてくれた。
大げさだが、ここではマスターが彼らの親代わりのようなものだった。
だが、如何せんこの男はあまりにも自由すぎる。
「出店するなら準備とか……マスター何もやってないじゃないですか」
「それなら全部知り合いがやってくれた。俺は来るだけでいいって言われている」
煙を吐き出しながら笑うマスターに、都榛は苦笑するしかなかった。
「本当にマスターって何者なんですか」
海外にも平然と知り合いがいて、恋人らしき人間が男女問わず店に代わる代わる訪れる。
会話はほとんど通じないのに、英文を読み、異国語を話し出す――底の知れない男だ。
都榛はカレンダーを捲った。
マスターは常に多忙で、そんなに日程を確保できるのだろうか。
頬をかく都榛の隣で、マスターは煙草の先を灰皿に押し付けた。
じゅ、と火が消える音がする。
煙が途切れ、視界が澄んだ瞬間、マスターがずいと顔を寄せてきた。
「な、なんですか…… 」
彼は口の端を持ち上げ、静かに告げる。
「だから”お前ら”、来週から海外な」
◇
灯りを落とした店内。
オレンジ色だった空には、紫の雲がかかっている。
「……今何て、言いました?」
悠の声は酷くざらついていた。
「だから俺達来週から海外だって」
カウンターで酒を作る都榛の隣で、悠は明らかに顔をしかめた。
ランチの片づけを終え、夜スタッフの悠と交代する時間。
昼夜が逆転する彼らにとって、それは一瞬の逢瀬でもあった。
「またアイツですか」
「アイツって言うなよ」
悠が威嚇するように八重歯を覗かせる。
わざとらしいほど敵意を向き出す悠に、都榛はそっと身を寄せた。
耳にかかる短い横髪を梳くって、頬を撫でる。
「前後は遊んで良いって言ってたし、せっかくだから行こう?」
悠は避けるように横を向き、棚からマドラーを取り出した。
「……都榛さんが言うなら」
呟いた声は、グラスの触れ合う音に掻き消された。
都榛同様、悠もマスターに恩があるのだが、度々都榛を連れ出しては潰れるまで飲ませる彼を悠は完全に毛嫌いしていた。
物好きなマスターは、そんな悠を面白がってもっと弄るわけで。
「アイツの命令聞いたわけじゃないですからね」
「分かったって」
都榛がふわりと笑う。
それを見ないように、悠はウイスキーの入ったシェイカーを振った。
「なあ、スーツケースどこしまったっけ?」
「ああ、それなら―――」
◇
男二人の荷物などたかが知れている。
スーツケースひとつに着替えを詰め、彼らは東京を離れた。
揺れる機内。
窓の外には雲の海が広がっている。
「綺麗だな」
都榛の言葉に、悠は僅かに顔を上げた。
「何もかもちっさく見えますね」
塵みたい、と悠は指で小さな隙間を作る。
その手を包んで、都榛は悠の耳もとに唇を寄せた。
「日本に来た時のこと、覚えているか?」
微かな息が頬を撫で、悠はびくりと身を震わせた。
顔を上げた先に、都榛の笑みがある。慌てて視線を逸らし、窓際へ逃げる。
「急にどうしたんだよ」
「いや、別に。ただ、近い、と思っ、て」
「なんだよ、それ。初デートじゃあるまいし」
悠はぎゅっと両掌を握りしめる。
何か言い返そうと思ったのに、気の利いたいつも通りの軽口が出てこなかった。
「誰もデートだなんて……」
漏れ出た言葉は、恥ずかしいくらいに弱々しく、悠は静かに目を伏せた。
静寂。
揺れる機体の中、エンジン音が厳かに響く。
「なあ、悠」
悠は窓際に視線をやったまま「はい」と答えた。
目が合わないまま都榛は続ける。
「お前は日本に来た時、俺が言った言葉を覚えているか?」
悠は一瞬言葉に詰まった。
だがすぐに小さく首を振った。
眺め続ける窓の向こうは、雲をいくつも通り越し、みるみるうちに海色に染まっていく。
「……もう忘れてしまいました」
ぽつりと口にした言葉は、まるで悠自身が自分に言い聞かせているみたいだった。
都榛は何も言わない。
ただ、伏せたままの瞳が、静かに悠を映す。
「悠、何か隠してるんだろ?」
その声に、悠の肩が小さく揺れた。
見つめ返すその瞳から逃げたいのに、逃げられない。
都榛の強い眼差しに、悠は弱かった。
気づけば手を取られ、窓際へと追い詰められていた。
汗ばむ掌が都榛の指を汚してしまいそうで、それでも離せなかった。
「……何にも隠してませんよ」
今の状況は、まるで目を逸らすことが罪だと言われているようで。
都榛を見つめる悠の瞳はゆらゆら揺れていた。
「悠が苦しいと、俺も苦しい」
都榛の声は穏やかだった。
「こんなこと言うと笑うだろうけど——お前をあの場所から連れ出した日、俺は決めたんだ。悠の痛みも全部、俺が受け取るって」
悠は唇を噛み、滲んだ鉄の味を舌で拭った。
都榛は、悠を“人間”として扱ってくれる。
それは当たり前のようで、悠にとっては特別だった。
「悠、ちゃんとブートニエールになろう」
いつも通りに断ろうとしたその手を、都榛は逃がさなかった。
「答えは急がなくていい。一年でも十年でも、待つ。お前の本当の気持ちがわかるまで」
都榛は、どれほど先の未来でも悠が隣にいると信じている。
その純粋さが、嬉しくて、苦しくて、どうしようもなかった。
「……都榛さん」
「ん?」
変わらぬ笑み。幼いころと同じまなざし。
どれだけ拒んでも、何も知らないまま悠の心に踏み込んでくる。
その顔がいつか、軽蔑に変わるのが——怖かった。
「……なんでも、ないです」
あの日、どんな手を使ってでも都榛が悠の世界に入ることを拒むべきだった。
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