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第13話 灰色の空
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灰が風に攫われて、明るみだした世界に消えていく。
ランタンの炎が細く震え、まるで悠の心を撫でるようにゆらゆらと揺れる。
悠は、しばらくその小さな明かりを見つめていた。
胸の奥で、何かがじわじわとひび割れていく音がする。
けれど、それが痛みなのか、安堵なのか、自分でももう分からなかった。
――知らなかったことにしよう。
何も届いてはいなかった。
そう思い込むように、深く息を吐く。
冷たい外気が肺を突き抜けて、思考のすべてを凍らせた。
「悠?」
微かに玄関の扉が開いた。
悠があまりにも遅いから、出てきてしまったらしい。
悠は慌てて振り返ると、笑顔を作った。
「……あ、郵便、間違ってたみたいで。隣の家のだったから」
都榛が訝しげに眉を寄せる。
その視線が怖かった。
何も知らないはずの彼が、すべてを見透かしているようで。
胸の奥の罪が、ひときわ強く疼く。
だが都榛はそれ以上何も言わず、ただ「寒いだろ」と言って悠の肩を抱いた。
その手の温もりが、たまらなく優しい。
だからこそ、痛いほど苦しかった。
◇
あの日を境に、悠の中の時間が少しずつ歪んでいった。
いつもと同じ朝食。いつもと同じ帰り道。
なのに、ふとした瞬間に“取り返しのつかないこと”がすぐ傍でこちらを見ている気がした。
キッチンで皿を洗う手が止まり、視線を上げると、窓の外では雨が降っている。
この季節の雨はなかなか止まない。
空はまるで悠の心の中みたいに、ずっと灰色だった。
あの日の午後、街に買い出しに出た。
都榛は昨日も今日も仕事。
端正な顔立ちと、天性の愛される性格によりとある美容室でお世話になっているらしい。
いつか「悠の髪を染めたい」なんて美容師免許も持っていないのに意気込んでいる。
都榛も頑張っているから、悠ももっと精進せねば。
肩にかけた買い物バッグは都榛の好きなもので溢れていた。
「ねえ、聞いた?」
雑踏のざわめきに紛れて、ふと耳に入った噂があった。
「三島家の跡目争い、とうとう死人が出たって」
「まさか殺しまで起きるなんてね。あそこは昔から因縁深いけど……」
悠の足がぴたりと止まった。
通り過ぎた二人組の女が、さらに声を潜める。
「後継ぎが駆け落ちしたらしいじゃない。跡目が空いたもんだから、周りが揉めてさ」
「相手は誰だったんだろ。相当すごい美女だったんじゃない?」
「あんな家の息子を誑かすなんてね」
その言葉が、悠の胸を撃ち抜いた。
誑かす。
違う。
悠は都榛の手を取り家を出たのだ。
それなのに、世間の中では“都榛を惑わせた女”として形づくられている。
息が苦しい。
笑いながら通り過ぎる人たちの声が、遠くで滲んだ。
――やっぱり俺のせい、なのか。
都榛の手を取ってしまったから。
手紙を、捨てたから。
あのとき、返していれば……!
でも、そうしたら、この幸せは消えていた。
守ったのか、壊したのか。
答えなんて、誰も教えてくれない。
胸の奥で、なにかがぽたりと落ちた。
それは涙なのか、血なのか。
悠の手には見たこともない深紅の花が咲いていた。
花弁は小さく、それでも黄色い花粉が静かに舞っている。
―――なんだこれ!気持ちが悪い!
それをむしって捨てると、自分でも分からないまま、悠はその場を離れた。
◇
買い物袋を握りしめた帰路、ポストの中に白い封筒が差さっているのが見えた。
この前と同じ。
差出人の名前を見た瞬間、喉の奥がきゅっと締まった。
Mishima。
震える手で封を切ると、雨粒が紙の上にぽつりと落ちた。
『都榛早く帰ってきて。お父さんが―――』
頭の中はずっと真っ白だった。
世界には最初から音が無いみたいだ。
紙の上の黒いインクだけが、現実を突きつけていた。
――都榛の両親はもう世の中にいないのに。
封筒を胸に押し当て、その場に立ち尽くす。
息が苦しい。
扉の向こうに明かりはついていない。
都榛はまだ仕事だ――大丈夫。まだ、大丈夫。
悠は震えるまま扉に手をかける。
「おかえり」
だが突然背後から声をかけられて、思わず肩が跳ねた。
仕事終わりの都榛が、傘を畳みながら微笑んでいた。
「帰り時間、同じだったんだな。荷物、持つよ」
「……あ、いや」
さっと身をかがめるも、簡単に袋が取り去られる。
都榛の指先が触れた瞬間、その優しさが皮膚の奥に刺さるように痛かった。
この人に――何も知られたくない。
悠は慌てて手紙を懐にしまい込んだ。
二人並んで部屋に入る。
灯されたばかりの明かりが、やけにまぶしかった。
都榛はテーブルに袋を置きながら、ふと目を止めた。
「……それ、何?」
視線は悠の先ほど隠したばかりの胸元に向けられている。
声が震えるのを悟られないように、悠は小さく笑った。
「ああ……光熱費のお知らせ、だった」
「高かった? 随分真剣な顔してたからさ」
都榛は軽く笑って、コートを脱ぎ始める。
その背中を見ながら、悠は小さく息を吐いた。
――ごめんなさい。
胸の奥で、声にならない言葉が溶けていく。
手紙をそっと持ち帰り、寝室の引き出しの奥にしまった。
なぜだか捨てられなかった。
全て知らなかったことにしてしまいたいのに、胸の奥にある傷を抉らなければ生きていけない気がした。
ランタンの炎が細く震え、まるで悠の心を撫でるようにゆらゆらと揺れる。
悠は、しばらくその小さな明かりを見つめていた。
胸の奥で、何かがじわじわとひび割れていく音がする。
けれど、それが痛みなのか、安堵なのか、自分でももう分からなかった。
――知らなかったことにしよう。
何も届いてはいなかった。
そう思い込むように、深く息を吐く。
冷たい外気が肺を突き抜けて、思考のすべてを凍らせた。
「悠?」
微かに玄関の扉が開いた。
悠があまりにも遅いから、出てきてしまったらしい。
悠は慌てて振り返ると、笑顔を作った。
「……あ、郵便、間違ってたみたいで。隣の家のだったから」
都榛が訝しげに眉を寄せる。
その視線が怖かった。
何も知らないはずの彼が、すべてを見透かしているようで。
胸の奥の罪が、ひときわ強く疼く。
だが都榛はそれ以上何も言わず、ただ「寒いだろ」と言って悠の肩を抱いた。
その手の温もりが、たまらなく優しい。
だからこそ、痛いほど苦しかった。
◇
あの日を境に、悠の中の時間が少しずつ歪んでいった。
いつもと同じ朝食。いつもと同じ帰り道。
なのに、ふとした瞬間に“取り返しのつかないこと”がすぐ傍でこちらを見ている気がした。
キッチンで皿を洗う手が止まり、視線を上げると、窓の外では雨が降っている。
この季節の雨はなかなか止まない。
空はまるで悠の心の中みたいに、ずっと灰色だった。
あの日の午後、街に買い出しに出た。
都榛は昨日も今日も仕事。
端正な顔立ちと、天性の愛される性格によりとある美容室でお世話になっているらしい。
いつか「悠の髪を染めたい」なんて美容師免許も持っていないのに意気込んでいる。
都榛も頑張っているから、悠ももっと精進せねば。
肩にかけた買い物バッグは都榛の好きなもので溢れていた。
「ねえ、聞いた?」
雑踏のざわめきに紛れて、ふと耳に入った噂があった。
「三島家の跡目争い、とうとう死人が出たって」
「まさか殺しまで起きるなんてね。あそこは昔から因縁深いけど……」
悠の足がぴたりと止まった。
通り過ぎた二人組の女が、さらに声を潜める。
「後継ぎが駆け落ちしたらしいじゃない。跡目が空いたもんだから、周りが揉めてさ」
「相手は誰だったんだろ。相当すごい美女だったんじゃない?」
「あんな家の息子を誑かすなんてね」
その言葉が、悠の胸を撃ち抜いた。
誑かす。
違う。
悠は都榛の手を取り家を出たのだ。
それなのに、世間の中では“都榛を惑わせた女”として形づくられている。
息が苦しい。
笑いながら通り過ぎる人たちの声が、遠くで滲んだ。
――やっぱり俺のせい、なのか。
都榛の手を取ってしまったから。
手紙を、捨てたから。
あのとき、返していれば……!
でも、そうしたら、この幸せは消えていた。
守ったのか、壊したのか。
答えなんて、誰も教えてくれない。
胸の奥で、なにかがぽたりと落ちた。
それは涙なのか、血なのか。
悠の手には見たこともない深紅の花が咲いていた。
花弁は小さく、それでも黄色い花粉が静かに舞っている。
―――なんだこれ!気持ちが悪い!
それをむしって捨てると、自分でも分からないまま、悠はその場を離れた。
◇
買い物袋を握りしめた帰路、ポストの中に白い封筒が差さっているのが見えた。
この前と同じ。
差出人の名前を見た瞬間、喉の奥がきゅっと締まった。
Mishima。
震える手で封を切ると、雨粒が紙の上にぽつりと落ちた。
『都榛早く帰ってきて。お父さんが―――』
頭の中はずっと真っ白だった。
世界には最初から音が無いみたいだ。
紙の上の黒いインクだけが、現実を突きつけていた。
――都榛の両親はもう世の中にいないのに。
封筒を胸に押し当て、その場に立ち尽くす。
息が苦しい。
扉の向こうに明かりはついていない。
都榛はまだ仕事だ――大丈夫。まだ、大丈夫。
悠は震えるまま扉に手をかける。
「おかえり」
だが突然背後から声をかけられて、思わず肩が跳ねた。
仕事終わりの都榛が、傘を畳みながら微笑んでいた。
「帰り時間、同じだったんだな。荷物、持つよ」
「……あ、いや」
さっと身をかがめるも、簡単に袋が取り去られる。
都榛の指先が触れた瞬間、その優しさが皮膚の奥に刺さるように痛かった。
この人に――何も知られたくない。
悠は慌てて手紙を懐にしまい込んだ。
二人並んで部屋に入る。
灯されたばかりの明かりが、やけにまぶしかった。
都榛はテーブルに袋を置きながら、ふと目を止めた。
「……それ、何?」
視線は悠の先ほど隠したばかりの胸元に向けられている。
声が震えるのを悟られないように、悠は小さく笑った。
「ああ……光熱費のお知らせ、だった」
「高かった? 随分真剣な顔してたからさ」
都榛は軽く笑って、コートを脱ぎ始める。
その背中を見ながら、悠は小さく息を吐いた。
――ごめんなさい。
胸の奥で、声にならない言葉が溶けていく。
手紙をそっと持ち帰り、寝室の引き出しの奥にしまった。
なぜだか捨てられなかった。
全て知らなかったことにしてしまいたいのに、胸の奥にある傷を抉らなければ生きていけない気がした。
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