闇の虜囚

黒砂糖

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〈後篇〉

第十六話

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 あまりにも身勝手な理屈を並べ立てる実の姉を目の当たりにした透の中では、怒りよりも悲しみの感情が多くを占めていた。
  「……そうか、結局……おれを騙していたのか」
  「ん? 何のこと?」
  「高校卒業後の進路……介護士になって人の役に立ちたいっていうのは、姉貴のただの口実だったのか?」
  三年前――あの日の春の記憶が蘇る。

――誰かの助けになれる仕事に就くことは、わたしの小さい頃からの夢なんだから。

そう言った深月のはにかんだような笑み――もっとも印象深く、かけがえのない思い出だった。それが今、当の姉の手によって穢されていく。
  「心外ね、嘘を吐いた覚えはないわ……福祉に興味があったのは事実よ」
  「……でも結局、真剣じゃなかったんだろ? 天職だって、おれに話してくれたのに……」
あのときの言葉を、透は本気で信じていた――陰ながら応援していた。だがその思いはすべて裏切られた。
  「姉貴の頭は、自分のことだけでいっぱいなんだな……おれの気持ちを考えることもしない」
  軽蔑を込めた視線を、透は姉に向ける。
  「……どうして、そんな目でわたしを見るの?」
  透の態度に、深月は初めて怒りを露わにした。
  「透まで、わたしを拒絶するの? わたしのありのままを認めてくれないの?」
  「…………」
  「――そう、透はわたしとここにいる気はないのね? だったら……」
  深月の右手で、ハサミの刃が光った。どこの文房具店にでも売っている、ごく有り触れたものだ。
  「また離れるくらいなら、いっそのことあなたを殺すわ……大丈夫よ、わたしも後を追うから」
  近づく深月から逃れようとし、透は椅子から転げ落ちた。松葉杖なしでは満足に動けない。
  顔をあげた透の喉元に、ハサミの刃が触れた。
  「……ほらな、やっぱり」
  怒りの形相で見下ろす深月に、透は冷ややかに言う。
  「自分の思い通りに行かないと、すぐにそうやって癇癪を起す……だから言っただろ? 姉貴に介護は無理なんだよ」
  「――っ」
  ハサミを握る深月の手に力が入り、尖った先端が喉に食い込んだ。わずかに皮膚が切れ、血が滲む――だが、そこまでだった。
  ぎりぎりと、深月は歯を食いしばっていた。ハサミを持つ手は小刻みに震えている。
  「ああっ――もうっ!」
  深月は叫ぶと、右手のハサミを投げ捨てた。
  「何でこんなことになってるのよっ? どこで間違ったのよ? わたしの何が悪かったのよ? ねえ、透っ? わたしは誰よりあなたのことをっ――」
  「気持ち悪いんだよ、正直」
  透は、そう吐き捨てた。
  「おれをそんな、姉貴の特殊な趣味に巻き込むなよ。迷惑だ」
  透の台詞が信じられないかのように、深月は口を半開きにして固まった。
  「……さっきから憎いだの許せないだの、何を言ってる? すべて姉貴の自業自得だろうが? 勝手に自滅したくせに、逆恨みもいいところだな」
  「…………あ」
  深月は呆然と透を見つめる。
  「そもそも、金欲しさに平気で他人に体を売るようなやつ、彼女としても願い下げに決まってるだろ?」
  「う、う…………」
  深月の瞳から、次第に涙が溢れ出していく。
  「ひ、ひどいわ……透。わたし、わたしだって、辛かったのに……で、でも頑張って……がん、頑張ったのに……そんな言い方、しなく……ても……」
  表情を歪め、深月は顔中を涙と鼻水で濡らしながら訴える。
  「何も姉貴だけが特別じゃない……みんな頑張ってる」
  一転して言い聞かせるような透の口調だった。
  「これまで姉貴が手にかけてきた人たちだって……辛いことがあっても、みんな頑張って生きていたんだ」
  その言葉に、深月は透を見上げた。
  「ああ……殺すって、そういうこと」
  深月はぼそりと呟いた。彼女はようやく、自分の行動を客観的に認識した様子だった。
  「そんなひどいことするなんて……わたしは何て最低な女……透に相応しくないわね」
  「…………」
  「人殺しは……罰を受けるべきよね」
  「……そうだな」
  「でもそれには、ひとつ問題があるわ……」
  「分かってる。姉貴の罪を裁ける法はない」
  「償うって、難しいわね……」
  「その方が姉貴にとって、償い甲斐があるだろ?」
  「償い甲斐って、変な言い方……でも、その通りよ」
  薄く微笑を浮かべた深月は、紛れもなく透の知っている姉そのものだった。
  深月は立ち上がると、自分の携帯を取り出した。それから、折り畳み式のその携帯を開く。
  「――いったい、何を?」
  訝しげな透に対し、深月は微笑んだままだった。
  「見ていて、透……わたしが自分に下した罰を」
  言った直後――深月は自分の携帯を、真っ二つにへし折った。
  「姉貴っ!?」
  透は思わず驚きの声をあげた。深月は手に残った携帯の残骸を、窓の外に放った。
  「……これでもう、わたしと現実世界との唯一の繋がりが途絶えたわ」
  そう口にする深月の表情は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
  「後はあなたが戻ったら、わたしはここで一人きりになる……これからは終わりのない時間を、この閉じた世界で過ごしていくわ」
  「……それでいいのか、姉貴?」
  愚問と知りつつ、血を分けた肉親として、透はそう問わずにはいられない。
  「ええ……ここからわたしの、本当の贖罪が始まるのよ」
  何の迷いもない、その答えが――透が訊いた、姉の最後の言葉だった。
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