Ocean

リヒト

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Ocean 10

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真夜中。


「ヒロ、起きて」


菜花の声に目覚めると、菜花が布団から起き上がり、時計を見ながらパタパタと服を着始めた。


「ん…… どした?」


「なんか破水したっぽい。陣痛ガンガン来てるし」


「は?」


「ヤバ!もう3分置きくらいになってるよ…… 15分置きになったら病院来いって言われてたのに。

……  あぁ…… あ痛…… うー……!」


お腹を押さえて動きを止め、うずくまる菜花。


「…… マジか」


とうとう来たか、この時が。


慌てず騒がず菜花が予め用意していた入院セットを担ぎ、俺の運転で菜花と菜花の母ちゃんを乗せて病院へ向かう。

夜間受付口に到着すると同時にドバッと破水して、車椅子に乗せられた菜花は、すぐさま分娩室に案内された。


立ち会いは一人までって決められてるから、折角一緒に来てくれた菜花の母ちゃんには申し訳なく思いながらも、菜花には俺が付き添うことに。

病衣に着替えた菜花が分娩台に上がるのを手助けする———お腹が大きいからバランス悪くて高いとこ登るのが危なっかしいからだ。

診察した看護師が、落ち着いた声で菜花に話す。


「んー、もうほぼ子宮口全開だね。今、助産師と先生呼んだから」


看護師が菜花の腕に点滴の準備をする中、割烹着みたいなもん——予防衣って言うのか——を身に付けた助産師が駆け付けて、菜花に向かって笑い掛ける。


「なぁに~?寝てて気付かなかったって?」


「はい…… 寝る前に何かちょっと痛いかもって思ってはいたんですけど、ほんとにこれがそうなのか分かんなくて、そのまま寝ちゃって…… もしかしてこれかな?ほんとにこれかな?あ、やっぱりこれだ!って思って起きたのがついさっきで」


「あはは、余裕だねー。いいぞー」


寝る直前にお迎え棒を使ったなんてことは言える筈もなく、菜花は俺と目が合うと気まずそうに目を伏せる。

痛みがあったのかよ…… 俺にはそんなこと全く言わなかったくせに。


菜花は初めての出産に緊張してはいるんだろうが、ビビるどころか落ち着き払って臨戦態勢に入っている。

俺が分娩台の脇でタオルとドリンクを準備している間にも、首や腕や足首を回し準備体操みたいなことをしていて、よっしゃかかって来いやコラァ!ってな表情。試合前みたいだな。

お、俺は何をすれば……?と邪魔にならないよう少し離れたところでオロオロしていると、スタッフ達と同じ不織布の予防衣を着るようにと手渡され、頭元に立って菜花の腰を摩ってあげるように指示される。

陣痛が来ると苦しみ悶える菜花に、ここか?こんな感じ?って聞きながら腰を摩ってやるけど、時々返事もままならないくらいの苦痛が襲ってきてのたうち回る姿を見たら、どうしてあげたらいいか分からずやっぱりオロオロしてしまう。


立ち会い出産にあたっては、事前にお産の進行と俺の役割について色々勉強させてもらっていた。

それでも、何もかも初めてのことで、不安しかない。

いざとなるとあまりの妻の苦しみ様にパニックになったり、中には血を見て卒倒しちまう父親も居るとかで、気分が悪くなったら無理せず退室するようにとは言われたが、菜花が痛みに敢然と立ち向かってるってのに俺一人逃げ出す訳にはいかないだろ…… 出産って、逃れられるものじゃないんだから。


「ん~~~!…… はぁっ、はぁっ、はぁっ……! 

あぁぁっ!…… はぁっ、はぁっ、…… うぅんっ…… んぁあ~っ……!」


菜花の悲鳴みたいな呼吸に、不謹慎にもアノときの声を思い起こして股間が疼いてしまう俺って……。

寝る前には求められても勃たなかったのに、今じんわり勃ちかけてることを菜花に知られたら、張っ倒されそうだな。


つい何時間か前には俺のを迎え挿れてきゅんきゅんしてたアソコから、今、赤ん坊が産まれてくるって不思議。

得体の知れない興奮とそれに纏わる罪悪感とに苛まれる。


「はぁ…… 死ぬかと思ったぁ……」


ごくごくと喉を鳴らして水を飲み、ふへぇ、と一息吐く菜花。

不思議なもんで、陣痛と陣痛の合間は全く痛みが無く楽になるらしい。

あ~きたきたきた……!って顔をしかめる菜花の腰を摩ってやってると、しばらくして汗だくの顔に笑顔を浮かべ、


「ありがとね…… ヒロの手、熱くて気持ちいい…… ちょっと楽になるよ」


なんて、俺に気遣いを見せる余裕がある。

でもまたすぐに襲って来る陣痛に菜花が没頭し始めると、手を握ったり腰を摩ってやるくらいのことしか出来ない歯痒さと情けなさが行ったり来たりする。


菜花がこんなに苦しんでるのに、俺、何もしてやれない。

でも、自分の無力を嘆いてる場合じゃない、菜花は今命懸けで俺たちの子を産んでくれようとしてるんだ……。


そんなことを考えてる間にも、どんどん強く長く、来る間隔が短くなっていく陣痛の波。


「あぁぁぁ~~~‼︎」


菜花が痛みと苦しみの余り絶叫すると、


「あぁ、切ない切ない…… 今、一番辛い時だよね」


「もうちょっとだからねー、頑張れ頑張れ」


出産経験者らしい看護師達が、共感して声を掛け激励してくれる。


「どう?うーんって息みたくなってきた?」


「…… はい…… うぅ…… 」


「まだもうちょっと我慢ねー。赤ちゃんも今頑張って降りて来てるから。力抜いてねー」


助産師の指示で、息みたくなるのを逃す呼吸が続く。

ひっ、ひっ、ふぅ~、ひっ、ひっ、ふぅ~……。


いやこれ辛いだろ。

ウンコ出たいのにふんばるなって言われてるようなもんだよな?

硬くてデカいのがすぐそこまで来てるのに…… って、全くもって別モンっスよねスンマセン。

だって、ちょっと想像付かねぇよ?俺のを挿れるのもキツいような狭いとこから赤ちゃんが出て来るなんて。


またちょっと陣痛の波が引き、嘘のように楽な顔になる菜花。

その間に、額に浮かぶ玉のような汗をタオルで拭ってやる。

菜花は俺が用意したハイポトニックと水の内、水を選んだ。

水だとすぐに口が乾いてしまうけど、スポドリは“味が邪魔”らしい。


「あぁぁ……!」


また痛みが来たようだ。


「あ、来た?」


陣痛待ちをして休憩を取っていた助産師が寄って来て、菜花のアソコとお腹を触診する。


「よーし、じゃあ次来たら息んでみよっか。

なるべく長~くね」


はいっ、息んでー!って合図で菜花が息む。


「ん~~~~~!」


「あ、顔で力んじゃダメだよ。おへその下に集中して」


「~~~んなこと~~~言ったっ~~~てぇぇぇ‼︎ 」


顔を真っ赤にして息む菜花。

俺にはもう、ハラハラして見守ることしか出来ない。


「ぬぁぁぁぁぁ‼︎」


頭の上にあるバーに掴まり、懸垂するみたいに力んでる菜花。


「あぁそれね、押すの。引いちゃダメだよー、身体上がっちゃう」


「…… はぁっ⁈ …… はぁっ、はぁっ…… うぉぉぉ~~~‼︎」


押してる。重量挙げくらいの勢いでバーをすっげぇ押してる。


「腕じゃなくてお腹に力入れないと」


「…… えぇっ⁉︎…… んんんんんん~~~‼︎」


頑張れ頑張れ菜花…… 頑張ってくれ…… !

俺も思わず力みながら祈る。


と、そこへようやく産科医が到着した。

あーあーやってるやってるー、なんて、のんびりした口調の中年男性の産科医に、センセ遅いー!と看護師達からブーイングが起こる。


「ラーメン途中だったんだよー」


「全開だし先に破水してるって言ったじゃないですか!」


「飯くらい食わしてよ、俺朝から何も食ってなかったんだからさー。

初産なのにそんな進み早いと思わないよ、普通」


クッソ…… このオヤジか、俺の菜花が指挿れられて…… お世話になってるのは。


産科医は、ほんと俺医畜だよなー、今日すんげぇお産ラッシュでさぁ、あるんだよねーこういう日、こんな産まれてんのに出生率上がらんとかさ……なんて陣痛が少し止んで落ち着いてる菜花に直接関係ないことを話しながらちょちょいのちょいと部分麻酔を施し、


「赤ちゃん出れないみたいだから少し切るよ?」


躊躇なく菜花の股に先の丸い鋏を入れる。

パチン。

何かの組織が断たれる音に、俺、タマがヒュン!ってなる。

菜花のアソコは、もちろん俺からは見えないようにされてる。

けど、切った!ってのは分かるから、麻酔してあるのは知ってても、怖いもんは怖い。

切らないと裂けちゃって治りが悪いし、変な風に裂けたら色々大変だ…… っていう会陰切開についての説明は受けてたけど、実際音聞いたらギョッとしたみたいで、菜花も目を剥いてる。


でもまた、そんなことには構っていられないくらいの強い陣痛が訪れ、よぉし、もう一踏ん張りいこうか~、と産科医が助産師に立ち位置を交替すると、助産師がまた菜花に呼吸や息みの指示を始める。

菜花、大分疲れてきて半ば朦朧としながらも頑張ってる……頑張ってる…… うーん、頑張れ!って、見てる俺も身体に力が入る。

さっきまで握っていた手も振り払われてしまい、俺にはもうただただ突っ立って見てることしか出来ない。

やっぱりなんだかんだ言って、出産って女一人の闘いなんだな……。


「はぁっ、はぁんっ、あはぁっ、…… んあぁっ、あぁ~~~っ‼︎」


「あんま喘がないの。ダンナさん興奮しちゃうでしょ」


ギロリと菜花が発言の主である産科医を睨み付ける。


うるせーよ、それどころじゃねぇんだよ、いっぱいいっぱいなんだよこっちはよ‼︎ 


って声が聞こえて来そうで、俺、小っちゃくなる。

ごめん菜花。

俺、やっぱその声、興奮するわ……。


一旦呼吸落ち着けようか、過呼吸になっちゃうからね、と助産師が産科医のセクハラ発言を通訳してくれると、菜花も納得したようで、意識して呼吸を落ち着かせる。


苦しい時間が続く。

病院に到着してからかれこれ4時間が経つが、その間ずっと波のように寄せては帰す痛みと戦っている菜花に、疲れの色が見え始めている。

菜花はずっと野球とソフトボールで鍛えてきたから、並の女より体力はある方だとは思うけど、それでもだ。

陣痛始まってから産まれるまで20時間掛かった人も居るって聞くし、初産は大抵時間がかかるものであるらしい。

けど、ほんとに大丈夫か?

いつまで続くのかわからない、代わってやれない菜花の苦しみに、ただ見てるだけの俺の方が参っちまいそうだ……。


カクッと菜花の首が傾きかけて、声を掛けると、ハッと目を開ける。


「おい……?だ、大丈夫か?」


「はぁ…… 寝るとこだった」


…… 分娩中に居眠りする人っていんの?

意識失ってた訳じゃないよな?

心配する俺を他所に、菜花は余裕さえ感じられる態度で足首を回している。


「あぁ~、脚痺れてきた」


分娩台の上で脚を大きく開かれたまま何時間も居るんだ、そりゃ痺れてくるよな。


「今、最大に骨盤開いてるからだよ。痺れが強くなるようなら言ってね」


「あ、はい…… でもそれほど強い訳では」


さっきまでの痛がりようが不思議な程、落ち着き払っている菜花。

赤ん坊の方で降りてくるのを一時小休止してるみたいで、凪の状態が何分か続く。


「台の角度、どう?」


「うーん…… もう少し頭上げてもらえますか?」


「これくらいで限界かな。圧が掛かり過ぎて、お産が一気に進んじゃうのも良くないから」


至って落ち着いて助産師と言葉を交わす菜花に、もうこのまま楽に産まれてくれ…… と祈るけど、やっぱりそうはいかない。

陣痛って、赤ん坊の“産まれよう”って意志で引き起こされるらしいとは聞いてたが、菜花がまた苦しみ始めたのを見て、それが本当だってことを実感する。

菜花の腹ん中で赤ん坊が暴れてるのが見え、赤ん坊もまた、産まれ出ようと苦しみもがいてるのが分かる。

何度か息みを繰り返していると、不意にストップがかかる。


「頭出てきたよ」


助産師の声に、朦朧として意識飛びそうになってた菜花がハッと目を見開く。

俺の位置からも、菜花の股の間に、ソフトボールくらいの大きさの少し形がとんがって毛の生えた頭が出てきているのが見える。


「身体、少し起こせる?」


看護師に背中を支えられて菜花が赤ん坊の頭が出たのを確認すると、またパタリと分娩台に身を横たえる。


「は、はは…… ほんとだぁ……!」


目視したら実感が込み上げて来たようで、薄っすらと微笑む。

はっ、はっ、と助産師の指示に従って短息呼吸をしながら、赤ん坊が自分で出て来るのを待つ菜花。

横向きの赤ん坊の小さな肩が見え、背中が見えてくる。


「ハイ、最後!息んでー」


菜花が渾身の力を振り絞り、きゅ~っ‼︎というような悲鳴を発しながら息むと、ズルン!と一気に半ば引っ張り出されるようにして赤ん坊の身体が助産師の腕に取り上げられる。


「産まれたよー!ハイ、あたち女の子でーす!」


助産師が菜花に向かって微笑みかけながら一瞬赤ん坊を見せ、すぐさまスタッフ総出で処置に取り掛かる。

産科医が赤ん坊を診て、少し羊水飲んじゃってるね、と言うと、看護師が駆け寄り、小っちゃい口にチューブを挿れズゴゴって吸い取る。


「ほれ、泣け!泣きなさい!」


泣かないとちゃんと肺が膨らまないんだよ、と助産師が赤ん坊の背中やお尻を叩く。

と、赤紫色になってた赤ん坊が、わぁっ!て両手を広げて力一杯泣き出した。


…… ぅおぎゃあ!おぎゃあ!おぎゃあ!おぎゃあ!…… 


分娩室に響き渡る元気な泣き声に、スタッフから歓声が上がり、祝福の拍手が起こる。

俺、泣きそうになりながら、汗びっしょりの菜花の頭をわしゃわしゃ撫で、人目も憚らず抱き締める。


よくやってくれた…… 頑張ってくれたな、菜花!


「菜花、…… ありがと!…… ありがとな!」


それ以上は言葉にならずにただ抱き締めるだけの俺の背中を、菜花が抱き返してくれ、掠れた声で囁く。


「ヒロも…… ありがとね」


何言ってんだよおまえ…… 俺なんかイイ思いしかしてねぇよ。

おまえからありがとうだなんて言われる筋合いねぇよ……!



感涙に咽ぶ間もなく、助産師が血塗れの赤ん坊をササッと拭いて綺麗にしてくれ、ハイお父さんの初仕事、と特殊な形の鋏を渡されて、俺がまだ菜花と赤ん坊を繋いでる臍の緒を切ることに。


「ど、どこ切れば……?」


「あ、このクリップとクリップの間ね」


臍の緒って、プルプルコリコリしてなかなか切れない。

そんな簡単に切れちゃいけないもんだからなんだろうが、随分と丈夫なもんなんだなぁ。

鋏を小さく動かしてみて、と指導を受けて、やっと臍の緒が切れると、俺、裸のままの赤ん坊を腕に抱かされる。


おっかない。怖いわ、こんな小っこいぐにゃぐにゃした生き物。

昔、下の弟が産まれて2日目くらいに母ちゃんから抱っこさせてもらったけど、こんな小さいもんだったか?


頼りない小さな命を抱えて、絶対に落っことしちゃいけない責任感にドキドキヒヤヒヤする。


これが、俺の子か……。

ん?なんかこの匂い嗅いだこと…… あ、菜花の膣内の匂いだ。

なんつーの?この甘酸っぱいような、フレッシュな内臓的な匂い…… まぁ、菜花のアソコから出て来たんだから当たり前か。

赤ちゃんって、赤いから赤ちゃんなんだな。

うわ…… 俺に似てるな、おまえ…… 女の子なのに、可哀想に。


ぐったりしている菜花の傍に寄って赤ん坊を見せると、疲れてヘロヘロになりながら汗まみれの額を手で拭っていた菜花が、ぶっと吹き出す。


「…… ヒロじゃん…… 寝起きのヒロじゃん!」


あはは、と聞いてたスタッフからも笑いが漏れる。

そんな似てるか。一重瞼だって言いたいのか。

でも確かに顔浮腫んでるときの俺に似てるわ……ますます可哀想な娘だな、おまえ……。


助産師の手によって菜花の裸のお腹にうつ伏せに乗せられると、赤ん坊はうんしょうんしょと手足を動かし、蒙古斑の浮いたお尻を振りながら、自分で母親のおっぱいまでよじのぼっていく。

生命の神秘を目の当たりにして感動している俺の目の前で、助産師がちょっと失礼、と菜花のおっぱいをむんずと掴み、首を横に向けた赤ん坊の口元に乳首を寄せる。


「お母さんのおっぱいだよー」


目も開かない赤ん坊が口を開けて探すみたいな素振りをするのを、息を呑んで見守る。


ほら、目の前にあんぞ?

もうちょい右…… もうちょいだ、ほれ気付け!頑張れ!…… おし、そこだ!


「ぎゃーっ!」


菜花の悲鳴に、片付けをしていたスタッフが何事かと振り返る。

菜花、思ってたより赤ん坊の吸う力が強いのにびっくりしたらしい。

痛い痛い!って泣き笑いしてる菜花。

それを見て、看護師達も笑ってる。

緊迫していた場の雰囲気が一気に和み、分娩室が笑い声で溢れる。


後産が始まり、再び後陣痛で苦しみ始めた菜花と、腕に残る赤ん坊の感触に後ろ髪を引かれながら、俺は一旦退室となる。

廊下で待ってた菜花の母ちゃんに報告しようと予防衣を脱いで出て行くと、後から駆け付けた菜花の父ちゃんとウチの母ちゃん…… って、あれ?父ちゃんも居る⁉︎


「埠頭からタクシーすっ飛ばして来た」


たった今ここに到着したばかりみたいで、まだ息を切らしてる。

母ちゃんからの初孫誕生の報に居ても立っても居られず、船降りてすぐに駆け付けてくれたらしい。


「おめでと。ヒロくんもよく頑張ったね」


「いやいや頑張ったの菜花っスよ…… 俺なんかマジ何もしてないっスよ……」


また泣きそうになる背中を菜花の父ちゃんからトントンされて、無事にお産が終わってくれたことを実感して改めて安堵すると同時に、俺ってつくづく無力だよなぁって思いが込み上げてくる。


女の子かぁ……って、それぞれに感慨に浸ってる親達に、ずっと支えてもらってる感謝を伝える。

まだ俺一人の稼ぎじゃ全然やっていけなし、皆様からの支援がなけりゃこれからの生活も成り立たない。

2人共半人前以下ですがこれからもよろしくお願いしますと頭を下げる俺に、菜花の父ちゃんが笑いながら涙を見せる。


「なぁに言ってんの。俺なんか学生だったからね、もぉ親におんぶに抱っこで長男育てたよ」


「あんたなんかほとんど育ててないでしょうよ!」


すかさずツッコミを入れる菜花の母ちゃんも泣き笑いしてる。

言葉も無く号泣してるウチの母ちゃん。

父ちゃんがその肩を抱きながら、


「みーんな最初はそんなもんだ。

俺もおまえんときは陸に居たから薄給だったし、全然傍に居てやれなかったからなぁ…… 爺さん婆さんにはほんっと世話になった。

育児に関しちゃ、母ちゃん一人でおまえらを育て上げてくれたようなもんだよ」


菜花の母ちゃんがうんうんと頷きながら、父ちゃんの反対側からウチの母ちゃんに寄り添う。


「親に面倒掛けるとか気にしなさんな。

アタシらだっていずれ歳取ってあんたらの世話になるかもだしさ。

大変なときもあると思うけど、あんた達が仲良く子ども育ててくのが、ジジババにとっては一番の幸せよ……。

あ、でもまだ“ばあちゃん”とは呼ばせないから!

アタシまだ40にもなってないんだから!全っ然ばあちゃんじゃないからね!まだ産める自信あるし!」


「じゃあ俺たちも、もう一人くらい作っとく?」


「まぁたあんたはそうやって~!」


ダンナを足蹴にする菜花の母ちゃんを見て、ウチの母ちゃんも目を拭いながら笑ってる。


「とにかく今は菜花ちゃんを大事に、大事にね。

若いって言ったって、産後は何があるか分かんないんだから、ほんとに」


ウチの母ちゃんは2番目の弟を産んだ直後、過労で体力が落ちてて産褥熱ってヤツに罹り、まだ3歳の俺と赤ん坊の弟を抱えて死ぬほど大変な思いをしたらしい。


「大丈夫よミユキちゃん、ヒロくんほんっとしっかりしてるから。

実のオカンよりオカンみたいに甲斐甲斐しく菜花の世話焼いてくれてるから!」


「ごめんねアケミちゃん……私、全然お役に立てなくて…… 」


「そんなこと無いって!拓海くんも晴海くんもまだまだ手が掛かるでしょ。ミユキちゃん一人でほんと良くやってると思うわ~」


いつの間にか下の名前で呼び合ってる母親達に、何故かしら危機感を抱く。

この2人に結託されたら俺、いよいよヤバいな…… ただでさえ頭上がんないのに。

明け始めた窓の外を眺めて、春だねぇ、今日もいい日になりそうっスねぇ、なんてのんびりと言葉を交わしている父2人を見ていて、思う。

…… 結局、男は女の尻に敷かれてる方が幸せなのかも知れない。



俺が再び分娩室に呼ばれたタイミングで、親達は一旦帰ることに。

ざわつき始めた病院内の空気に、気が付けば、窓の外はすっかり朝だ。

病院に到着して既に8時間が経過していたことに驚くが、5時間ちょっとでお産を終えた菜花は、初産にしては超安産の部類らしい。


考えてみれば、医者も助産師も看護師も、何時間勤務でいつ飯食っていつ寝てんだ、って状況だ。

助産師さん、産科医の先生に、大変お世話になりました、ありがとうございましたと頭を下げると、


「いいお産でした」


と助産師さんが俺たちに微笑み掛け、深々と頭を下げられる。


“いいお産”って言葉に、改めて菜花も赤ん坊も無事で良かったと思う。

みんながみんな、無事で済むとは限らないもんな。

産む母親も、産まれる赤ちゃんも、本当に命懸けなんだよな……。



しばらくしたら、小児科の先生が入って来て、保温器に入ってる赤ん坊を診てくれる。


「3650gかぁ。立派なもんだ…… 1週間長く腹ん中で育っただけあって、しっかりしとるわぁ」


え。ウチの子、デカいのか。

こんな小さくて頼り無いのに…… これでしっかりしてるって?


センセが背中に手を入れると、赤ん坊がビクッとして、あわわ⁈って手を広げる。


「これ、モロー反射って言って、原始反射の一つなんだ。生後半年も見れないから、見とく価値あるぞ」


何っか見たことある人だなーと思いながら話聞いて頷いてたら、いきなりバシっと背中を叩かれる。


「おぃ、なーんだよ、“岡田”って、誰かと思えばオカンじゃ~ん!

若っけぇ親父だなぁ。おめでとう!これから頑張れよ!」


うげっ…… 中村の父ちゃんじゃねぇか!

医者だとは聞いてたけど、この病院の小児科医だったとは…… 。

つーことは、これからも子どものことで世話んなるのか。

はー。俺たちの事情、中村に筒抜けだな、こりゃ。


中村が浪人して来年も受験に臨むらしいことは本人からも聞いてたが、親父さんからも「あいつ、“今から本気出す”って土下座しやがってよォ」とか苦笑いしながら聞かされて、改めて思う。

反対されても高3まで野球続けてきただけあって、やっぱあいつガッツあるよなー。

ただ、あの自由人が医師になろうとしてるのが、ちょっと怖いな、って思いもある。

卒業式の後に俺の身体に付けられたヤツの歯型は、あれから2か月が経ってさすがにもう跡形も無く消えたけど、俺の中ではトラウマ的な記憶となっていて、恐らく生涯消えることはない。

不覚にも、あれから下腹と内腿に触れられると妙に興奮するようになってしまったことは、菜花には内緒だ。絶対に内緒だ……。


スタッフ達が出て行くと、静まり返った分娩室には、俺と菜花と赤ん坊の3人だけになる。

疲れ切ってるだろう菜花の肩を抱きながら、2人で保育器の中の赤ん坊を眺めていると、赤ん坊はさっき腹から出て来たばかりだってのに、白い産着の中で小っちゃな手足をわたわた動かしながら目を開いて、不思議そうに初めて見る明るい世界を眺めている。


「おーい」


菜花が呼ぶと、くるりと声のする方に顔を向ける。

“なぁに?呼んだ?”って言うように細い目を見開いて、真っ黒な瞳でじーっとこちらを見つめている。


「あれ、見えてんのかな?」


「や、見えてはいないと思うよ。

産まれたばっかの赤ちゃんって、ものすごい近視らしいから。

でも、なんかもう…… 何でも分かってるような顔してるね」


分娩台の下の階段に腰掛けて、菜花の目線に並び、一緒に赤ん坊を眺める。


「母ちゃんの声は分かってるだろ。ずっと腹ん中で聞いてたんだから」


「お父ちゃんの声も分かってると思うよ。ヒロ、いっつもお腹に話し掛けてたじゃん」


2人、顔を寄せ合って赤ん坊を見つめる。

半開きの小っちゃな口。

きゅっと握った小っちゃな拳。

ぴょんぴょんカエルみたいに跳ねてる小っちゃな両足。

何もかもが小っちゃくて、可愛いくて…… いつまでも見てられるな。


「誕生日、おめでと」


俺が言うと、菜花はびっくりした顔。


「え…… あ、そうか……そうだね!

覚えててくれたんだ…… ありがと。

あたし、忘れてたわ」


あはは、って笑う菜花。

菜花が笑うのを見たら、俺も笑えてくる。


忘れないよ。

俺の大好きな菜花の、今日が19回目の誕生日だ。
 
生まれてきてくれて、ありがと。

俺の子ども産んでくれて、本当に、ありがとな……!


視線が重なると、自然に顔が近付いて、チュッ、って唇と唇で触れ合う。


「愛してるよ、菜花」


「…… ありがと、ヒロ。…… 愛してる」



俺らが暮らすこの地域では、今、菜の花が満開だ。

長く厳しい冬を越え、短い春夏を謳歌しようと緑が一斉に芽吹いて、梅も桃も桜もクロッカスもチューリップも牡丹もツツジも薔薇も…… 何もかもが一時に花を咲かせる、正に百花繚乱の時。


妊娠中、“女の子だ”って言い切る俺に、半信半疑の菜花は、“じゃあ命名の権利、懸けちゃう?”と言ってきた。

結果、女の子だったもんで、俺が名前を付けることに。

なんで分かったの~⁈って悔しがる菜花に、性別はオトコが決めんだから分かって当たり前だろ、なんて言い訳をしながら、実はただの直感。

なんとなく、そんな気がした、ってだけだ。


名前には、菜花の名前から一文字取って“花”の字を入れよう、って決めてた俺は、この子に『百花』って名付けることにした。


『百花春至誰為開』


誰の為でもなく、ただひたすらに、一生懸命咲いて欲しい。

18の俺がオッサン臭いと思われるかも知れないけど、そういう生き方が好きだ。

それを見て心を打たれた人に愛されて、幸せな人生を送って欲しい。



10年の軌跡を経て、奇跡の中で結ばれた、俺と菜花。

俺の18の誕生日に菜花の中に宿った命が、菜花の19の誕生日に産まれるなんて、まさに奇跡の中の奇跡だ。


5月7日。

俺はこの日を、一生忘れない。













夢を見ていた。

とても懐かしい夢を。


誰かが呼んでる。

…… なんだよ、もうちょっと寝かしてくれよ…… 今、最高に気分良いんだ。


「お父さーん!」


あぁ、百花か…… おまえの声、菜花にそっくりになってきたな。

産まれたときには、あまりにも俺にそっくりな顔立ちに申し訳なさを感じたもんだったが、意外にも美人に成長してくれて、驚きつつもほっとしている。

高校のソフト部じゃ菜花譲りの強肩剛腕サウスポーで鳴らしてるが、最近めっきり女らしくなった。

…… 誰かに恋でもしてんのかな。


「もぉ~。海斗、応援に行くんでしょ?」


「んー……」


長男の海斗は今、中3だ。

俺と菜花、よっぽど相性が良いんだな。

一人目を出産して1ヶ月半後に菜花が「まだ生理来ないから大丈夫」とか言うもんで、妊娠中と同じように生でシたところがジャストミート…… 翌年の5月に産まれたのは、またまた俺にそっくりな男の子だった。

菜花は「コピーじゃん。あんたの遺伝子強過ぎでしょ!」と笑う。

や、マジで分身かと思う。自分でも。


海斗は生まれつき右足首に変形があるっていうハンデをものともせず、明るく優しく真っ直ぐに育ってくれてる。

小学校からの9年間レギュラー入りすることは叶わずとも腐ることなく大好きな野球を続け、春には俺の母校のスポーツ科に進学することが決まっていて、マネージャーとして野球に携わり続けるつもりのようだ。

中学生にして『スポーツPTになる』って、もう将来の目標を定めちゃってるのは、我が子ながらすげぇと思う。

俺たちはそれを、全力で応援して行こうと思ってる…… 俺たちの親がそうしてくれたように。


今日は海斗の通う中学の野球部伝統の“追い出し試合”。

俺らもやったなー。

1、2年対3年の紅白戦みたいなもんだけど、毎年なかなかに盛り上がる。


「お母さん、病院から直で行くってー。ねぇ、聞いてる?」


百花の声が近付いてくる。

菜花は、今日は夜勤明けだ。

親たちに支えられて子育てしながら看護学校を卒業し、その後の国試にも見事合格して、今は看護師をしている…… 俺の入院してた、あの総合病院で。

だから昨夜は菜花の居ないベッドに一人寝だった俺。

…… ぅえ~ん寒いよ菜花ちゅわぁ~ん……!


「ちょっと⁉︎ いい加減起きてよ!」


百花が俺の布団を剥ぎ取る。


「いやまだ早えぇって…… 昼過ぎだろ、試合やんの」


ほんっとおまえ、菜花にそっくりになってきたな。

ウチの両親…… 特に親父は、初孫で且つ初めての女の子ってことで、いまだに目に入れても痛くない程の可愛いがりようだ。

甘やかされて育ってるからか、菜花譲りの気の強さか、父親の俺に対してもこの強い当たり…… まぁなんだかんだ言うこと聞いちゃう俺にとっても、百花はいつまでもお姫様なんだけどな。


「おとーしゃん、おきてー!」


「お……うっ⁈」


俺を起こしに腹に飛び乗ってきたのは、4歳の海輝。

ウチの父ちゃんからは「こいつは女泣かせになるだろうなぁ」って言われてるが、俺もそう思う。

美人の菜花にそっくりなこいつは、4歳にして将来が心配になるほどの美男子だ。

この容貌に加え、俺に似て性欲旺盛だったら…… って考えると、ほんと末恐ろしい。

棚に上げる訳じゃなく、自分が経験して大変だったからこそ、未成年の内に女の子を孕ますようなことはしてくれるなよと思う。


ずっと『子ども3人は欲しい』って言ってた菜花だが、立て続けに産んだんじゃ身体に負担が掛かり過ぎるだろうと俺の方で躊躇してた。

が、結婚10周年を身内で祝ってもらった夜に、盛り上がっちゃってゴム無しでシたらまたまたジャストミートして、俺たちは20代の内に子ども3人を抱えることになった。

…… 幼い頃に菜花がクレヨンで描いた、あの絵そのままに。


30を過ぎた今の俺は、仕事じゃ地元球団の御用聞き、プライベートでは気心の知れた仲間たちと草野球、そして子ども達の練習や試合応援にと、相変わらず野球三昧の日々を送っている。

3人の子どもに囲まれ、忙しくも賑やかで、驚きと笑いの絶えない毎日。

ここまでの航海の間には波乱もない訳じゃなかったけど、今が最高に幸せな瞬間だ、って思えることが、日々を更新してくれてる。


「修二さんと大さんも来てるって!」


「おぅ」


あいつらとは今でもちょいちょい野球してるから知ってるよ。

海輝と大んとこの長男の悠大とは、保育所で一緒だし。

大はついこの間2人目が生まれたばかりで仕事も忙しいだろうに、1、2年チームに助太刀する修二の球受ける為に引っ張り出されたらしい。

あいつら、いまだに河原でキャッチボールしてんの見かけたりするから、息はバッチリな筈だ。


修二はプロには行かずに実家のクルマ屋を継ぎ、仕事の傍ら、俺らの母校でもある中学で野球部のコーチをしてる。

190cmを超える長身、最速147kmを投げ120mのレーザー送球も可能な剛腕に50m5秒代の俊足を持っていて、何でプロ行かなかったかなぁ。

ピッチャーじゃなくても、外野手で活躍できただろうに…… なんて俺なんかは思うけど、あいつにはあいつの事情があんだろうな。

…… まぁ、中身がアレだし、顔が良すぎるのも色々仇になってっかもな。

海斗が世話んなってることもあり、俺は俺で車のことで世話になってるから、たまに俺の奢りで飲んだりもする…… 修二、あのガタイで酒弱いから、飲むのはもっぱら俺と大だけど。


中村は小児科医になって途上国で海外ボランティアをしているって話を、今は医院を開業してる親父さんから聞いた。

あいつが小児科ってのがまずビックリだが、海外行って大丈夫なのか心配になる…… ヤツのことじゃなく、周囲の人のことが。

あいつが英語を流暢に話せるようになってるとは思えないから、ノリと勢いでコミュニケーション取ってるに違いない。

そして、相変わらず傍若無人に振る舞って、さぞかし周囲を困惑させていることだろう。

まだ結婚はせずに一人でいることも聞いた。

自由人のあいつのことだから、結婚は遅いだろうな…… つーか家庭を持ったあいつの姿が全く想像出来ないんだが。


基樹は何やってるのか全く音沙汰無しで、卒業以来会ってなかったんだが、つい最近街でバッタリ会った。

髪伸ばしてロン毛になってて、声掛けられたときにはどこのオニイチャンかと思ったけど、イケメンなのにそこはかとない気持ち悪さは変わらず、すぐに分かった。

あいつは何だか良く分からんが、サッカーで入った地元の大学を中退して東京に行き、探偵になったみたいだ。

今はこっちに帰って来てて、自分で探偵事務所を開いてるって話。

そしてやっぱり、まだ一人身だって聞いた。

唯一の身寄りだった婆ちゃんを失って、天涯孤独の基樹。

寂しくないんだろうか…… 今度、一緒に野球やんないか声掛けてみよう。

あいつ、元サッカー部だけど。



外は、冬の日には珍しく、スカンと抜けた青空。

春を思わせるような陽気だが、先日降った雪が解け切らずまばらに残り、風はまだまだ身を切るように冷たい。

百花と海輝を乗せて訪れた懐かしい母校のグラウンドで、白い息を吐きながら白球を追いかける少年たちの姿に自分を重ね、胸を熱くする。


思いっきりやれよ。

今やってることが無駄になることなんか、絶対にないから。

今は、今しか無いんだから。


2回の攻撃、8番の海斗が打席に立つ。

その姿を見て、心が震える。


逞しくなったな、おまえ。


『男親にとって、長男ってのは特別な存在なんだ』

成人して父ちゃんと初めて酒を酌み交わしたときにそう言われたもんだったが、俺にとっても海斗はやっぱり特別だ。

子ども3人は皆それぞれに特別なんだが、何というのか…… 長男の海斗は、俺の血を分けた感が強い。

いつもニコニコ、誰にでも分け隔てなく優しい男だけど、その裏で流してきた悔し涙の方が多い筈だ。

右足のことも、ありのまま受け入れているかのように見えて、悩んだり嘆いたりしなかった訳が無い。

自分に厳しい男だからな…… そこは俺より改良されてる点だな。


ランナーは2塁。

海斗、初球高めを振る。


「おっ」


思わず声が出る。

打った!

三遊間、いいコースだ……抜けるか?と思いきや、2年のショートが上手く捌いてファーストへ送球。

しかし海斗は3年前に足を手術したとは思えない走りを見せ、ヘッドスライディングで1塁、セーフ!


「おー⁉︎ 海斗、ナイスぅー!」


海斗の出塁を讃える聞き慣れた声に隣を見ると、菜花が俺を見上げて笑ってる。


「おぅ、おかえり。お疲れさん」


「ただいま。

うふふ。海斗、好きな娘が見てるから超張り切ってんじゃん」


「えっ。あいつ、そんな娘いたんだ」


どれだ?どの娘だよ?と、観客が居る土手を見渡すと、端の方で百花が高校生くらいの男子…… 同級生?野球部のOBか?と2人きり、仲良さげに話してるのが目に飛び込んでくる。

百花、俺には見せない女の顔で笑ってやがる。

モモちゃんよ…… おまえ、そいつとここで落ち合う約束のために、俺を急かしたんだな……。


背の高い男子が少し屈んで、百花が何か耳打ちしたかと思うと、ケタケタ笑い出す2人。


クッソ…… おい、ガキ、近けぇよ。

離れろ。俺のお姫様に気安く近づくんじゃねぇ。

コラッ、モモちゃん!軽々しく腕にタッチなんかしちゃいけませんッ!

そんくらいの年頃の野郎なんて、すーぐソノ気になっちゃうんだからな!


「ヒロ、…… ふふっ…… 顔がうるさいよ!」


菜花が笑い出す。

そうか、可笑しいか。可笑しいんだろうな、俺の顔。

俺の放つ呪いの毒矢のような視線の先を見ながら、菜花が言う。


「ね。あの子たちも恋する年頃になったんだねぇ。

…… どーする?再来年、百花から“妊娠した”とか言われたら」


「~~~~~っの野郎、許さん‼︎」


「いやいや早い、て。落ち着きなさいよ、お父さん。

あのコたち、まだ付き合ってもないみたいだから」


俺がダウンのポケットに突っ込んでる右手で拳を固めていると、菜花が笑いながら左手を入れてきて、その冷たさにドキッとする。


なんだよ、随分と冷えてんだな、菜花ちゃん。

ほれほれ、俺の有り余る熱を分けてやんよ。

昨夜はおまえ居なくて寂しかったよ…… 俺も、子どもたちも。


手首まで冷えてる菜花の手を上から握り、温っためてやっていると、菜花も俺の親指を握ってくる。


手ぇ、荒れてんな。毎日、一生懸命働いてんだもんな……。


労いの意味で優しく撫でてやったら、菜花が何を思ったか握っていた俺の親指をシコってきて、ギョッとする。

けど、菜花は表情を変えず、グラウンドの子どもたちに目を向けたままだ。


こっ…… このォ~。こんなとこで。

あのな、今、夜勤明けで変にテンション高いんだろうけどな。

俺だって、すーぐソノ気になっちゃうんだからな、まだ若いんだから。


菜花の指の股を中指の先で意味深な感じに摩ってやると、菜花はキュッキュッと締めて挟んでくる。


お……まえな~~~、

決めた。今晩、泣かしてやる。

俺を煽ったらどうなるか、分からしてやっからな!


ポケットの中で、暫し戯れ合う。



気が付けば足元に、俺たちを見上げてにひひ~と笑う海輝。


「おとーしゃんとおかーしゃん、らぶらぶだね」


菜花がぱぁっと顔を輝かせ、一晩振りの末っ子に、赤ちゃん言葉で応じる。


「…… にゃぁ~にゆってんの、かいきゅんは!…… 当たり前でちょ!」


溺愛振りを隠そうともせず、屈んで海輝を抱っこして、ぽよぽよのほっぺに、むちゅう!むちゅう!ってチュウをする菜花。

昔はクールビューティーって言われてたのになー。


「コラ、どこでそんなん…… 覚えてきたぁっ」


俺が抱き上げて海輝を肩車してやると、菜花が下から脚をこちょこちょくすぐる。


「きゃーはははは!」


菜花の小っちゃい頃にそっくりな笑顔で、俺のガキの頃にそっくりなカスカスの声で笑う海輝。

可愛い可愛い末っ子は、まだまだ赤ちゃん扱いだ。


「ほらほら、にーにーの打席だぞ。真面目に応援しろよ」


って言ってる間にも、海斗、また初球打って2ベースだ。すげーじゃん!

3塁側の最前列で黄色い歓声あげてる、あのスラッと背の高い娘か?おまえが好きな娘ってのは。

一度もあの娘の方を見ようとしないのは、変に意識しちゃってっからだよなー。分かる分かる。


甘酸っぱい想いを抱えているだろう長男に、俺も何だか胸が苦しくなる。


分かる。分かり過ぎて辛いわ。

菜花を意識する余り、まともに目を合わせることも出来なかったあの頃。

遠い昔のことだったような、つい最近のことのような。


先のことは誰にも分からない。

未来の自分がどんな人生を歩んでいるか、その時、誰と一緒に居るかも。

けど……、

いつの日にかおまえも、今を懐かしく思い出すことがあるだろう。

その時になって後悔しないよう、精一杯生きて欲しい。

ま、俺より大分しっかりと自分自身を見つめてることが出来てるおまえのことだ、言われなくてもそうしてるよな。


実るといいな、おまえの…… 多分、初恋か。

初恋は実らないって言うけど、例外もあるんだってこと、おまえの父ちゃんと母ちゃんがしっかり証明してるだろ。

恐れずにいけよ。攻めの姿勢が大事だ。

あの娘、きっとおまえのこと、好きだぞ。

だってさっきからずっと、おまえのことしか見てねぇもん。



冬の午後の陽は少し翳りを見せ始め、気まぐれに白く冷たいものをちらつかせて、今がまだ長い冬の途中だってことを思い出させる。


でもまた必ず春は来て、そして一気に夏が来る。

何もかもが一斉に芽吹き、花開く時が。



東北の夏は、短いけど、その分、熱い。


今年は、どんな夏になるかな。

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