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第十話:二つの誓い
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ローズマリーの甘い香りが、沈黙する私たちの間を通り抜けていく。
ゲルハルト侯爵の心の声を聞いてしまった衝撃は、まだ私の胸の内に冷たい澱のように残っていた。けれど、それ以上に強く、私を満たしているのは、隣に立つカイル公爵様の存在だった。
(もう少し休ませて差し上げるべきか。だが、長居は彼女の負担になるだろう…)
彼の心の声は、絶え間なく私への気遣いで満ちている。
その温かさが、私の恐怖を少しずつ溶かしていく。私は、この優しい声の主を守りたいと、心の底から思った。
「公爵様、お気遣い痛み入ります。もう大丈夫ですわ」
私は覚悟を決め、すっくと立ち上がった。もう、ただ彼に守られるだけの存在ではいたくない。
そして、私は勇気を出して、ずっと気になっていたことを尋ねてみた。
「あの…ゲルハルト侯爵とは、あまりお親しい仲ではないのですか?」
私の唐突な問いに、カイル公爵はわずかに眉を寄せた。
彼の口から出たのは、政治家らしい、そつのない答えだった。
「仕事上の付き合いがあるだけだ」
けれど、彼の内心は、もっとずっと雄弁だった。
(親しいだと? とんでもない。あの男は、目的のためなら平気で人を陥れる狐のような男だ。君のような純粋な人間を、決して近づけてはならない…)
やはり、公爵様もゲルハルト侯爵を警戒していらっしゃるのだ。
その事実に、私は自分の役目をはっきりと自覚した。公爵様は侯爵の危険な本質を見抜いている。けれど、その心の内までは読めない。だが、私にはそれができる。
「そうですか。…そろそろ、私はお暇しようと思います」
私がそう告げると、カイル公爵はすぐに同意した。
「それがいいだろう。私が、君の馬車まで送ろう。君を一人にはしておけない」
彼の口から出た、はっきりと私を気遣う言葉に、心が温かくなる。
私たちは並んで、パーティーの喧騒へと戻った。遠くにゲルハルト侯爵の姿が見えたが、今度は彼の心の声は聞こえなかった。どうやら、この力は、相手が近くにいて、かつ強い感情を抱いている時に発動しやすいのかもしれない。
私の家の馬車が、庭園の入り口に寄せられる。
従者が扉を開ける前で、カイル公爵は立ち止まり、私に向き直った。
「では、お気をつけて、ラプレース嬢」
それは、いつもと変わらない、別れの挨拶。
けれど、最後に聞こえてきた彼の心の声は、私の胸に深く刻み込まれた。
(今日、君を守れたことを、心の底から安堵している。だが、あの男の目が忘れられん。…今後、君の周りには、より一層の注意を払わなければ…)
それは、彼が立てた、私を守るための誓い。
私は馬車に乗り込むと、窓から彼を見つめ返した。彼は、私が乗った馬車が見えなくなるまで、ずっとその場に立ち続けていた。
馬車が走り出し、王宮が遠ざかっていく。
私は、自分の手のひらをぎゅっと握りしめた。
彼が、私を守ると誓ってくれた。
ならば、私も誓おう。
この不思議な力を使いこなし、彼の目には見えない脅威から、私が彼を守るのだと。
ただの伯爵令嬢だったエメリア・フォン・ラプレースの、ささやかで、しかし困難な戦いが、今、静かに幕を開けた。
ゲルハルト侯爵の心の声を聞いてしまった衝撃は、まだ私の胸の内に冷たい澱のように残っていた。けれど、それ以上に強く、私を満たしているのは、隣に立つカイル公爵様の存在だった。
(もう少し休ませて差し上げるべきか。だが、長居は彼女の負担になるだろう…)
彼の心の声は、絶え間なく私への気遣いで満ちている。
その温かさが、私の恐怖を少しずつ溶かしていく。私は、この優しい声の主を守りたいと、心の底から思った。
「公爵様、お気遣い痛み入ります。もう大丈夫ですわ」
私は覚悟を決め、すっくと立ち上がった。もう、ただ彼に守られるだけの存在ではいたくない。
そして、私は勇気を出して、ずっと気になっていたことを尋ねてみた。
「あの…ゲルハルト侯爵とは、あまりお親しい仲ではないのですか?」
私の唐突な問いに、カイル公爵はわずかに眉を寄せた。
彼の口から出たのは、政治家らしい、そつのない答えだった。
「仕事上の付き合いがあるだけだ」
けれど、彼の内心は、もっとずっと雄弁だった。
(親しいだと? とんでもない。あの男は、目的のためなら平気で人を陥れる狐のような男だ。君のような純粋な人間を、決して近づけてはならない…)
やはり、公爵様もゲルハルト侯爵を警戒していらっしゃるのだ。
その事実に、私は自分の役目をはっきりと自覚した。公爵様は侯爵の危険な本質を見抜いている。けれど、その心の内までは読めない。だが、私にはそれができる。
「そうですか。…そろそろ、私はお暇しようと思います」
私がそう告げると、カイル公爵はすぐに同意した。
「それがいいだろう。私が、君の馬車まで送ろう。君を一人にはしておけない」
彼の口から出た、はっきりと私を気遣う言葉に、心が温かくなる。
私たちは並んで、パーティーの喧騒へと戻った。遠くにゲルハルト侯爵の姿が見えたが、今度は彼の心の声は聞こえなかった。どうやら、この力は、相手が近くにいて、かつ強い感情を抱いている時に発動しやすいのかもしれない。
私の家の馬車が、庭園の入り口に寄せられる。
従者が扉を開ける前で、カイル公爵は立ち止まり、私に向き直った。
「では、お気をつけて、ラプレース嬢」
それは、いつもと変わらない、別れの挨拶。
けれど、最後に聞こえてきた彼の心の声は、私の胸に深く刻み込まれた。
(今日、君を守れたことを、心の底から安堵している。だが、あの男の目が忘れられん。…今後、君の周りには、より一層の注意を払わなければ…)
それは、彼が立てた、私を守るための誓い。
私は馬車に乗り込むと、窓から彼を見つめ返した。彼は、私が乗った馬車が見えなくなるまで、ずっとその場に立ち続けていた。
馬車が走り出し、王宮が遠ざかっていく。
私は、自分の手のひらをぎゅっと握りしめた。
彼が、私を守ると誓ってくれた。
ならば、私も誓おう。
この不思議な力を使いこなし、彼の目には見えない脅威から、私が彼を守るのだと。
ただの伯爵令嬢だったエメリア・フォン・ラプレースの、ささやかで、しかし困難な戦いが、今、静かに幕を開けた。
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