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第十四話:芽吹いたものたちの行く末
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フロスラントの冬は、深まっていた。
世界は白と灰色に閉ざされ、吹雪は唸り声をあげて村を揺さぶる。だが、村人たちの心は驚くほど穏やかだった。
温室という緑の心臓が、この土地に確かな温もりと栄養を送り続けているからだ。
日々の食卓には、薬膳スープと共に、新鮮な緑の野菜が並ぶようになった。子供たちの頬には血の気が差し、大人たちの体には活力がみなぎる。霜枯れ病の症状を訴える者は、一人もいなくなった。
温室は、もはや単なる建物ではなかった。それはフロスラントの民にとっての教会であり、未来そのものだった。
その夜、私はレオンが用意してくれた研究室で、新たな計画を練っていた。温室で採取した種を、来期に向けてどう品種改良していくか。そのための土壌成分の分析に没頭していた。
「…まだ起きていたのか」
静かに扉が開き、レオンが入ってきた。その手には、いつものように温かい薬草茶のカップが二つ。それは、私たちの間の心地よい習慣となっていた。
「考え始めると、時間を忘れてしまうので」
「あんたらしいな」
彼は穏やかに笑うと、私の隣に腰を下ろし、私が広げている羊皮紙を覗き込んだ。そこには、植物の交配図や、土壌改良のための数式がびっしりと書き込まれている。
「すごいな。俺には、何が書いてあるかさっぱりだ」
「来年のための準備です。より寒さに強く、より栄養価の高い作物を育てるための計画書です」
「来年、か…」
レオンは、その言葉を噛み締めるように繰り返した。
「今まで、俺たちは次の冬をどう生き延びるかしか考えてこなかった。だが、あんたは、来年の、さらにその先の未来を見ている。…王都にいた頃から、あんたはずっとそうだったのか?」
それは、彼が初めて私に尋ねた、私の過去に関する質問だった。
私は、ペンを置くと、少しだけ窓の外の吹雪に目を向けた。
「…いいえ。王都では、未来を考える必要はありませんでした。全てが完成されていて、私の仕事は、ただ決められた手順を、決められた通りにこなすことだけでしたから」
「……」
「ここでは、全てをゼロから作らなければならない。…ですが、不思議と、今の方がずっと、呼吸がしやすいのです」
私の言葉に、レオンは何も言わなかった。
だが、彼がカップを置く手が、そっと私の手に触れた。その温かさが、雄弁に彼の気持ちを物語っていた。
◇◇◇
一方、王都の壮麗な伯爵邸では、凍てつくような沈黙が支配していた。
謹慎を命じられたオスカーは、自室に閉じこもっていた。そこへ、婚約者のエルミナが、銀の盆に載せた豪勢なケーキを持ってやってきた。
「オスカー様…お辛いでしょうから、甘いものはいかがですの? 私、オスカー様のために、心を込めて焼きましたわ」
「……」
オスカーは、そのケーキを、憎悪に満ちた目で見つめた。
過剰な砂糖、たっぷりのバター。今の彼にとって、それは心を込めた贈り物などではなく、彼の体を蝕む毒の塊にしか見えなかった。
「…また、それか」
「え?」
「だから、またそれなのかと聞いているんだ!」
オスカーの怒声に、エルミナの肩がびくりと震えた。
「どうして…私、あなたを元気づけようと…」
「元気づけるだと!? これが俺の体を鈍らせ、剣を錆びつかせている元凶だということも分からんのか! 君のその『心』とやらは、俺を慰めるどころか、俺の全てを奪っていく!」
エルミナの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「ひどいわ…! 私はただ、オスカー様をお慕いしているだけで…!」
「慕っているだと? お前は、ただ理想の騎士である俺に傅き、自己満足に浸っているだけだ! 俺が本当に何を必要としているかなんて、考えたこともないだろう!」
それは、彼がかつての元婚約者である私に向けていた言葉の、残酷な反響だった。
彼は、自分の理想を相手に押し付け、その本質を見ようとしなかった。その結果、本当に自分を支えていたものを失い、自分の理想が生み出した甘い毒に、今まさに溺れかけている。
エルミナは泣きじゃくりながら部屋を飛び出していった。
一人残されたオスカーは、テーブルの上のケーキを、拳で叩き潰した。
ぐちゃり、という不快な音と共に、甘ったるい匂いが部屋に広がる。
彼は、自らが招いたこの惨状の中で、どうしようもない無力感と、今更すぎる後悔に、ただ打ち震えることしかできなかった。
北の地では、二人の男女が、未来の設計図を前に静かに語り合っている。
南の都では、一人の男が、過去の過ちによって作り出された甘い残骸の中で、孤独に喘いでいた。
二つの場所を隔てる距離は、あまりにも遠く、そして決定的だった。
世界は白と灰色に閉ざされ、吹雪は唸り声をあげて村を揺さぶる。だが、村人たちの心は驚くほど穏やかだった。
温室という緑の心臓が、この土地に確かな温もりと栄養を送り続けているからだ。
日々の食卓には、薬膳スープと共に、新鮮な緑の野菜が並ぶようになった。子供たちの頬には血の気が差し、大人たちの体には活力がみなぎる。霜枯れ病の症状を訴える者は、一人もいなくなった。
温室は、もはや単なる建物ではなかった。それはフロスラントの民にとっての教会であり、未来そのものだった。
その夜、私はレオンが用意してくれた研究室で、新たな計画を練っていた。温室で採取した種を、来期に向けてどう品種改良していくか。そのための土壌成分の分析に没頭していた。
「…まだ起きていたのか」
静かに扉が開き、レオンが入ってきた。その手には、いつものように温かい薬草茶のカップが二つ。それは、私たちの間の心地よい習慣となっていた。
「考え始めると、時間を忘れてしまうので」
「あんたらしいな」
彼は穏やかに笑うと、私の隣に腰を下ろし、私が広げている羊皮紙を覗き込んだ。そこには、植物の交配図や、土壌改良のための数式がびっしりと書き込まれている。
「すごいな。俺には、何が書いてあるかさっぱりだ」
「来年のための準備です。より寒さに強く、より栄養価の高い作物を育てるための計画書です」
「来年、か…」
レオンは、その言葉を噛み締めるように繰り返した。
「今まで、俺たちは次の冬をどう生き延びるかしか考えてこなかった。だが、あんたは、来年の、さらにその先の未来を見ている。…王都にいた頃から、あんたはずっとそうだったのか?」
それは、彼が初めて私に尋ねた、私の過去に関する質問だった。
私は、ペンを置くと、少しだけ窓の外の吹雪に目を向けた。
「…いいえ。王都では、未来を考える必要はありませんでした。全てが完成されていて、私の仕事は、ただ決められた手順を、決められた通りにこなすことだけでしたから」
「……」
「ここでは、全てをゼロから作らなければならない。…ですが、不思議と、今の方がずっと、呼吸がしやすいのです」
私の言葉に、レオンは何も言わなかった。
だが、彼がカップを置く手が、そっと私の手に触れた。その温かさが、雄弁に彼の気持ちを物語っていた。
◇◇◇
一方、王都の壮麗な伯爵邸では、凍てつくような沈黙が支配していた。
謹慎を命じられたオスカーは、自室に閉じこもっていた。そこへ、婚約者のエルミナが、銀の盆に載せた豪勢なケーキを持ってやってきた。
「オスカー様…お辛いでしょうから、甘いものはいかがですの? 私、オスカー様のために、心を込めて焼きましたわ」
「……」
オスカーは、そのケーキを、憎悪に満ちた目で見つめた。
過剰な砂糖、たっぷりのバター。今の彼にとって、それは心を込めた贈り物などではなく、彼の体を蝕む毒の塊にしか見えなかった。
「…また、それか」
「え?」
「だから、またそれなのかと聞いているんだ!」
オスカーの怒声に、エルミナの肩がびくりと震えた。
「どうして…私、あなたを元気づけようと…」
「元気づけるだと!? これが俺の体を鈍らせ、剣を錆びつかせている元凶だということも分からんのか! 君のその『心』とやらは、俺を慰めるどころか、俺の全てを奪っていく!」
エルミナの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「ひどいわ…! 私はただ、オスカー様をお慕いしているだけで…!」
「慕っているだと? お前は、ただ理想の騎士である俺に傅き、自己満足に浸っているだけだ! 俺が本当に何を必要としているかなんて、考えたこともないだろう!」
それは、彼がかつての元婚約者である私に向けていた言葉の、残酷な反響だった。
彼は、自分の理想を相手に押し付け、その本質を見ようとしなかった。その結果、本当に自分を支えていたものを失い、自分の理想が生み出した甘い毒に、今まさに溺れかけている。
エルミナは泣きじゃくりながら部屋を飛び出していった。
一人残されたオスカーは、テーブルの上のケーキを、拳で叩き潰した。
ぐちゃり、という不快な音と共に、甘ったるい匂いが部屋に広がる。
彼は、自らが招いたこの惨状の中で、どうしようもない無力感と、今更すぎる後悔に、ただ打ち震えることしかできなかった。
北の地では、二人の男女が、未来の設計図を前に静かに語り合っている。
南の都では、一人の男が、過去の過ちによって作り出された甘い残骸の中で、孤独に喘いでいた。
二つの場所を隔てる距離は、あまりにも遠く、そして決定的だった。
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