虚像と実像、可視光線

Lilly/カナコ

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第一話

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僕が彼と知りあったのは、ある年の年末のことだった。 
某出版社の編集長である僕は、会社の忘年会の幹事を務め、そこでは毎年、編集部のメンバーだけでなく、お世話になっている作家の先生方も呼ぶことにしていた。 

あの日は彼も出席し、僕の左隣であぐらをかきながらスマートフォンをいじっていた。きっと原稿の案を練っているのだろう。

「お疲れ様です、堀木さん。次の新作も楽しみにしてますよ」
 僕はそう声をかけながら、彼のグラスにビールを注いだ。 
 
彼はスマートフォンの画面に視線を落としたまま、黙っていた。
僕が声をかけたことも、ビールがグラス一杯に注がれたことも、そして僕の存在自体にもまるで気づいていないようだった。

3分ほど経って、彼は舌打ちしながらスマートフォンの電源を落とし、テーブルの上に放り投げた。
そして、僕の方を横目でちらりと見て、ばつが悪そうに笑った。

「いやあ、なかなかキリのいいところまで終わらなくてさ・・・。
おまえが渡部編集長?前に会ったのいつだったかな・・・」

「申し遅れましてすみません、編集長の渡部と申します。
ええと・・・最後にお会いしたのは、堀木さんのお宅に担当者引き継ぎのご挨拶に伺った時以来ですかね。
直接1対1でお話しできたのは今日が初めてかもしれません。
攻めましてよろしくお願いします」

「いやいや…そんなにかしこまらなくてもいいって。
前から気になってたんだけど、なかなか話す機会がないなあ…って。
 俺の担当は別の新人さんだし、忘年会にも今までほとんど出られなかったから、今日やっと会えて嬉しいよ」
彼は心から嬉しそうに微笑んだ。

―なぁんだ、意外と話しやすい、いい人じゃないか。 
 
 彼を担当していた新人の女の子からは、とても気難しくて無愛想な人だと聞いていた。 

以前、僕と彼女で挨拶に伺ったときも、不機嫌そうに腕を組んだまま、仏頂面で黙っていたのでろくに話もできぬまま、彼のマンションを後にしたのだった。
 
あの時とはずいぶん異なる彼の態度に戸惑いを覚えると同時に、想像以上に柔らかい、まぶしい笑顔に何故か胸の奥がきゅっと締めつけられ、胸いっぱいに甘い気持ちが広がっていくのを感じるのだった。

「ええ・・・僕もですよ。折角ですから今晩はとことん飲みましょう?」
 僕がそう言うと、 彼ははにかんだように笑って、グラスにビールを注いでくれた。
「それじゃ、乾杯しよう。お疲れ様」

ふたつのグラスが触れ合い、かちりと音を立てた。
 この瞬間、何でもないいつもの飲み会が、二人だけの特別な空間に生まれ変わったような気がした。

「編集長」としてではなく、「渡部一樹」というひとりの人間として見てほしい。
もっと、彼のことを知りたい。

僕はビールの泡のようにふつふつと湧いてくる思いをこらえながら、 一気に グラスのビールを飲み干した。
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