凪の潮騒

水戸けい

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 幸正は私が戻らないでいるのに、困っているんじゃないだろうか。こんな繊細な膳を出さなければいけない手間を取るために、早く食材を手に入れたいと望んでいるのに、私が帰らないのだから。他の漁師が帰ってくるのを待って、急いで買い求めて戻ったんだろうか。私の家の中に残っていた、予備の銛でも使って自ら獲物を求めたのだろうか。幸正なら、銛も扱えるだろう。投網を、私よりもずっとうまく使いこなしていたのだから。

 思考にふけりつつ箸を動かしていると、知らぬ間に膳の中は空になっていた。箸を置き、息をつけば徳がにじりより茶を差し出してきた。茶など、話に聞いたことがあるだけで見たことも無い。顔を近づければ、何ともいえぬ、心を落ち着かせるような香りが鼻孔をくすぐり、ため息が漏れた。それに、ほんのりと得意そうな嘲るような笑みを徳が浮かべたのが、目の端に映った。癪に障るそれに、湯呑を投げつけたくなったが心を止めて口を付ける。

 始めは、わずかな苦味が――後から、ほろりとした甘味が膨らみ喉を通る。口内には香りが残り、徳に対して湧き起った不快な心地が解け去ってしまった。

 ゆっくりとそれを味わっていると再び襖が開き、さわさわと音をさせた侍女が膳を下げに来た。それと入れ替わりに、高坏が運ばれる。それには、花の形をした餅が乗っていた。――餅までも、このようにするのか。

 ひとつ、手にしてみる。鼻を近づけ香りが薄いことを確認し、口を開ける。噛んだ瞬間に甘味と香りが鼻孔をすりぬけ、思わず目を閉じた。――世の中には、こんな食べ物があるのか。

「これからは、毎日そちらを召し上がっていただけますよ」

 徳の声に、目を開ける。私に、ここに留まりたいと思わせたいのか。

「その代わりに、こんなふうに座ってぼんやりとし続けなければいけないのなら、ごめんだわ」

 残りを全部口に入れると、責めるように眉をひそめられた。気にせず次に手を伸ばすと、勢いよく襖が開け放たれる。たん、と木枠の小気味よい音に顔を向ければ、おかしいくらいに背筋を伸ばした老爺が居て、左右の警備の侍が頭を下げていた。徳が優雅に頭を下げれば、ねぎらうように頷いた老爺が私の前に来て座った。

「ふむ、ふむ――」

 無遠慮に見つめてくるのに、同じように見つめ返す。真っ白い髪に、しわだらけの顔。眉はずいぶんと長くて、目じりにかかるほどに垂れ下がっている。体格はがっしりとしているのか、着こみすぎてそうなっているのか、顔に対して体が大きく膨らんでいるように見えたが太っているという印象は受けない。

 互いに観察を終えたことが、触れあった視線で伝わった。その瞬間、この老爺は徳とは違い会話が出来る相手だと知れた。
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