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対話と説得
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雑多な匂いが近づいてくる。いや、近づいているのは僕たちか。
サムタンはトリオローノに視線を落とした。トリオローノが鼻づらを持ち上げて、サムタンにもの言いたげな視線を向ける。
「どうしたの、サムタン」
気づいたシャルは足を止めて、見つめ合うひとりと一匹に首をかしげた。
「ああ。いろいろな匂いがするな、と思ったんだ」
「ふうん?」
シャルは鼻を動かしてみた。これといって気になる匂いはなかった。市場の中なら料理屋の香りや、行きかう人々の香水などの匂いを感じることもあるけれど、ここはまだ市場からの距離があるし、人とそれほどすれ違いもしない。
「私には、よくわからないわ。しいて言えば、日常の匂いって感じかなぁ」
視線をトリオローノに落としたシャルは、大きな耳に手を伸ばした。つやつやとした毛並みの手触りが心地よくて、つい触りたくなる。
「トリオローノは敏感そうだけど、サムタンも鼻がいいのね」
おとなしくなでられているトリオローノが、いつシャルに牙を剥くかとハラハラしながら、サムタンはあいまいな笑みを浮かべた。人の姿をした彼は寸分の隙もない優雅な装いをし、常に相手を観察していると言いたげな瞳をしていた。島の誰もが彼に敬意を払い、また畏怖もして、城の秩序だけでなく島全体の統率もおこなっていた。そんなトリオローノがシャルに犬のようになでられている。
自らを犬と称したトリオローノは、シャルの人柄を値踏みしようとしているのか。サムタンは高い空の色に似た、トリオローノの底の見えない瞳を見つめた。強引に連れ戻されない理由はなんだろう。シャルに姿を見られたからか? 無理やりにその背に僕を乗せて逃げれば、騒ぎになると考えて、いまはおとなしくしているだけかもしれない。
「おとなしいのねぇ」
シャルは機嫌よくトリオローノをなでている。彼が犬ではなく人狼だと知ったら、彼女はどうするだろう。その前に、トリオローノがシャルの喉を食い破ってしまったら。
「ねえ、サムタン」
「なんだ」
「すごく険しい顔をしているけれど、どうしたの? あ、そうか。私がなれなれしくトリオローノをなでているから、いやなのね」
「えっ」
「嫉妬をするくらい、サムタンとトリオローノは仲良しなのね」
「いや、そういうわけでは……」
「ふふふ。でも、きっとお城ではブラッシングとかそういうの、お世話係がしていたんでしょう? 伯爵様がするとは思えないもの」
自分の世話すら人にしてもらう身分のサムタンが、飼い犬の世話をしているとは考えられない。きっと馬とおなじで専門の世話係がいるに違いない。その手を振り払ってまで、主人のサムタンを追いかけてきた犬なのだから、絆はかなり深いはず。――ちょっと、うらやましいな。
シャルの笑顔にさみしさが紛れ込んだことに、サムタンもトリオローノも気がついた。どうしてそんな顔をするのか、聞けば答えてくれるだろうか。サムタンは目顔でトリオローノに問うた。トリオローノは鼻を鳴らして、そっぽを向く。自分で考えろと言いたいのか、人間のことなど放っておけばいいと言われたのか。
「シャル」
「なあに?」
「その……、市場に行ったら僕の身分は、言わないでおいてくれるな?」
「もちろんよ。言ったとしても、誰も信じないでしょうけどね」
トリオローノから手を離し、シャルはちょっと考える。
「もしも匂いがつらいなら、家に戻って待っておく? 島とは違う匂いがするから、サムタンは気がついたんでしょう? 人間のサムタンが感じるくらいなんだから、トリオローノはもっとだわ。湖を渡ってサムタンを追いかけてきたんなら、疲れているだろうし。……そんな状態で慣れない匂いがする場所に行くのは、つらいんじゃないかしら」
「それは……、あるかもしれないな」
気遣いの言葉をありがたく思いつつ、サムタンはトリオローノを連れてシャルと離れたくはなかった。ふたりきりになったとたんに、強引に連れ戻される可能性がある。それは避けたい。せっかくこうして、いつもながめていた街に来られたのだから、もっといろいろな場所を見て、さまざまな体験をしたい。それに急にいなくなったら、シャルはどんな気持ちになるだろう。遠い場所で両親はのんびり暮らしていると言っていた、ひとりぼっちであの家に住んでいるシャル。彼女の両親がどこにいるのかは知らないが、あの様子だとかなり前から不在とわかる。そして父親の服を好きに使っていいと、両親の部屋を提供してくれた様子からするに、帰宅の予定はまだまだ先だと推察された。
「ねえ。今日のところは家に帰ってお留守番をしておいて。トリオローノと一緒に。ああでも、トリオローノがなにを食べるのかは教えてくれる? あんまり高価なものは買えないけれど、お腹が空くとかなしくなるから、しっかりご飯はあげないとね」
「お腹が空くと、かなしくなる?」
そんな言葉は聞いたことがないと、サムタンは目をまたたかせた。シャルは軽く肩をすくめる。
「かなしくなるくらい、空腹になったことがないのね。――でも、昨夜はちょっと、そんな気分を味わったんじゃない? お腹が空いて、とっても不安にならなかった?」
「それは……、そうかもしれない。そう言われると、そんな気分だったように思うな」
「でしょう? トリオローノは、お腹が空いているはずよ。湖の向こうからこっちまでの間で、なにか捕まえていたら毛並みが汚れているはずだけど、とってもキレイだもの。きっとご飯も食べずに、サムタンを探していたんだわ」
それほどに心を通じ合わせているなんて、とってもステキ。シャルは心の中でふたりの関係に拍手を送った。空腹であろうトリオローノを慣れない場所に連れまわすより、家に帰してゆっくりと再会を味わわせてあげたい。なにより疲れているはずから、休ませてあげなくちゃ。どうしてそこに考えが行かなかったのかしら。サムタンだって、湖を渡ってまで追いかけてきてくれたトリオローノを、思い切りかわいがってあげたいはずよ。
「ね。そうしましょう。家までは、ここからまっすぐだから道に迷う心配もないし、留守番をしておいて。もうすこし慣れてから、市場には行きましょう」
「だが……」
「いいから、そうして。サムタンだって、まだ慣れていないんだし。初日に張り切りすぎると、後でとんでもなく疲れちゃうから。――ね」
念押しのシャルの笑顔は、有無を言わせない力強さがあった。言葉に詰まったサムタンに、シャルはクルリと背を向けた。
「それじゃあ、お留守番をお願いね。すぐに戻るから」
「トリオローノには、新鮮な肉をたのむ」
サムタンの声をまねたトリオローノに、シャルは「わかった」と答えて市場へ向かった。彼女の姿がちいさくなるのを見送り、やがて人波の影に見えなくなってから、サムタンは深々と息を吐いた。
「新鮮な肉をたのんだということは、いますぐに僕を連れ帰るつもりはない、と受け止めていいのか。トリオローノ」
トリオローノは返事をせずに、チャッチャッと軽快に石畳に爪を鳴らして家を目指す。
「なあ、トリオローノ」
しっぽを揺らして進むトリオローノの背に声をかけても、彼は返事をしなかった。トリオローノの奴、どういうつもりでいるのだろう。叱る言葉を探すために、無言でいるのだろうか。それとも反省をする時間を僕に与えるために、だんまりをきめこんでいる? どちらにしても、家に戻ったら連れ戻されないように説得をしなければ。僕の望みはトリオローノもよく知っているのだから。
戻っていくひとりと一匹の姿を遠目から確認して、シャルは「ふふっ」と笑みを漏らした。トリオローノが先導して歩く姿は、騎士と王子様のようにも見える。サムタンが伯爵だと知っているから、そう思ってしまうのね。でも、あながち間違いじゃないのかも。犬はとっても忠誠心が強いって聞くし、トリオローノは頭がよさそうだから。
いきなり家族がふたりも消えたと思ったら、唐突に同居人がひとりと一匹増えてしまった。いつまで滞在するのかはわからないけれど、これからにぎやかになるのかな。
鶏肉のぶら下がっている店先で立ち止まり、シャルはサムタンとトリオローノの後姿を思い出す。いつかは家に戻る姿ではなく、島に帰る後姿を見送ることになるだろう。それまでは快適に、島の生活しか知らないサムタンにいろいろな体験をさせてあげたい。
いつまでも傍にいると思っていた人が突然いなくなってから、あれをすればよかった、これをすればよかったと悔やむ日々を思い出したシャルの胸に、さみしさがそよいだ。サムタンとの別れの日には、そんな気持ちにならないように、できる限りのことはすべてしよう。後悔なんて、こりごりだもの。
そう決意したシャルは、店先に並んでいる中でいちばん太っている鶏を買い求めた。
一方、家に戻ったサムタンとトリオローノは、話をするため二階に上がった。サムタンに貸し出された部屋に入ると、トリオローノは匂いを確かめ、クローゼットを前足で軽く掻いた。開けろ、という催促にサムタンは扉を開き、背を向けてベッドに腰かける。
背後に衣擦れの音を聞きながら、サムタンは市場という場所はどういうところなのかと想像してみた。次々にサンドイッチを求める客が入ってくる光景を思い出し、サンドイッチを別の商品――衣服やブローチなどに変換してみる。そんなふうに人々は買い物をするのだろうか。あんなに忙しそうに動いて、はたして細工の妙などわかるのか。それを吟味する必要がないほど、おなじものが並べられているのかもしれない。それはつまり品物の数だけ店がある、ということになり、シャルは多くの店に行かなければならないという結論に達する。
やはりついて行くべきだったかと、サムタンは考えた。おなじものが並んでいるのなら、よくわからない僕でも買い物は可能だ。手分けをして必要なものを求めれば、はやく用事が済む。荷物もひとりで運ぶより、ふたりで持ったほうが楽だろう。けれどシャルはいままで、ひとりで店を切り盛りしてきた。僕の手がなくても問題はないから、留守番をするよう言ったのだろう。――僕はきちんと働けているのだろうか。シャルは助かったと言ってくれたが、必要のない働き手なのかもしれない。もしも必要だとしたら、シャルはすでに誰かを雇い入れている。彼女はどうして僕をここに置いてくれたんだ?
「すこし窮屈ですが、いたしかたありませんね」
サムタンが振り向けば、クローゼットの前には銀髪の紳士がいた。サムタンとおなじく、シャルの父が着ていた庶民服を身に着けている。寸足らずなそれに身を包まれた青年の胸板は厚く、肩幅は広い。袖口が窮屈に見えるほど二の腕はたくましく、けれど腰回りは背中からしなやかな曲線を描いて細く引き締まっていた。
「ずいぶんと似合わないな、トリオローノ」
人の姿になったトリオローノは「当然です」と冷ややかに答えた。
「サムタン様も、似合っているとはいいがたい。……この家の主は感傷に浸り続ける繊細な心の持ち主のようですが、それだからこそ危ういとも言えます。不自然にならないよう、迎えの手配をいたしますので、一泊の礼を伝えて城に戻りますよ」
「感傷に浸り続ける? どういうことだ」
「気がつきませんか。この部屋の持ち主は、二度とここには戻ってこない。それなのに片づけもせずにいるのですから、感傷に浸っていると推測するのが妥当かと」
けげんに片目をすがめたサムタンに、トリオローノはやれやれと息を吐いた。
「彼女から聞いていないのですか。ここは誰の部屋だったのか」
「シャルの両親の部屋だと聞いている。引退し、遠いところで暮らしているのだと……」
「引退。まあ、そのように表現もできますね」
「なにが言いたいんだ、トリオローノ。なにに気づいた」
トリオローノは部屋を見回し、服の裾をちょっとつまんだ。
「この服の持ち主は、亡くなっていると言っているのです。生気の匂いがいたしません」
「――え」
「帰ってこない者の部屋を維持する。それは繊細で傷つきやすい心理を示すものですが、そういう人間こそ迷信や妄言に弱いもの。サムタン様や私のような存在を知り、被害に遭っていないにも関わらず、排除しようとしてくる人間はだいたいが、そういう人間です」
「シャルは僕が吸血鬼だとは信じなかった。ただの、ウワサだと」
「しかし、まちがいなく吸血鬼です。私が人狼であるように」
トリオローノの瞳が鋭く光った。わかっている、とサムタンはつぶやく。
「僕は吸血鬼だ。だが、それを隠してここで生活をする」
「サムタン様」
とがめるトリオローノの声の奥に、シャルの声がよみがえる。
――つまり、家出をしてきたってことでいいのかしら。
なにもない自分を、シャルは受け入れてくれた。トリオローノの鼻に間違いはない。彼女は両親の死を受け入れられず、遠いところでのんびりと暮らしていると言ったのだろう。それなのに両親の思い出をとどめた部屋に泊めてくれた。その気持ちの動きが、どういうものかを彼女の姿に見てみたい。
「シャルはきっと、トリオローノが言うような人間ではないよ」
「人間など、どれもおなじです。いまは吸血鬼と信じていなくとも、そうと認識すればサムタン様に危害を加えるはず」
「はず、か。……それは可能性を示す言葉で、確定の意味はないものだ」
「サムタン様」
「シャルは僕が吸血鬼と知っても、理不尽な扱いはしないはず。むろん、トリオローノが人狼と知ってもだ。これはおまえの言葉と同程度の重みをもっていると思うが?」
「それほど、ここに留まりたいのですか」
「僕はもう、血を吸う生活を終わらせたいんだ。あの感覚を味わわずに生きていたい」
思い出し、サムタンは身を震わせた。喉を伝って体に満ちる、暴力的なほどに力強い他者の命。叫びだしたいほどの嫌悪感と、甘く鉄臭い血の匂い。奪われた生命力の分だけ、ひんやりとする肉の感触。どれもこれもがおぞましい。
顔色を青くしたサムタンに、トリオローノは眉をひそめた。主が吸血を嫌っていることは知っている。それをしないでいられる方法を探し続けていることも。けれどいつかはあきらめるものと思っていた。吸血をしない吸血鬼など、古い文献に載っている架空の物語だ。
(しかしそれに救いを求めて、サムタン様は街に来られた)
庶民の生活どころか、島の外の暮らしをなにひとつ知らない主が街にたどり着き、住まう場所も見つけた。それはトリオローノの予測を超えていた。だから見つけてもすぐには声をかけずに、しばらく様子をながめていたのだ。
「なあ、トリオローノ。僕をしばらく見守っていてくれないか。それなら、おまえも安心だろう?」
「吸血をしないで生きていける吸血鬼など、夢物語だとあれほど申しているではありませんか」
「だが、可能性はゼロではない。そういう文献が残っているのだからな。――それに、もしもそれが過去の誰かの希望を綴っただけのものであったとしても、庶民の生活を知るのは伯爵としての仕事に役立つと思わないか」
強い口調のサムタンに、トリオローノはあきらめの息を吐いた。
(いつも最後には、こうして僕の願いを聞いてくれる)
なんだかんだでトリオローノは優しいな、とサムタンが礼を言うため口を開くと、トリオローノが厳しい顔をした。
「これを宿代にと渡し、相応の扱いをするよう彼女に命じるのなら、許可をいたしましょう」
「えっ」
トリオローノが取り出したのは、コインよりひとまわりほど大きなペリドットのネックレスだった。
サムタンはトリオローノに視線を落とした。トリオローノが鼻づらを持ち上げて、サムタンにもの言いたげな視線を向ける。
「どうしたの、サムタン」
気づいたシャルは足を止めて、見つめ合うひとりと一匹に首をかしげた。
「ああ。いろいろな匂いがするな、と思ったんだ」
「ふうん?」
シャルは鼻を動かしてみた。これといって気になる匂いはなかった。市場の中なら料理屋の香りや、行きかう人々の香水などの匂いを感じることもあるけれど、ここはまだ市場からの距離があるし、人とそれほどすれ違いもしない。
「私には、よくわからないわ。しいて言えば、日常の匂いって感じかなぁ」
視線をトリオローノに落としたシャルは、大きな耳に手を伸ばした。つやつやとした毛並みの手触りが心地よくて、つい触りたくなる。
「トリオローノは敏感そうだけど、サムタンも鼻がいいのね」
おとなしくなでられているトリオローノが、いつシャルに牙を剥くかとハラハラしながら、サムタンはあいまいな笑みを浮かべた。人の姿をした彼は寸分の隙もない優雅な装いをし、常に相手を観察していると言いたげな瞳をしていた。島の誰もが彼に敬意を払い、また畏怖もして、城の秩序だけでなく島全体の統率もおこなっていた。そんなトリオローノがシャルに犬のようになでられている。
自らを犬と称したトリオローノは、シャルの人柄を値踏みしようとしているのか。サムタンは高い空の色に似た、トリオローノの底の見えない瞳を見つめた。強引に連れ戻されない理由はなんだろう。シャルに姿を見られたからか? 無理やりにその背に僕を乗せて逃げれば、騒ぎになると考えて、いまはおとなしくしているだけかもしれない。
「おとなしいのねぇ」
シャルは機嫌よくトリオローノをなでている。彼が犬ではなく人狼だと知ったら、彼女はどうするだろう。その前に、トリオローノがシャルの喉を食い破ってしまったら。
「ねえ、サムタン」
「なんだ」
「すごく険しい顔をしているけれど、どうしたの? あ、そうか。私がなれなれしくトリオローノをなでているから、いやなのね」
「えっ」
「嫉妬をするくらい、サムタンとトリオローノは仲良しなのね」
「いや、そういうわけでは……」
「ふふふ。でも、きっとお城ではブラッシングとかそういうの、お世話係がしていたんでしょう? 伯爵様がするとは思えないもの」
自分の世話すら人にしてもらう身分のサムタンが、飼い犬の世話をしているとは考えられない。きっと馬とおなじで専門の世話係がいるに違いない。その手を振り払ってまで、主人のサムタンを追いかけてきた犬なのだから、絆はかなり深いはず。――ちょっと、うらやましいな。
シャルの笑顔にさみしさが紛れ込んだことに、サムタンもトリオローノも気がついた。どうしてそんな顔をするのか、聞けば答えてくれるだろうか。サムタンは目顔でトリオローノに問うた。トリオローノは鼻を鳴らして、そっぽを向く。自分で考えろと言いたいのか、人間のことなど放っておけばいいと言われたのか。
「シャル」
「なあに?」
「その……、市場に行ったら僕の身分は、言わないでおいてくれるな?」
「もちろんよ。言ったとしても、誰も信じないでしょうけどね」
トリオローノから手を離し、シャルはちょっと考える。
「もしも匂いがつらいなら、家に戻って待っておく? 島とは違う匂いがするから、サムタンは気がついたんでしょう? 人間のサムタンが感じるくらいなんだから、トリオローノはもっとだわ。湖を渡ってサムタンを追いかけてきたんなら、疲れているだろうし。……そんな状態で慣れない匂いがする場所に行くのは、つらいんじゃないかしら」
「それは……、あるかもしれないな」
気遣いの言葉をありがたく思いつつ、サムタンはトリオローノを連れてシャルと離れたくはなかった。ふたりきりになったとたんに、強引に連れ戻される可能性がある。それは避けたい。せっかくこうして、いつもながめていた街に来られたのだから、もっといろいろな場所を見て、さまざまな体験をしたい。それに急にいなくなったら、シャルはどんな気持ちになるだろう。遠い場所で両親はのんびり暮らしていると言っていた、ひとりぼっちであの家に住んでいるシャル。彼女の両親がどこにいるのかは知らないが、あの様子だとかなり前から不在とわかる。そして父親の服を好きに使っていいと、両親の部屋を提供してくれた様子からするに、帰宅の予定はまだまだ先だと推察された。
「ねえ。今日のところは家に帰ってお留守番をしておいて。トリオローノと一緒に。ああでも、トリオローノがなにを食べるのかは教えてくれる? あんまり高価なものは買えないけれど、お腹が空くとかなしくなるから、しっかりご飯はあげないとね」
「お腹が空くと、かなしくなる?」
そんな言葉は聞いたことがないと、サムタンは目をまたたかせた。シャルは軽く肩をすくめる。
「かなしくなるくらい、空腹になったことがないのね。――でも、昨夜はちょっと、そんな気分を味わったんじゃない? お腹が空いて、とっても不安にならなかった?」
「それは……、そうかもしれない。そう言われると、そんな気分だったように思うな」
「でしょう? トリオローノは、お腹が空いているはずよ。湖の向こうからこっちまでの間で、なにか捕まえていたら毛並みが汚れているはずだけど、とってもキレイだもの。きっとご飯も食べずに、サムタンを探していたんだわ」
それほどに心を通じ合わせているなんて、とってもステキ。シャルは心の中でふたりの関係に拍手を送った。空腹であろうトリオローノを慣れない場所に連れまわすより、家に帰してゆっくりと再会を味わわせてあげたい。なにより疲れているはずから、休ませてあげなくちゃ。どうしてそこに考えが行かなかったのかしら。サムタンだって、湖を渡ってまで追いかけてきてくれたトリオローノを、思い切りかわいがってあげたいはずよ。
「ね。そうしましょう。家までは、ここからまっすぐだから道に迷う心配もないし、留守番をしておいて。もうすこし慣れてから、市場には行きましょう」
「だが……」
「いいから、そうして。サムタンだって、まだ慣れていないんだし。初日に張り切りすぎると、後でとんでもなく疲れちゃうから。――ね」
念押しのシャルの笑顔は、有無を言わせない力強さがあった。言葉に詰まったサムタンに、シャルはクルリと背を向けた。
「それじゃあ、お留守番をお願いね。すぐに戻るから」
「トリオローノには、新鮮な肉をたのむ」
サムタンの声をまねたトリオローノに、シャルは「わかった」と答えて市場へ向かった。彼女の姿がちいさくなるのを見送り、やがて人波の影に見えなくなってから、サムタンは深々と息を吐いた。
「新鮮な肉をたのんだということは、いますぐに僕を連れ帰るつもりはない、と受け止めていいのか。トリオローノ」
トリオローノは返事をせずに、チャッチャッと軽快に石畳に爪を鳴らして家を目指す。
「なあ、トリオローノ」
しっぽを揺らして進むトリオローノの背に声をかけても、彼は返事をしなかった。トリオローノの奴、どういうつもりでいるのだろう。叱る言葉を探すために、無言でいるのだろうか。それとも反省をする時間を僕に与えるために、だんまりをきめこんでいる? どちらにしても、家に戻ったら連れ戻されないように説得をしなければ。僕の望みはトリオローノもよく知っているのだから。
戻っていくひとりと一匹の姿を遠目から確認して、シャルは「ふふっ」と笑みを漏らした。トリオローノが先導して歩く姿は、騎士と王子様のようにも見える。サムタンが伯爵だと知っているから、そう思ってしまうのね。でも、あながち間違いじゃないのかも。犬はとっても忠誠心が強いって聞くし、トリオローノは頭がよさそうだから。
いきなり家族がふたりも消えたと思ったら、唐突に同居人がひとりと一匹増えてしまった。いつまで滞在するのかはわからないけれど、これからにぎやかになるのかな。
鶏肉のぶら下がっている店先で立ち止まり、シャルはサムタンとトリオローノの後姿を思い出す。いつかは家に戻る姿ではなく、島に帰る後姿を見送ることになるだろう。それまでは快適に、島の生活しか知らないサムタンにいろいろな体験をさせてあげたい。
いつまでも傍にいると思っていた人が突然いなくなってから、あれをすればよかった、これをすればよかったと悔やむ日々を思い出したシャルの胸に、さみしさがそよいだ。サムタンとの別れの日には、そんな気持ちにならないように、できる限りのことはすべてしよう。後悔なんて、こりごりだもの。
そう決意したシャルは、店先に並んでいる中でいちばん太っている鶏を買い求めた。
一方、家に戻ったサムタンとトリオローノは、話をするため二階に上がった。サムタンに貸し出された部屋に入ると、トリオローノは匂いを確かめ、クローゼットを前足で軽く掻いた。開けろ、という催促にサムタンは扉を開き、背を向けてベッドに腰かける。
背後に衣擦れの音を聞きながら、サムタンは市場という場所はどういうところなのかと想像してみた。次々にサンドイッチを求める客が入ってくる光景を思い出し、サンドイッチを別の商品――衣服やブローチなどに変換してみる。そんなふうに人々は買い物をするのだろうか。あんなに忙しそうに動いて、はたして細工の妙などわかるのか。それを吟味する必要がないほど、おなじものが並べられているのかもしれない。それはつまり品物の数だけ店がある、ということになり、シャルは多くの店に行かなければならないという結論に達する。
やはりついて行くべきだったかと、サムタンは考えた。おなじものが並んでいるのなら、よくわからない僕でも買い物は可能だ。手分けをして必要なものを求めれば、はやく用事が済む。荷物もひとりで運ぶより、ふたりで持ったほうが楽だろう。けれどシャルはいままで、ひとりで店を切り盛りしてきた。僕の手がなくても問題はないから、留守番をするよう言ったのだろう。――僕はきちんと働けているのだろうか。シャルは助かったと言ってくれたが、必要のない働き手なのかもしれない。もしも必要だとしたら、シャルはすでに誰かを雇い入れている。彼女はどうして僕をここに置いてくれたんだ?
「すこし窮屈ですが、いたしかたありませんね」
サムタンが振り向けば、クローゼットの前には銀髪の紳士がいた。サムタンとおなじく、シャルの父が着ていた庶民服を身に着けている。寸足らずなそれに身を包まれた青年の胸板は厚く、肩幅は広い。袖口が窮屈に見えるほど二の腕はたくましく、けれど腰回りは背中からしなやかな曲線を描いて細く引き締まっていた。
「ずいぶんと似合わないな、トリオローノ」
人の姿になったトリオローノは「当然です」と冷ややかに答えた。
「サムタン様も、似合っているとはいいがたい。……この家の主は感傷に浸り続ける繊細な心の持ち主のようですが、それだからこそ危ういとも言えます。不自然にならないよう、迎えの手配をいたしますので、一泊の礼を伝えて城に戻りますよ」
「感傷に浸り続ける? どういうことだ」
「気がつきませんか。この部屋の持ち主は、二度とここには戻ってこない。それなのに片づけもせずにいるのですから、感傷に浸っていると推測するのが妥当かと」
けげんに片目をすがめたサムタンに、トリオローノはやれやれと息を吐いた。
「彼女から聞いていないのですか。ここは誰の部屋だったのか」
「シャルの両親の部屋だと聞いている。引退し、遠いところで暮らしているのだと……」
「引退。まあ、そのように表現もできますね」
「なにが言いたいんだ、トリオローノ。なにに気づいた」
トリオローノは部屋を見回し、服の裾をちょっとつまんだ。
「この服の持ち主は、亡くなっていると言っているのです。生気の匂いがいたしません」
「――え」
「帰ってこない者の部屋を維持する。それは繊細で傷つきやすい心理を示すものですが、そういう人間こそ迷信や妄言に弱いもの。サムタン様や私のような存在を知り、被害に遭っていないにも関わらず、排除しようとしてくる人間はだいたいが、そういう人間です」
「シャルは僕が吸血鬼だとは信じなかった。ただの、ウワサだと」
「しかし、まちがいなく吸血鬼です。私が人狼であるように」
トリオローノの瞳が鋭く光った。わかっている、とサムタンはつぶやく。
「僕は吸血鬼だ。だが、それを隠してここで生活をする」
「サムタン様」
とがめるトリオローノの声の奥に、シャルの声がよみがえる。
――つまり、家出をしてきたってことでいいのかしら。
なにもない自分を、シャルは受け入れてくれた。トリオローノの鼻に間違いはない。彼女は両親の死を受け入れられず、遠いところでのんびりと暮らしていると言ったのだろう。それなのに両親の思い出をとどめた部屋に泊めてくれた。その気持ちの動きが、どういうものかを彼女の姿に見てみたい。
「シャルはきっと、トリオローノが言うような人間ではないよ」
「人間など、どれもおなじです。いまは吸血鬼と信じていなくとも、そうと認識すればサムタン様に危害を加えるはず」
「はず、か。……それは可能性を示す言葉で、確定の意味はないものだ」
「サムタン様」
「シャルは僕が吸血鬼と知っても、理不尽な扱いはしないはず。むろん、トリオローノが人狼と知ってもだ。これはおまえの言葉と同程度の重みをもっていると思うが?」
「それほど、ここに留まりたいのですか」
「僕はもう、血を吸う生活を終わらせたいんだ。あの感覚を味わわずに生きていたい」
思い出し、サムタンは身を震わせた。喉を伝って体に満ちる、暴力的なほどに力強い他者の命。叫びだしたいほどの嫌悪感と、甘く鉄臭い血の匂い。奪われた生命力の分だけ、ひんやりとする肉の感触。どれもこれもがおぞましい。
顔色を青くしたサムタンに、トリオローノは眉をひそめた。主が吸血を嫌っていることは知っている。それをしないでいられる方法を探し続けていることも。けれどいつかはあきらめるものと思っていた。吸血をしない吸血鬼など、古い文献に載っている架空の物語だ。
(しかしそれに救いを求めて、サムタン様は街に来られた)
庶民の生活どころか、島の外の暮らしをなにひとつ知らない主が街にたどり着き、住まう場所も見つけた。それはトリオローノの予測を超えていた。だから見つけてもすぐには声をかけずに、しばらく様子をながめていたのだ。
「なあ、トリオローノ。僕をしばらく見守っていてくれないか。それなら、おまえも安心だろう?」
「吸血をしないで生きていける吸血鬼など、夢物語だとあれほど申しているではありませんか」
「だが、可能性はゼロではない。そういう文献が残っているのだからな。――それに、もしもそれが過去の誰かの希望を綴っただけのものであったとしても、庶民の生活を知るのは伯爵としての仕事に役立つと思わないか」
強い口調のサムタンに、トリオローノはあきらめの息を吐いた。
(いつも最後には、こうして僕の願いを聞いてくれる)
なんだかんだでトリオローノは優しいな、とサムタンが礼を言うため口を開くと、トリオローノが厳しい顔をした。
「これを宿代にと渡し、相応の扱いをするよう彼女に命じるのなら、許可をいたしましょう」
「えっ」
トリオローノが取り出したのは、コインよりひとまわりほど大きなペリドットのネックレスだった。
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実は、彼女が「無能」と言われていたのは、その力が『洗浄』と『浄化』に特化した特殊な聖女の魔力だったから。
レティシアが掃除をすれば、呪いの瘴気は消え去り、枯れた大地には花が咲き、不気味だった公爵城はまたたく間にピカピカの聖域に塗り替えられていく。 さらには、呪いで苦しんでいたアレクシスの素顔は、見惚れるほどの美青年で――。
「レティシア、君は一体何者なんだ……? 体が、こんなに軽いのは初めてだ」
冷酷だったはずの公爵様から、まさかの執着と溺愛。 さらには、呪いが解けたことで領地は国一番の豊かさを取り戻していく。
一方で、レティシアを捨てた実家は、彼女の『浄化』を失ったことで災厄に見舞われ、今さら「戻ってきてくれ」と泣きついてくるが……。
「私は今、お城の掃除と旦那様のお世話で忙しいんです。お引き取りくださいませ」
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