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第4話
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三年生になってクラス替えがあった。普通は、二年、三年とクラスが替わることはないが、あまり深く考えない性格の小春は、そんなもんかとだけ思った。
五月に入った頃、小春はいつものように美術室へ向かっていた。そして、一階の渡り廊下を歩いている途中、おかしな光景を見た。
「……山下さん?」
加奈が、外で空を見上げていたのだ。それだけなら、別段変なところはないのだが、今日は雨だ。
加奈は少し両手を開いて、まるで雨を全身で受け止めるようにしていた。
(きれい……)
それが何だが儚げで、そして美しいと感じた。
小春は急いでスケッチブックを持ってきて、それを鉛筆で描き始めた。なぜだか、この光景は二度と見られないのではないかと思ったからだった。
その日、加奈は美術室に現れず、三日間学校を休んだ。
「調子は戻った?」
「ああ、うん」
久しぶりに見た加奈の姿に、ほっとしながらも、小春は少しだけ彼女を心配した。
「意外と、山下さんて弱いんだね。雨に濡れただけで三日間も休むなんて。確かに湿度高い時は私もあんまり調子良くないけど」
「はは、そうだね」
小さく苦笑いをする加奈に、小春は質問をぶつけた。
「それで、何であんなことしたの?」
加奈はおどけて答える。
「生きてるって、感じがするでしょ?」
「……全く分からないんだけど」
「そうかもしれないね」
「……変なの」
小春は訝しんだが、加奈はそれ以上その件については何も話さなかった。
この時、小春が彼女との微妙な差異に気づけていれば、あんなことにはならなかったのかもしれない。
七月。梅雨が明けたとき。珍しく、加奈が小春を買い物に誘った。
小春がウキウキしながらお気に入りの私服を着て待ち合わせ場所に行くと。
「……やっぱりか」
案の定というか、彼女らしいというか。そこにはいつもと変わらない制服を着た加奈がいた。
「ん、ああ着たのね」
「そりゃ、約束したんだから来るけどさ……休みの日くらい制服脱ごうよ……」
「さすがにそんな破廉恥な格好はできない」
「違う! 私服を着ろってことだから! 下着を見せろってことじゃないから!」
息巻いてツッコミを入れる小花に加奈は笑う。
「冗談だよ」
「……」
「悪かったって謝ったじゃん」
数十分後、未だにプンスカと肩を怒らせて隣を歩く小花に何度目か分からないセリフを言う加奈。
「分かった。片井さんが見たいもの、全部付き合うから」
ピクリと立ち止まる小春。そして、視線をチラッと加奈に向けた。
「……スイーツ一個追加」
ボソッと注文を追加した。
店をあらかた回ったあと、大盛りパフェを食しながら、小春は加奈に聞いた。
「何か本当に私しか買い物してないけど、山下さんは買いたい物ないの?」
「私は、別にいいかな」
「買いたい物があって誘ったんじゃないの?」
「あー、それはさっき片井さんが服に夢中になってる時に済ませてあるから」
「いつの間に……」
「あ、そうだ」
パフェを平らげていく小春を眺めながら、加奈は今思い出したように言った。
「このあと、一カ所だけ行きたい所があるんだけど付き合ってもらえる?」
「デパート? 行きたい所ってここなの?」
「うん」
「何か買うの?」
「うーん、そうじゃないかな」
「……デパートって他に何かする所だったっけ?」
怪しむ小花に気にせず、加奈はスタスタと目的の場所を目指す。
エレベーターに入ると、加奈は最上階のボタンを押す。
「一番上って雑貨屋さんだよね?」
「そうだね」
素っ気ない加奈の返答。最上階に着くとなぜか店には寄らず、彼女は階段の方に向かう。
「行き止まりだね」
そこには関係者以外立ち入り禁止の扉があった。しかし、加奈は無言でその扉を押し開ける。
「ちょ、ちょっと! さすがにそれはまずいと思うんだけど!」
慌てる小春をスルーして中にあった階段をさらに上っていく加奈。その堂々たる振る舞いに深く考えることをやめた小春はビクビクしながらも着いていく。
そして、さらに上にあった小さな扉を加奈は押し開けた。
ブワッ。
強めの風が吹き抜けた。
小さな扉は屋上へとつながる扉だったのだ。
二人は髪を抑えながら外に出る。
「行きたかった所ってここ?」
加奈はそれには答えなかったが、風にかき消されないように声を張り上げた。
「生きてるって感じがするでしょー!」
小春には意味が分からなかった。彼女も声を張り上げる。
「全然! 分からないんだけどー!」
「あはははははは!」
それは小春が見たことがない、大声で笑う加奈だった。小春は目を見開いた。ここにいる彼女は本当にあの加奈なのだろうか。
ひとしきり笑うと、彼女はポケットからパッケージに入ったままのカッターナイフを取り出した。
「ねぇ! これで腕を刺したら、どうなると思うー!」
「傷付くに決まってるじゃん!」
今の加奈は何を言い出すのか本当に分からない。
「じゃあ、試してみよっかー!」
破り捨てられたパッケージが空を飛ぶ。小春は慌てて止めようとしたが、間に合わなかった。
スパッ。
カッターナイフはいとも簡単に加奈の腕を切り裂いた。傷口からあふれ出た真っ赤な血が、風に煽られて舞っていく。
「え」
加奈に向かって伸ばしていた小春の手が止まる。
「何、それ?」
見たこともない液体が加奈の傷口から出ている。
(あの時みたい)
小春は雨に打たれていた加奈を思い出していた。自分の知らない、それでいて美しいと感じる何かがそこにはあった。
「ああ! 私は生きてる! 生きてるんだよ!」
加奈はカッターナイフを放り投げ、そのまま屋上の端に向かって走って行く。嫌な予感がして、小春はそれを追う。転落防止の柵を跳び越える加奈。
そして、加奈は。
「山下さん……!!」
加奈は、両手を広げて六階建てデパートの屋上から落ちていった。
あのあとのことは夢中で、はっきりとしたことは覚えていない。いや、覚えているのだが、解釈が追いついていない。
急いで救急メンテナンスセンターに連絡をすると、到着した隊員が慌てて別の施設に連絡をした。しばらくするとヘリが到着し、加奈はそれに乗せられていった。
あれから三ヶ月。加奈は未だに学校に復帰してはいない。小春はその間、悶々と考えていた。加奈が傷口から流した液体は何だったのだろうか。なぜ、彼女はそれを自分に見せたのだろうか。なぜ、飛び降りたのだろうか。なぜ、帰ってこないのだろうか……。
小春は何か分かるかもしれないと思って自分の腕を同じように切ってみた。だが、液体は流れず、皮膚の下には配線が見えるだけだった。それを見咎められ、皮膚は入れ替えたので元通りになったのだが、小春の心は晴れない。
鮮明に残っているデパートの屋上での出来事を絵にしてコンクールに応募しようとしてみたのだが、なぜかその作品は返却された。
もしかしたら、大人は何か知っているのかもしれない。そう思って教師や親に聞いてみたのだが、「分からない」と言われた。友人たちに聞いてみても、答えを知る者はいなかった。
気になることといえば、小春をいじめていた三人組が、三年生になってから登校していないらしい。それも理由がはっきりしない。
あの日から、小春には分からないことだらけで、脳内メモリーがパンクしそうだ。
こんなことは初めてだった。でも、手がかりならある。加奈は「外」へと運ばれていった。「外」は人間が存在できないから、決して出てはいけないと言われている。そして、実際、外に近づこうとすると気分が悪くなるのだ。
だが、今。
(ここを越えれば後戻りはできない)
震える手足を無理矢理制御し、彼女は大きな一歩を踏み出した。
「外」へと出た小春は、目を見開いていた。
(人が、いる……)
人が存在するのは「中」だけだと教わっていたからだ。それも、驚くほど多くの人が街を歩いていた。
驚いたことはもう二つある。一つは、「外」は外観的にはあまり変わりは無いが、彼女が暮らしていた「中」と比べて、明らかにセキュリティーが貧弱だということだ。二つ目は、いくら歩いてもゲートを抜けてから、少しも気分が悪くならないということだ。
そして、気なるという点では、もう一つあった。
(あの人たち何だろう……)
道を行く人々の中で、感情がない能面のような顔をした者が一定割合で存在しているのだ。
(……何だかちょっと気味が悪い……)
彼らがというより、彼らが街に溶け込んでいる現状が異様だった。
さらに進もうとすると。
「君、ちょっといい?」
小春はビクッと肩を震わせた。警察官が声をかけてきたのだ。
「な、何でしょうか?」
恐る恐る聞き返す小春。
「君、学生さんだよね? 学校はどうしたの? ちょっと身分証明書出してくれる?」
まずい、そう思った小春は身分証明書を出すフリをして。
「あ、ちょっと君!」
全力で逃亡した。
「はぁ……はぁ……」
数分後、小春はさびれた神社の境内に逃げ込んでいた。
危険だからという理由で体育の授業以外で全力ダッシュをすることは禁止されていたが、状況が状況だけに仕方がなかった。
上昇した体温を涼ませるために、木陰で休憩をする。
(今は危ないかも……)
小春は日が落ちるのを待つことにした。
辺りが暗くなったのを見計らって、小春は再び街へと繰り出した。
(うーん、道がよく分からない……)
昼とはまた違った喧噪を見せる街に軽く酔いながら、彼女は駅を目指した。
(分かりづらい……)
駅に着くと液晶モニターに表示されている地図とにらめっこをする小春。彼女がなぜ携帯型の情報端末を使わないかというと、実は「外」に出てから通信機能が上手く動作しなくなってしまったからだ。
(聞くしかないか……)
「あの、すみません」
「はい?」
「この近くでメンテナンスセンターってありますか?」
「メンテナンスセンター? 調子の悪いアンドロイドでもいるの?」
小春が声をかけた人の良さそうなおばさんは小首を傾げる。
「アンドロイド? いえ……怪我をした友人のお見舞いに来たんですけど、病院の場所が分からなくなってしまって……」
「ああ、病院ね。最近の若い子は病院のこともそう呼ぶの? それだと区別ができなくて大変じゃない?」
(びょういんって何だろう?)
「近くの病院は駅をそっちから出て真っ直ぐ行くと3ブロック先に左側にあるわよ。でも、もう面会時間は終わってると思うから明日にしなさい」
「あはは、そうですよね……そうします! ありがとうございました!」
「いいえ、お友達早く良くなるといいわね」
「はい!」
頭を下げておばさんを見送ると、小春はとりあえず「びょういん」という施設に向かうことにした。
おばさんの言っていた辺りに来ると、赤い十字のマークがついた大きな建物が見えた。
(ここ、かな?)
色こそ違うが、メンテナンスセンターと同じマークだ。
(やっぱり閉まってる)
中の明かりは点灯しているが、扉は開かなかった。「本日の診察は終了しました」という看板が立てられていた。
建物を一周回ってみたが、どの扉も閉まっていた。
(仕方ない)
ここまで来て諦める訳にはいかない。
「すみません!」
意味のない謝罪を口にし、セキュリティパネルに指を這わせた。
ピポッ。
間抜けな電子音と共にロックが解除された。
(ざ、ザル過ぎる……!)
やはり、とても低いセキュリティレベルに驚きつつ、小春は内部へと侵入した。
(場所が、分からない……)
ここに本当に加奈がいるかも分からないが、いたとしても部屋が分からなければ意味がない。
「毎度毎度すみません!」
また謝罪を口にすると、小春は暗くなった無人のカウンターをそっと乗り越え、設置してあった一昔前のパソコンの電源を入れた。
(一応これもパスワードがかかってるんだね……意味ないけど)
ささっとパスワードを解除し、内部データを漁る。
(何だかスパイ映画みたいでワクワクするよね……)
数十秒後。
(あった)
それは、驚くほど簡単に手に入った。
『六〇七号室 山下加奈』
鼓動が早くなる。
パソコンの電源を落とすと、小春は足早に目的の場所へ向かって歩き出す。
その道のりは大した距離ではなかったが、何キロにも何十キロにも思えた。たった三ヶ月半。けれど、残りの数分がとても長く感じる。
そして。
(ここだ)
ネームプレートには「山下加奈」と書かれている。
(落ち着け……落ち着け……)
はやる気持ちを押さえつけ、深呼吸をする。
(……よし!)
ガラッ。
開いた扉の先には。
「……山下、さん?」
確かにそれは加奈だった。
だが、彼女の口元には不思議なマスクが付けられ、それが見たことのない機器につなげられていた。
「山下さん、私ずっと会いたかった」
小花は、まだ日が落ちたばかりだというのに目を閉じている彼女にゆっくりと近づいていく。
「ここで、何してたの?」
小花の口から紡がれていく言葉。
「私、聞きたいこといっぱいあるんだよ? ……山下さん、何にも連絡くれないし……」
手を伸ばす。
「ねぇ、どうしちゃったの……?」
手が、あと少しで加奈の頬に触れそうになった時。
ガタッ。
「侵入者発見、捕縛します」
部屋に突如として現れた能面の警備員。
「え」
腕を掴まれた小花は暴れる。
警備員は小花に吹っ飛ばされ、壁に激突する。
「やめてよ! 私は山下さんと話をするんだからっ」
再度加奈に近づこうとしたところで、新たに現れた二人の警備員に捕まる。
「離して! 山下さん! 山下さんっ」
「侵入者は暴走アンドロイド。強制停止します」
吹き飛ばされていた警備員がさらに上から被さった。
「起きてよ! ねぇ山下さ―」
ブツン。
その手は、加奈に届くことはなかった。
五月に入った頃、小春はいつものように美術室へ向かっていた。そして、一階の渡り廊下を歩いている途中、おかしな光景を見た。
「……山下さん?」
加奈が、外で空を見上げていたのだ。それだけなら、別段変なところはないのだが、今日は雨だ。
加奈は少し両手を開いて、まるで雨を全身で受け止めるようにしていた。
(きれい……)
それが何だが儚げで、そして美しいと感じた。
小春は急いでスケッチブックを持ってきて、それを鉛筆で描き始めた。なぜだか、この光景は二度と見られないのではないかと思ったからだった。
その日、加奈は美術室に現れず、三日間学校を休んだ。
「調子は戻った?」
「ああ、うん」
久しぶりに見た加奈の姿に、ほっとしながらも、小春は少しだけ彼女を心配した。
「意外と、山下さんて弱いんだね。雨に濡れただけで三日間も休むなんて。確かに湿度高い時は私もあんまり調子良くないけど」
「はは、そうだね」
小さく苦笑いをする加奈に、小春は質問をぶつけた。
「それで、何であんなことしたの?」
加奈はおどけて答える。
「生きてるって、感じがするでしょ?」
「……全く分からないんだけど」
「そうかもしれないね」
「……変なの」
小春は訝しんだが、加奈はそれ以上その件については何も話さなかった。
この時、小春が彼女との微妙な差異に気づけていれば、あんなことにはならなかったのかもしれない。
七月。梅雨が明けたとき。珍しく、加奈が小春を買い物に誘った。
小春がウキウキしながらお気に入りの私服を着て待ち合わせ場所に行くと。
「……やっぱりか」
案の定というか、彼女らしいというか。そこにはいつもと変わらない制服を着た加奈がいた。
「ん、ああ着たのね」
「そりゃ、約束したんだから来るけどさ……休みの日くらい制服脱ごうよ……」
「さすがにそんな破廉恥な格好はできない」
「違う! 私服を着ろってことだから! 下着を見せろってことじゃないから!」
息巻いてツッコミを入れる小花に加奈は笑う。
「冗談だよ」
「……」
「悪かったって謝ったじゃん」
数十分後、未だにプンスカと肩を怒らせて隣を歩く小花に何度目か分からないセリフを言う加奈。
「分かった。片井さんが見たいもの、全部付き合うから」
ピクリと立ち止まる小春。そして、視線をチラッと加奈に向けた。
「……スイーツ一個追加」
ボソッと注文を追加した。
店をあらかた回ったあと、大盛りパフェを食しながら、小春は加奈に聞いた。
「何か本当に私しか買い物してないけど、山下さんは買いたい物ないの?」
「私は、別にいいかな」
「買いたい物があって誘ったんじゃないの?」
「あー、それはさっき片井さんが服に夢中になってる時に済ませてあるから」
「いつの間に……」
「あ、そうだ」
パフェを平らげていく小春を眺めながら、加奈は今思い出したように言った。
「このあと、一カ所だけ行きたい所があるんだけど付き合ってもらえる?」
「デパート? 行きたい所ってここなの?」
「うん」
「何か買うの?」
「うーん、そうじゃないかな」
「……デパートって他に何かする所だったっけ?」
怪しむ小花に気にせず、加奈はスタスタと目的の場所を目指す。
エレベーターに入ると、加奈は最上階のボタンを押す。
「一番上って雑貨屋さんだよね?」
「そうだね」
素っ気ない加奈の返答。最上階に着くとなぜか店には寄らず、彼女は階段の方に向かう。
「行き止まりだね」
そこには関係者以外立ち入り禁止の扉があった。しかし、加奈は無言でその扉を押し開ける。
「ちょ、ちょっと! さすがにそれはまずいと思うんだけど!」
慌てる小春をスルーして中にあった階段をさらに上っていく加奈。その堂々たる振る舞いに深く考えることをやめた小春はビクビクしながらも着いていく。
そして、さらに上にあった小さな扉を加奈は押し開けた。
ブワッ。
強めの風が吹き抜けた。
小さな扉は屋上へとつながる扉だったのだ。
二人は髪を抑えながら外に出る。
「行きたかった所ってここ?」
加奈はそれには答えなかったが、風にかき消されないように声を張り上げた。
「生きてるって感じがするでしょー!」
小春には意味が分からなかった。彼女も声を張り上げる。
「全然! 分からないんだけどー!」
「あはははははは!」
それは小春が見たことがない、大声で笑う加奈だった。小春は目を見開いた。ここにいる彼女は本当にあの加奈なのだろうか。
ひとしきり笑うと、彼女はポケットからパッケージに入ったままのカッターナイフを取り出した。
「ねぇ! これで腕を刺したら、どうなると思うー!」
「傷付くに決まってるじゃん!」
今の加奈は何を言い出すのか本当に分からない。
「じゃあ、試してみよっかー!」
破り捨てられたパッケージが空を飛ぶ。小春は慌てて止めようとしたが、間に合わなかった。
スパッ。
カッターナイフはいとも簡単に加奈の腕を切り裂いた。傷口からあふれ出た真っ赤な血が、風に煽られて舞っていく。
「え」
加奈に向かって伸ばしていた小春の手が止まる。
「何、それ?」
見たこともない液体が加奈の傷口から出ている。
(あの時みたい)
小春は雨に打たれていた加奈を思い出していた。自分の知らない、それでいて美しいと感じる何かがそこにはあった。
「ああ! 私は生きてる! 生きてるんだよ!」
加奈はカッターナイフを放り投げ、そのまま屋上の端に向かって走って行く。嫌な予感がして、小春はそれを追う。転落防止の柵を跳び越える加奈。
そして、加奈は。
「山下さん……!!」
加奈は、両手を広げて六階建てデパートの屋上から落ちていった。
あのあとのことは夢中で、はっきりとしたことは覚えていない。いや、覚えているのだが、解釈が追いついていない。
急いで救急メンテナンスセンターに連絡をすると、到着した隊員が慌てて別の施設に連絡をした。しばらくするとヘリが到着し、加奈はそれに乗せられていった。
あれから三ヶ月。加奈は未だに学校に復帰してはいない。小春はその間、悶々と考えていた。加奈が傷口から流した液体は何だったのだろうか。なぜ、彼女はそれを自分に見せたのだろうか。なぜ、飛び降りたのだろうか。なぜ、帰ってこないのだろうか……。
小春は何か分かるかもしれないと思って自分の腕を同じように切ってみた。だが、液体は流れず、皮膚の下には配線が見えるだけだった。それを見咎められ、皮膚は入れ替えたので元通りになったのだが、小春の心は晴れない。
鮮明に残っているデパートの屋上での出来事を絵にしてコンクールに応募しようとしてみたのだが、なぜかその作品は返却された。
もしかしたら、大人は何か知っているのかもしれない。そう思って教師や親に聞いてみたのだが、「分からない」と言われた。友人たちに聞いてみても、答えを知る者はいなかった。
気になることといえば、小春をいじめていた三人組が、三年生になってから登校していないらしい。それも理由がはっきりしない。
あの日から、小春には分からないことだらけで、脳内メモリーがパンクしそうだ。
こんなことは初めてだった。でも、手がかりならある。加奈は「外」へと運ばれていった。「外」は人間が存在できないから、決して出てはいけないと言われている。そして、実際、外に近づこうとすると気分が悪くなるのだ。
だが、今。
(ここを越えれば後戻りはできない)
震える手足を無理矢理制御し、彼女は大きな一歩を踏み出した。
「外」へと出た小春は、目を見開いていた。
(人が、いる……)
人が存在するのは「中」だけだと教わっていたからだ。それも、驚くほど多くの人が街を歩いていた。
驚いたことはもう二つある。一つは、「外」は外観的にはあまり変わりは無いが、彼女が暮らしていた「中」と比べて、明らかにセキュリティーが貧弱だということだ。二つ目は、いくら歩いてもゲートを抜けてから、少しも気分が悪くならないということだ。
そして、気なるという点では、もう一つあった。
(あの人たち何だろう……)
道を行く人々の中で、感情がない能面のような顔をした者が一定割合で存在しているのだ。
(……何だかちょっと気味が悪い……)
彼らがというより、彼らが街に溶け込んでいる現状が異様だった。
さらに進もうとすると。
「君、ちょっといい?」
小春はビクッと肩を震わせた。警察官が声をかけてきたのだ。
「な、何でしょうか?」
恐る恐る聞き返す小春。
「君、学生さんだよね? 学校はどうしたの? ちょっと身分証明書出してくれる?」
まずい、そう思った小春は身分証明書を出すフリをして。
「あ、ちょっと君!」
全力で逃亡した。
「はぁ……はぁ……」
数分後、小春はさびれた神社の境内に逃げ込んでいた。
危険だからという理由で体育の授業以外で全力ダッシュをすることは禁止されていたが、状況が状況だけに仕方がなかった。
上昇した体温を涼ませるために、木陰で休憩をする。
(今は危ないかも……)
小春は日が落ちるのを待つことにした。
辺りが暗くなったのを見計らって、小春は再び街へと繰り出した。
(うーん、道がよく分からない……)
昼とはまた違った喧噪を見せる街に軽く酔いながら、彼女は駅を目指した。
(分かりづらい……)
駅に着くと液晶モニターに表示されている地図とにらめっこをする小春。彼女がなぜ携帯型の情報端末を使わないかというと、実は「外」に出てから通信機能が上手く動作しなくなってしまったからだ。
(聞くしかないか……)
「あの、すみません」
「はい?」
「この近くでメンテナンスセンターってありますか?」
「メンテナンスセンター? 調子の悪いアンドロイドでもいるの?」
小春が声をかけた人の良さそうなおばさんは小首を傾げる。
「アンドロイド? いえ……怪我をした友人のお見舞いに来たんですけど、病院の場所が分からなくなってしまって……」
「ああ、病院ね。最近の若い子は病院のこともそう呼ぶの? それだと区別ができなくて大変じゃない?」
(びょういんって何だろう?)
「近くの病院は駅をそっちから出て真っ直ぐ行くと3ブロック先に左側にあるわよ。でも、もう面会時間は終わってると思うから明日にしなさい」
「あはは、そうですよね……そうします! ありがとうございました!」
「いいえ、お友達早く良くなるといいわね」
「はい!」
頭を下げておばさんを見送ると、小春はとりあえず「びょういん」という施設に向かうことにした。
おばさんの言っていた辺りに来ると、赤い十字のマークがついた大きな建物が見えた。
(ここ、かな?)
色こそ違うが、メンテナンスセンターと同じマークだ。
(やっぱり閉まってる)
中の明かりは点灯しているが、扉は開かなかった。「本日の診察は終了しました」という看板が立てられていた。
建物を一周回ってみたが、どの扉も閉まっていた。
(仕方ない)
ここまで来て諦める訳にはいかない。
「すみません!」
意味のない謝罪を口にし、セキュリティパネルに指を這わせた。
ピポッ。
間抜けな電子音と共にロックが解除された。
(ざ、ザル過ぎる……!)
やはり、とても低いセキュリティレベルに驚きつつ、小春は内部へと侵入した。
(場所が、分からない……)
ここに本当に加奈がいるかも分からないが、いたとしても部屋が分からなければ意味がない。
「毎度毎度すみません!」
また謝罪を口にすると、小春は暗くなった無人のカウンターをそっと乗り越え、設置してあった一昔前のパソコンの電源を入れた。
(一応これもパスワードがかかってるんだね……意味ないけど)
ささっとパスワードを解除し、内部データを漁る。
(何だかスパイ映画みたいでワクワクするよね……)
数十秒後。
(あった)
それは、驚くほど簡単に手に入った。
『六〇七号室 山下加奈』
鼓動が早くなる。
パソコンの電源を落とすと、小春は足早に目的の場所へ向かって歩き出す。
その道のりは大した距離ではなかったが、何キロにも何十キロにも思えた。たった三ヶ月半。けれど、残りの数分がとても長く感じる。
そして。
(ここだ)
ネームプレートには「山下加奈」と書かれている。
(落ち着け……落ち着け……)
はやる気持ちを押さえつけ、深呼吸をする。
(……よし!)
ガラッ。
開いた扉の先には。
「……山下、さん?」
確かにそれは加奈だった。
だが、彼女の口元には不思議なマスクが付けられ、それが見たことのない機器につなげられていた。
「山下さん、私ずっと会いたかった」
小花は、まだ日が落ちたばかりだというのに目を閉じている彼女にゆっくりと近づいていく。
「ここで、何してたの?」
小花の口から紡がれていく言葉。
「私、聞きたいこといっぱいあるんだよ? ……山下さん、何にも連絡くれないし……」
手を伸ばす。
「ねぇ、どうしちゃったの……?」
手が、あと少しで加奈の頬に触れそうになった時。
ガタッ。
「侵入者発見、捕縛します」
部屋に突如として現れた能面の警備員。
「え」
腕を掴まれた小花は暴れる。
警備員は小花に吹っ飛ばされ、壁に激突する。
「やめてよ! 私は山下さんと話をするんだからっ」
再度加奈に近づこうとしたところで、新たに現れた二人の警備員に捕まる。
「離して! 山下さん! 山下さんっ」
「侵入者は暴走アンドロイド。強制停止します」
吹き飛ばされていた警備員がさらに上から被さった。
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ブツン。
その手は、加奈に届くことはなかった。
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旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
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