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一章
ただいまを言える場所
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フィリシアが馬車の窓から外を覗くと、見慣れた門が視界に入った。
白い石造りのアーチに絡まる蔦は、春の陽を浴びて柔らかく揺れている。門の向こうには広大な庭園が広がり、色とりどりの花々が咲き誇っていた。
「……帰ってきたんだ」
馬車がゆっくりと停まり、扉が開く。使用人たちが一斉に頭を下げる中、フィリシアはスカートの裾を整えながら足を踏み出した。
懐かしい香り。懐かしい空気。懐かしい“家”。
「おかえりなさいませ、フィリシア様」
執事の穏やかな声に、フィリシアは微笑みながら頷いた。
屋敷の玄関ホールに足を踏み入れた瞬間、フィリシアの視線は階段の踊り場に立つ二人の姿に吸い寄せられた。
「フィリシア!」
母ルイーゼがスカートを揺らしながら駆け寄ってくる。
その腕がフィリシアを包み込むように抱きしめた瞬間、胸の奥にあった緊張がふっとほどけた。
「お帰りなさい。顔を見られて嬉しいわ」
柔らかな声と、髪を撫でる手の温もり。フィリシアは目を伏せながら、そっと母のことを抱き締めた。
「ただいま帰りました、お母さま」
少し遅れて、父ターキッシュが階段を降りてくる。
背筋の伸びた姿勢、落ち着いた足取り。彼の眼差しは厳しさを湛えながらも、どこか安堵の色を含んでいた。
「よく帰ってきたな。学園では忙しかっただろう」
その声に、フィリシアは微笑みながら頷いた。
「ええ、でも……こうして帰ってこられて、嬉しいです」
両親の表情に浮かぶ笑顔。
──この笑顔を、絶対に守らなきゃ。
未来の記憶がよぎる。裁判の日、泣き崩れていた両親の姿。
フィリシアはその記憶を振り払うように、笑顔を作った。
「今日は、進級祝いの夕食を用意してあるわ。楽しみにしていてね」
母の言葉に、フィリシアは「はい」と答えながら、心の奥に小さな決意を灯した。
---
夕食前、フィリシアは父の書斎に呼ばれた。
重厚な扉をノックすると、低く「入りなさい」と返ってくる。
扉を開けると、書棚に囲まれた空間の中央に、ターキッシュ・フォンリュミエールが背筋を伸ばして座っていた。
「進級、おめでとう」
父は書類に目を落としたまま言った。
フィリシアは静かに頭を下げる。
「ありがとうございます。……ただ、初日の授業は少し遅れてしまいました」
「なぜだ?」
それは……と口を開きかけた瞬間、父が顔を上げた。
「レオンハルト家のご子息のことでかな?」
その一言に、フィリシアはビクッと肩を震わせた。
父の目は静かで、鋭い。
「ほ、本当ですよ! あの者はいつになっても私の機嫌を悪くしてくるんです! あんな者といれば、体調だって悪くなりますよ!」
必死に取り繕うように言った声は、少し上ずっていた。
父は書類を閉じ、深くため息をついた。
「お前らはもう高等部三年なんだ。いい加減に仲良くしないか」
「私だって、自分にできることはやっています。でも……あの者とは十年以上ずっとこんな感じで、今さら言われても……」
その言葉に、父の目が鋭く光った。
「その関係が、大人になった時にこの家にどんな影響をもたらすかわからないのか?」
低く、重い声。
父の目が、いつもの穏やかさを失っていた。
「……っ」
言葉が出ない。
父の言葉は、ただの説教ではなかった。
それは“家”を背負う者としての警告だった。
フィリシアは小さく頭を下げ、書斎を後にした。
扉が静かに閉まる音が、やけに大きく響いた。
(今さら……無理だよ)
心の中で、誰にも聞こえない声が漏れた。
---
「お姉さまーっ!」
扉を開けると、アンナが勢いよく飛びついてきた。
ふわふわの金髪が揺れて、フィリシアの胸元に顔を埋める。
「アンナ、少し落ち着いて。危ないでしょう?」
優しく叱る声に、アンナはくすくす笑った。
「だって、会いたかったんだもん。今日もお姉さま、きれい!」
その言葉に、フィリシアは少しだけ頬を緩めた。
続いて、ガブリエルがゆっくりと歩み寄ってくる。
「進級、おめでとうございます、お姉さん」
「ありがとう、ガブリエル。あなたたちも、元気にしていた?」
「うん、アンナが少し騒がしいけど……」
「うるさくないもん!」
アンナがむくれた顔で言い返すと、ガブリエルは肩をすくめた。
フィリシアは二人のやり取りに、自然と笑みをこぼす。
「……ふふ。あなたたちが元気でいてくれると、私も安心するわ」
その言葉に、アンナがぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、今日の夜は一緒に寝てくれる?」
「えっ……それは……」
フィリシアは少し戸惑った。
でも──
「……いいわ。今日は、特別にね」
アンナが歓声を上げ、ガブリエルも微笑んだ。
フィリシアは二人の手を取って、部屋の奥へと歩き出す。
---
弟妹と笑い合いながらも、フィリシアの胸の奥には、ふとした記憶がよぎっていた。
ガブリエルが生まれたばかりの頃──
すでに自分が侯爵家の跡取りとして扱われていた時期。
ガブリエルの父である、私の父の弟──叔父が、家の未来を案じて言ったのだ。
「男子であるガブリエルに跡を継がせるべきではないか」と。
その言葉に、父は長く沈黙していた。
(お父様は、私が“女の子だから”って理由で、ガブリエルに跡を譲ろうとしていた)
それは、父なりの優しさだったのかもしれない。
男社会の中で、娘が苦しむ姿を想像してしまったのだろう。
でも──
「わたしも、お父様みたいな、かっこいいコウシャクになる!」
幼い自分が、父の背中を見て、目を輝かせて言った言葉。
あの瞬間、父の目が驚きと、何かを悟ったような光に変わったのを、今でも覚えている。
(あの時、お父様は……私の言葉で、決めてくれた)
女子だからといって、夢を奪うのは違う。
家を継ぐということは、性別ではなく“覚悟”の問題なのだと。
それ以来、誰もその話を口にしなくなった。
ガブリエルも、跡取りとして育てられることはなかった。
(だから私は、絶対に逃げない。誰が何と言おうと、私はこの家を守る)
弟妹の笑顔を見ながら、フィリシアは静かに心に誓い直す。
自分が継ぐと決めたこの家を、誇りあるものにするために──
---
晩餐の鐘が鳴ると、リュミエール家の食堂には、いつもより多くの席が設けられていた。
ターキッシュ侯爵と夫人ルイーゼの隣には、従弟ガブリエルと従妹アンナの両親──フィリシアの叔父と叔母が座っていた。
「進級、おめでとう、フィリシア嬢」
叔父が穏やかな笑みを浮かべて言った。
その声には、かつて“跡取り”について語った男の面影はなかった。
「ありがとうございます。お忙しい中、わざわざお越しいただいて……」
「何を言うの。あなたの晴れの日を祝えるのは、家族として当然のことよ」
叔母が優しく言い添える。
フィリシアは少しだけ頬を緩めた。
「お姉さま、今日の制服、すっごく似合ってた!」
アンナが嬉しそうに声を上げると、叔母がくすくすと笑った。
「アンナったら、朝からずっと“お姉さまがかっこよかった”って言ってたのよ」
「ほんと? 朝は髪がうまくまとまらなくて、ちょっと焦ったのよ」
フィリシアは肩をすくめて笑った。
「でも、ちゃんときれいだった! お姉さまはいつも完璧!」
「完璧なんてことないわ。昨日なんて、授業に遅れてたから焦って来ちゃって、部屋用の靴で来ちゃったのよ……」
その言葉に、アンナとガブリエルが「ええーっ」と声を上げ、叔父と叔母も笑みをこぼす。
母ルイーゼも、珍しく声を立てて笑った。
「フィリシア、あなたがそんなことをするなんて珍しいわね」
「……たまには、ね。人間だもの」
父ターキッシュは黙って食事を続けていたが、ちらりと視線を向けていた。
その目に、責める色はなかった。
ただ、静かに見守るような、そんな眼差し。
「ガブリエルは、今日の授業どうだった?」
「うん……先生が急に難しい話を始めて、ちょっと混乱したけど、アンナが隣でメモしてくれて助かった」
「えへへ、わたし、がんばった!」
アンナが胸を張ると、フィリシアは優しく頭を撫でた。
「偉いわね、アンナ。ガブリエルも、ちゃんと聞いてたのね。二人とも、頼もしいわ」
その言葉に、従弟従妹は嬉しそうに顔を見合わせた。
叔父と叔母も、満足げに頷いている。
フィリシアは、スープを口に運びながら、ふと目を閉じる。
この時間だけは、跡取りでも、侯爵候補でもなく──
ただの“姉”で、ただの“娘”でいられる。
(……こういう時間が、ずっと続けばいいのに)
心の中で、誰にも聞こえない声が漏れた。
全部が、フィリシアにとって“家族”だった。
---
夜も更け、屋敷の灯りがひとつ、またひとつと落ちていく。
フィリシアは自室の窓辺に座り、外の庭をぼんやりと眺めていた。
(今日は……いい日だった)
弟妹の笑顔。
母ルイーゼの優しい言葉。
叔父と叔母の祝福。
父ターキッシュの沈黙の奥にあった、確かな眼差し。
でも──
その穏やかさの中に、ふとした影が差す。
(……あの時のことを、思い出してしまう)
処刑の日。
あの冷たい空気。
父の顔が、苦しみに歪んでいた。
母の瞳が、涙で濡れていた。
(私は……あの時、何もできなかった)
跡取りとしても、娘としても。
ただ、見ていることしかできなかった。
両親が苦しむ姿を、黙って見ていた。
(また、あんなふうに……二人を悲しませてしまったら)
フィリシアは、胸元に手を当てる。
そこにあるのは、誇らしさと、ほんの少しの不安。
いや──確かな“怖さ”。
(私は、ちゃんと“娘”でいられる?
“跡取り”として、家を守れる?
お父様とお母様に、誇ってもらえる?)
誰かに失望されること。
家を守れないこと。
両親の涙を、また見てしまうこと。
フィリシアは、そっと目を閉じた。
月の光が、彼女の頬を静かに照らす。
(それでも、私は──)
「私は、フィリシア・フォンリュミエール。
この家の娘で、姉で……跡取りです」
誰に聞かせるでもなく、静かに言葉を紡ぐ。
その声は、震えていたけれど、確かだった。
窓の外に広がる夜空は、どこまでも静かで、どこまでも広かった。
白い石造りのアーチに絡まる蔦は、春の陽を浴びて柔らかく揺れている。門の向こうには広大な庭園が広がり、色とりどりの花々が咲き誇っていた。
「……帰ってきたんだ」
馬車がゆっくりと停まり、扉が開く。使用人たちが一斉に頭を下げる中、フィリシアはスカートの裾を整えながら足を踏み出した。
懐かしい香り。懐かしい空気。懐かしい“家”。
「おかえりなさいませ、フィリシア様」
執事の穏やかな声に、フィリシアは微笑みながら頷いた。
屋敷の玄関ホールに足を踏み入れた瞬間、フィリシアの視線は階段の踊り場に立つ二人の姿に吸い寄せられた。
「フィリシア!」
母ルイーゼがスカートを揺らしながら駆け寄ってくる。
その腕がフィリシアを包み込むように抱きしめた瞬間、胸の奥にあった緊張がふっとほどけた。
「お帰りなさい。顔を見られて嬉しいわ」
柔らかな声と、髪を撫でる手の温もり。フィリシアは目を伏せながら、そっと母のことを抱き締めた。
「ただいま帰りました、お母さま」
少し遅れて、父ターキッシュが階段を降りてくる。
背筋の伸びた姿勢、落ち着いた足取り。彼の眼差しは厳しさを湛えながらも、どこか安堵の色を含んでいた。
「よく帰ってきたな。学園では忙しかっただろう」
その声に、フィリシアは微笑みながら頷いた。
「ええ、でも……こうして帰ってこられて、嬉しいです」
両親の表情に浮かぶ笑顔。
──この笑顔を、絶対に守らなきゃ。
未来の記憶がよぎる。裁判の日、泣き崩れていた両親の姿。
フィリシアはその記憶を振り払うように、笑顔を作った。
「今日は、進級祝いの夕食を用意してあるわ。楽しみにしていてね」
母の言葉に、フィリシアは「はい」と答えながら、心の奥に小さな決意を灯した。
---
夕食前、フィリシアは父の書斎に呼ばれた。
重厚な扉をノックすると、低く「入りなさい」と返ってくる。
扉を開けると、書棚に囲まれた空間の中央に、ターキッシュ・フォンリュミエールが背筋を伸ばして座っていた。
「進級、おめでとう」
父は書類に目を落としたまま言った。
フィリシアは静かに頭を下げる。
「ありがとうございます。……ただ、初日の授業は少し遅れてしまいました」
「なぜだ?」
それは……と口を開きかけた瞬間、父が顔を上げた。
「レオンハルト家のご子息のことでかな?」
その一言に、フィリシアはビクッと肩を震わせた。
父の目は静かで、鋭い。
「ほ、本当ですよ! あの者はいつになっても私の機嫌を悪くしてくるんです! あんな者といれば、体調だって悪くなりますよ!」
必死に取り繕うように言った声は、少し上ずっていた。
父は書類を閉じ、深くため息をついた。
「お前らはもう高等部三年なんだ。いい加減に仲良くしないか」
「私だって、自分にできることはやっています。でも……あの者とは十年以上ずっとこんな感じで、今さら言われても……」
その言葉に、父の目が鋭く光った。
「その関係が、大人になった時にこの家にどんな影響をもたらすかわからないのか?」
低く、重い声。
父の目が、いつもの穏やかさを失っていた。
「……っ」
言葉が出ない。
父の言葉は、ただの説教ではなかった。
それは“家”を背負う者としての警告だった。
フィリシアは小さく頭を下げ、書斎を後にした。
扉が静かに閉まる音が、やけに大きく響いた。
(今さら……無理だよ)
心の中で、誰にも聞こえない声が漏れた。
---
「お姉さまーっ!」
扉を開けると、アンナが勢いよく飛びついてきた。
ふわふわの金髪が揺れて、フィリシアの胸元に顔を埋める。
「アンナ、少し落ち着いて。危ないでしょう?」
優しく叱る声に、アンナはくすくす笑った。
「だって、会いたかったんだもん。今日もお姉さま、きれい!」
その言葉に、フィリシアは少しだけ頬を緩めた。
続いて、ガブリエルがゆっくりと歩み寄ってくる。
「進級、おめでとうございます、お姉さん」
「ありがとう、ガブリエル。あなたたちも、元気にしていた?」
「うん、アンナが少し騒がしいけど……」
「うるさくないもん!」
アンナがむくれた顔で言い返すと、ガブリエルは肩をすくめた。
フィリシアは二人のやり取りに、自然と笑みをこぼす。
「……ふふ。あなたたちが元気でいてくれると、私も安心するわ」
その言葉に、アンナがぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、今日の夜は一緒に寝てくれる?」
「えっ……それは……」
フィリシアは少し戸惑った。
でも──
「……いいわ。今日は、特別にね」
アンナが歓声を上げ、ガブリエルも微笑んだ。
フィリシアは二人の手を取って、部屋の奥へと歩き出す。
---
弟妹と笑い合いながらも、フィリシアの胸の奥には、ふとした記憶がよぎっていた。
ガブリエルが生まれたばかりの頃──
すでに自分が侯爵家の跡取りとして扱われていた時期。
ガブリエルの父である、私の父の弟──叔父が、家の未来を案じて言ったのだ。
「男子であるガブリエルに跡を継がせるべきではないか」と。
その言葉に、父は長く沈黙していた。
(お父様は、私が“女の子だから”って理由で、ガブリエルに跡を譲ろうとしていた)
それは、父なりの優しさだったのかもしれない。
男社会の中で、娘が苦しむ姿を想像してしまったのだろう。
でも──
「わたしも、お父様みたいな、かっこいいコウシャクになる!」
幼い自分が、父の背中を見て、目を輝かせて言った言葉。
あの瞬間、父の目が驚きと、何かを悟ったような光に変わったのを、今でも覚えている。
(あの時、お父様は……私の言葉で、決めてくれた)
女子だからといって、夢を奪うのは違う。
家を継ぐということは、性別ではなく“覚悟”の問題なのだと。
それ以来、誰もその話を口にしなくなった。
ガブリエルも、跡取りとして育てられることはなかった。
(だから私は、絶対に逃げない。誰が何と言おうと、私はこの家を守る)
弟妹の笑顔を見ながら、フィリシアは静かに心に誓い直す。
自分が継ぐと決めたこの家を、誇りあるものにするために──
---
晩餐の鐘が鳴ると、リュミエール家の食堂には、いつもより多くの席が設けられていた。
ターキッシュ侯爵と夫人ルイーゼの隣には、従弟ガブリエルと従妹アンナの両親──フィリシアの叔父と叔母が座っていた。
「進級、おめでとう、フィリシア嬢」
叔父が穏やかな笑みを浮かべて言った。
その声には、かつて“跡取り”について語った男の面影はなかった。
「ありがとうございます。お忙しい中、わざわざお越しいただいて……」
「何を言うの。あなたの晴れの日を祝えるのは、家族として当然のことよ」
叔母が優しく言い添える。
フィリシアは少しだけ頬を緩めた。
「お姉さま、今日の制服、すっごく似合ってた!」
アンナが嬉しそうに声を上げると、叔母がくすくすと笑った。
「アンナったら、朝からずっと“お姉さまがかっこよかった”って言ってたのよ」
「ほんと? 朝は髪がうまくまとまらなくて、ちょっと焦ったのよ」
フィリシアは肩をすくめて笑った。
「でも、ちゃんときれいだった! お姉さまはいつも完璧!」
「完璧なんてことないわ。昨日なんて、授業に遅れてたから焦って来ちゃって、部屋用の靴で来ちゃったのよ……」
その言葉に、アンナとガブリエルが「ええーっ」と声を上げ、叔父と叔母も笑みをこぼす。
母ルイーゼも、珍しく声を立てて笑った。
「フィリシア、あなたがそんなことをするなんて珍しいわね」
「……たまには、ね。人間だもの」
父ターキッシュは黙って食事を続けていたが、ちらりと視線を向けていた。
その目に、責める色はなかった。
ただ、静かに見守るような、そんな眼差し。
「ガブリエルは、今日の授業どうだった?」
「うん……先生が急に難しい話を始めて、ちょっと混乱したけど、アンナが隣でメモしてくれて助かった」
「えへへ、わたし、がんばった!」
アンナが胸を張ると、フィリシアは優しく頭を撫でた。
「偉いわね、アンナ。ガブリエルも、ちゃんと聞いてたのね。二人とも、頼もしいわ」
その言葉に、従弟従妹は嬉しそうに顔を見合わせた。
叔父と叔母も、満足げに頷いている。
フィリシアは、スープを口に運びながら、ふと目を閉じる。
この時間だけは、跡取りでも、侯爵候補でもなく──
ただの“姉”で、ただの“娘”でいられる。
(……こういう時間が、ずっと続けばいいのに)
心の中で、誰にも聞こえない声が漏れた。
全部が、フィリシアにとって“家族”だった。
---
夜も更け、屋敷の灯りがひとつ、またひとつと落ちていく。
フィリシアは自室の窓辺に座り、外の庭をぼんやりと眺めていた。
(今日は……いい日だった)
弟妹の笑顔。
母ルイーゼの優しい言葉。
叔父と叔母の祝福。
父ターキッシュの沈黙の奥にあった、確かな眼差し。
でも──
その穏やかさの中に、ふとした影が差す。
(……あの時のことを、思い出してしまう)
処刑の日。
あの冷たい空気。
父の顔が、苦しみに歪んでいた。
母の瞳が、涙で濡れていた。
(私は……あの時、何もできなかった)
跡取りとしても、娘としても。
ただ、見ていることしかできなかった。
両親が苦しむ姿を、黙って見ていた。
(また、あんなふうに……二人を悲しませてしまったら)
フィリシアは、胸元に手を当てる。
そこにあるのは、誇らしさと、ほんの少しの不安。
いや──確かな“怖さ”。
(私は、ちゃんと“娘”でいられる?
“跡取り”として、家を守れる?
お父様とお母様に、誇ってもらえる?)
誰かに失望されること。
家を守れないこと。
両親の涙を、また見てしまうこと。
フィリシアは、そっと目を閉じた。
月の光が、彼女の頬を静かに照らす。
(それでも、私は──)
「私は、フィリシア・フォンリュミエール。
この家の娘で、姉で……跡取りです」
誰に聞かせるでもなく、静かに言葉を紡ぐ。
その声は、震えていたけれど、確かだった。
窓の外に広がる夜空は、どこまでも静かで、どこまでも広かった。
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