明治あやかしとりかえ子奇譚

シェリンカ

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壱 籠の鳥

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「そうじゃございません! 先ほども申し上げたとおり、もっと手首を使って、ひじの角度はこう! 軽やかにげんはじいて!」

 鬼気迫ききせまる女性の怒声どせいが、静かな中庭に響き渡る。
 白い玉砂利たまじゃりが敷き詰められた瀟洒しょうしゃな庭は、やしきの最奥に面しており主屋おもやと離れの間に広がる。
 声が飛んでいるのは、離れの一室からだ。

「あああ、弦が切れてしまわれた……ようございます……今日はここまでということで……」

 悲痛な叫びを残し、部屋から出て、中庭を望む廊下を、肩を落として歩くのは、女だてらにもん付きの黒い羽織りを着た、三十代中ほどの女性だ。
 着物の後襟うしろえりを大きく抜き、半襟はんえりを幅広く見せた着こなしは、近頃花街はなまちで流行しているものであり、島田髷しまだまげに派手なかんざししていることも含めて、一流の芸妓げいぎであると一目でわかる。

 その人物が声を荒げて指導していたのは、離れの一室で大きな琴に上半身を被せるようにして、突っ伏している朔だった。

「ダメだ……ぜったい弾ける気がしない……」

 小奇麗な着物を着て白い足袋たびいた朔は、畳の上に置かれた琴に寄りかかっている。
 演奏を指導してくれていた人物に愛想あいそを尽かされ、途方に暮れているように見えるが、単にそれだけではない。
 すっかり足がしびれてしまい、その格好から動けないのだ。

「お嬢様……大丈夫ですか……?」

 部屋の隅に控えていた、朔より少し年長の少女が、恐る恐る声をかける。

「大丈夫……です……」

 心配をかけないために笑顔で答えたが、実際は、まだしばらくこの格好のまま動けそうにない。

「次は、日本舞踊の先生がお見えになりますが……」

 それまでに琴をしまい、踊りの稽古用の着物に着替えなければならないと、朔も頭ではわかっているが、どうしようもない。

「先に、手習てならいの練習時間にするというのは……?」

 試しに聞いてみたが、きっぱりと首を横に振られた。

「無理です」
「ですよね……」

 朔はなんとか琴の上から上半身を起こし、足の指を少しずつ動かして、痺れをこうとする。

(琴、お茶、踊り、お花……手習いに歌……これまで何一つやったことがないのに、この家の娘と認めてもらうには、急いで全部身につけなくちゃならないんだから……とにかく時間が足りない!)

「先生をご案内してまいりますね」

 部屋を出ていく少女に、かろうじて笑顔で答える。

「はい、それまでに片づけておきます」
「お願いします。櫻子さくらこ様」
「……あ……はいっ!」

 その名前が、自分の新しい名前だということには、まだ慣れない気持ちのほうが大きかった。



「今日から櫻子様と名乗っていただきます」

 月照院げっしょういん家を初めて訪れた日、祖母に当たる月照院菊乃きくのとの面会の末に、朔もなんとかこの家に住まわせてもらうことが決まった。
 それは、望が住む主屋とは中庭を挟んだ離れでの生活だったが、同じ屋敷内で暮らせるというだけで安堵あんどした。
 少し不穏な空気をかもし出しながらの、天晴てんせいの助言あってのことだったが、事前に彼があれほど謝っていた理由も、合点がてんがいった。

 月照院家は、行方不明になった息子の血を引く子どもをさがしていたが、それは跡取あととりとなりる望だけだったのだ。
 女である朔は、必要とされていなかった。

 だからこそ望は、自分を迎えに来た光流こうりゅうと天晴に、「二人揃ってでしょうか?」と念を押したのだと、今となっては朔にもわかる。

(私だけ、追い返される可能性もあった……そう思えば、望と引き離されたって……名前を変えられたって……ここに居られるだけましだ)

 多少のことには我慢しようと決意し、ここでの生活を始めたが、課されたものが多すぎて、すでに投げ出してしまいたくなっている。

(ダメだ、ダメだ! もっとがんばらなくちゃ……望と一緒にいられなくなる……)

 それこそが、朔がもっとも恐れていること。

 最愛の弟のことを思い、ようやく痺れが取れてきた足を動かし、よろよろと立ち上がろうとした時、よく知るあの感覚が過ぎった。

「―――――!」

 よくない感じがする。

(望がいる主屋のほうだ!)

 そう思った時には、朔は琴を乗り越えて部屋を飛び出し、廊下へ転がるように走り出ていた。
 足袋のまま庭へ下り、見事に手入れされた松の木の間を抜けて、正面に見えてきた建物を目指す。

 朔は、主屋のどこにどのような部屋があるのかを知らない。
 初めてこの屋敷を訪れた日に、離れに住まうように言い渡されてから、一歩もそこから出ていないからだ。
 もちろん望と会ってもいないし、彼がどの部屋に住んでいるのかもわからない。

 それでも、どんな磁石よりも強く引きあう双子は、己たちの力だけで再会を果たした。
 それは、何者にも引き離すことは不可能であると、証明するかのように――。

 こちらが嫌な感じがすると――感覚だけを頼りに、中庭を抜けて主屋の廊下へ駆け上がり、一室の障子しょうじをぱーんと音をさせて開け放った朔は、その部屋の奥で、望が黒い霧に乗りかかられている光景を目の当たりにした。

「望!」

 すぐに駆け寄ろうとしたが、その望に手で制される。

「大丈夫、朔。僕一人でなんとかなる」

 言葉の通りで、望が畳に横たわった状態のまま、手を様々な形に組み替えていくと、霧は晴れるように次第に薄くなっていき、朔が感じていた嫌な気配も消え失せた。

 肩で大きく息をしながら、望が畳に座り直す。

「久しぶりだね、朔……なんだか見違えた」

 望は眩しそうに目を細めて、優しく微笑み、めるような言葉をかけてくれたが、朔は自分の格好を見直して、穴があったら入りたい心境だった。

「ち、違うの! 本当はもっと綺麗に着物を着てて……! 髪もちゃんとかしてて……!」

 全力で中庭を駆け抜けた結果、着物はすっかり着崩れ、足袋も泥だらけで、髪もぼさぼさという有様ありさまだ。
 それでも朔は、嬉しそうに笑っている。

「うん。だから、元の格好も含めて、僕の知ってる朔じゃないみたいで……」

 望こそ、洋風のシャツの上に小袖こそでを着て、はかま穿いた姿はこれまで見たことのないものだ。洋装は高価で、普段着として用いることができるのは一部の華族のみなので、月照院家がいかに資産家なのかがわかる。

(もうすっかり華族のお坊ちゃまみたい……)

 髪を綺麗にでつけた望の姿に、朔が一抹いちまつの寂しさを感じていると、同じようなことを言われた。

「知らないお嬢様みたいだ……」
「え?」

 望と比べるとすっかり着崩れてしまっている、自分の情けない格好を見回して、朔はぱちぱちと目をまたたかせた。

「どこが?」

 望は、はははと笑いながら、文机ふみづくえの前から立ち上がって、部屋の入り口で立ち尽くしている朔へ歩み寄る。

「朔……僕は一日でも早く一人前になって、朔がこの家でもっと伸び伸びと暮らせるようにするから……」

 朔の手を取って、真剣な顔で語る望の背後には、たくさんの書物が積まれている。
 文机の上にも、書棚しょだなにも、畳の上にも、山のように――。

 こんめてそれらを読んでいたのか、顔色があまり良くない望のことが、朔は心配になる。

「望、そんなに無理しなくても……」

 しかし望はきっぱりと首を横に振り、朔の手を握る手に力を込めた。

「必ず僕が守る」
「望……」

 二人きりの貧しい生活の中でも、家事を担当して体の弱い望の世話をしている朔のほうが、一見すると彼を守っているように見えた。
 しかし実際には、双子にとって何が最善かを、常に考えて判断を下してきた望もまた、確かに朔を守ってきたのだ。

 住む場所を離され、顔をあわせることもままならない生活の中でも、お互いを思う気持ちが以前と変わっていないことを、朔は胸が熱くなるほど嬉しく思う。

「ありがとう……」

 朔も、望の手を握る手に力を込めた時、遠くから女性の悲鳴のような声が聞こえた。

「お嬢様!? 櫻子お嬢様ー!!」

「おはるだわ!」

 自分の身の回りの世話をしてくれている少女の声だと気が付き、朔は血相けっそうを変えて望の部屋を出ていく。

「ごめんね、望! また来るわね!」
「うん、また」

 望は面白そうに笑って手を振るが、朔は笑うどころの心境ではない。

(どうしよう! 踊りの先生が来るまでに着替えておかなくちゃいけないんだった……! まだ琴も片づけてない……ううん、そもそもこの格好! 勝手に部屋から出たことも、後できっとお祖母ばあ様とお志麻しまに叱られる……!)

 どれほど急いで中庭を駆けても、全てが間にあいそうにはなかった。
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