3 / 4
序
3
しおりを挟む
「やめろ」
聞きなれない、静かだが有無を言わせない迫力を感じるような声が頭上で響き、慧蓮は固く閉じていた目を恐る恐る開いてみた。
(え……?)
目に飛び込んできたのは、老人の傍に控えていた布を被った若者に、女将が腕を掴まれている光景だった。
「下働きの者を足蹴にするな」
布の下からかろうじて見える切れ長の瞳が、ちらりと慧蓮を見下ろし、次いで女将を真っ直ぐに見据える。
「あ……」
客人たちに見えないように慧蓮を蹴っていたつもりが、見透かされてしまったことが気まずかったようで、女将が取り繕うように笑う。
「あ、あら? いえいえ、私はそんなつもりは……」
執拗に鳩尾を蹴られる行為から解放され、慧蓮はほっと息を吐いた。
「大丈夫か?」
目の前にしゃがみこんだ若者に助け起こされ、慧蓮は緊張を覚えた。
それは、まともな人間として扱われたことがとても珍しい経験であったからであり、目線を合わせるように慧蓮の顔をのぞきこんだ若者が、はっとするような美貌の持ち主だったからだ。
邸の奥の小さな房室でひたすら織り機に向かう日々の中、慧蓮は商家の人間以外とはほぼ接したことがない。
ましてや、見知らぬ若い男性と言葉を交わすことなど初めてで、どうしていいのか戸惑う。
「はい、大丈夫です。ありがとうございます……」
かろうじてお礼を述べた時、若者の後ろから感嘆したような声が響いた。
「ほう、ほう、ほう……確かにこれは素晴らしい反物じゃ」
慧蓮の手から女将が取り上げた反物に、どうやら老人が目を留めたらしい。
「あっ、はい! 自慢の一品です!」
慧蓮を蹴っていたことを若者に見咎められ、気まずい思いをしていたようだった女将が、水を得た魚のように老人の言葉に飛びつく。
「ぜひお薦めいたします!」
「ふむふむ……」
女将から反物を受け取った老人が、床に座り込んだ慧蓮とその前に跪いた若者を見ながら、しきりに頷いている。
「なんとも珍しい……そうか、そうか……」
(…………?)
あまり手にした反物を見ているふうではない様子に、慧蓮は違和感を覚えたのだが、どうやら女将の目には映っていないらしい。
「そちらになさいますか? 限定のお品なので、かなり値は張りますが……」
揉み手をしながら商談に入ろうとする声に、店頭からやってきたらしい店主の声も重なる。
「なにしろ、我が家の娘が手間暇かけて織っているお品で、数を生産することがなかなか叶わず……」
「なるほど、なるほど……」
老人が、蹴られた鳩尾を手で押さえる慧蓮の様子を見て、頷いたように慧蓮には感じられた。
「では、言い値でこちらをいただくとしよう」
「「ありがとうございます!!!」」
二人一緒に頭を下げた店主夫婦に、老人は飄々とした声音で告げた。
「そちらのお嬢さんも一緒に」
「「え……?」」
店主夫婦の声がまた重なる。
老人は好々爺といったふうの笑顔で、慧蓮を見つめていた。
「私……?」
思わずこぼれ出た呟きに、老人がしっかりと頷く。
「そうじゃ。儂のところは今ちょっと人手不足でのう……若い娘の働き手が欲しいと思っておったところじゃ」
「え? いや、しかし……」
店主が困惑している。当然だ。
下働きの者を譲渡するという行為自体は珍しくもないが、慧蓮をということになると、瑶家としては簡単に首を縦に振れないだろう。
慧蓮が織る反物は、瑶家の看板商品だ。それで現在の繁栄を築いたと言っても過言ではない。
慧蓮は幼い頃に拾ってもらい、住処を与えてもらったお礼のために、これからも一生反物を織って生きていくのだと本人も思っていた。
しかし――。
「言い値で構わん。この反物と一緒にそちらのお嬢さんを、そちらの良い金額で譲り受けたい」
老人の破格の提案に、店主夫婦の声が上擦る。
「い、いくらでも?」
「そうじゃ、いくらでも」
「介斉!」
慧蓮の前に跪いていた若者が、抗議するように老人をふり返って声を上げたが、当の老人はまったく意に介さない。
「商談成立じゃな」
「それでは、詳しいお話をこちらで……」
老人と店主夫婦がいそいそと何かを相談し始めた光景を、慧蓮はまるで夢を見ているかのような気持ちでぼんやりと眺めていた。
(私……ここを出て、違う家で働くの……?)
一生この場所で奴隷のように機を織り続けるしかないはずだった慧蓮の運命が、この日の出会いによって、大きく動き出した。
聞きなれない、静かだが有無を言わせない迫力を感じるような声が頭上で響き、慧蓮は固く閉じていた目を恐る恐る開いてみた。
(え……?)
目に飛び込んできたのは、老人の傍に控えていた布を被った若者に、女将が腕を掴まれている光景だった。
「下働きの者を足蹴にするな」
布の下からかろうじて見える切れ長の瞳が、ちらりと慧蓮を見下ろし、次いで女将を真っ直ぐに見据える。
「あ……」
客人たちに見えないように慧蓮を蹴っていたつもりが、見透かされてしまったことが気まずかったようで、女将が取り繕うように笑う。
「あ、あら? いえいえ、私はそんなつもりは……」
執拗に鳩尾を蹴られる行為から解放され、慧蓮はほっと息を吐いた。
「大丈夫か?」
目の前にしゃがみこんだ若者に助け起こされ、慧蓮は緊張を覚えた。
それは、まともな人間として扱われたことがとても珍しい経験であったからであり、目線を合わせるように慧蓮の顔をのぞきこんだ若者が、はっとするような美貌の持ち主だったからだ。
邸の奥の小さな房室でひたすら織り機に向かう日々の中、慧蓮は商家の人間以外とはほぼ接したことがない。
ましてや、見知らぬ若い男性と言葉を交わすことなど初めてで、どうしていいのか戸惑う。
「はい、大丈夫です。ありがとうございます……」
かろうじてお礼を述べた時、若者の後ろから感嘆したような声が響いた。
「ほう、ほう、ほう……確かにこれは素晴らしい反物じゃ」
慧蓮の手から女将が取り上げた反物に、どうやら老人が目を留めたらしい。
「あっ、はい! 自慢の一品です!」
慧蓮を蹴っていたことを若者に見咎められ、気まずい思いをしていたようだった女将が、水を得た魚のように老人の言葉に飛びつく。
「ぜひお薦めいたします!」
「ふむふむ……」
女将から反物を受け取った老人が、床に座り込んだ慧蓮とその前に跪いた若者を見ながら、しきりに頷いている。
「なんとも珍しい……そうか、そうか……」
(…………?)
あまり手にした反物を見ているふうではない様子に、慧蓮は違和感を覚えたのだが、どうやら女将の目には映っていないらしい。
「そちらになさいますか? 限定のお品なので、かなり値は張りますが……」
揉み手をしながら商談に入ろうとする声に、店頭からやってきたらしい店主の声も重なる。
「なにしろ、我が家の娘が手間暇かけて織っているお品で、数を生産することがなかなか叶わず……」
「なるほど、なるほど……」
老人が、蹴られた鳩尾を手で押さえる慧蓮の様子を見て、頷いたように慧蓮には感じられた。
「では、言い値でこちらをいただくとしよう」
「「ありがとうございます!!!」」
二人一緒に頭を下げた店主夫婦に、老人は飄々とした声音で告げた。
「そちらのお嬢さんも一緒に」
「「え……?」」
店主夫婦の声がまた重なる。
老人は好々爺といったふうの笑顔で、慧蓮を見つめていた。
「私……?」
思わずこぼれ出た呟きに、老人がしっかりと頷く。
「そうじゃ。儂のところは今ちょっと人手不足でのう……若い娘の働き手が欲しいと思っておったところじゃ」
「え? いや、しかし……」
店主が困惑している。当然だ。
下働きの者を譲渡するという行為自体は珍しくもないが、慧蓮をということになると、瑶家としては簡単に首を縦に振れないだろう。
慧蓮が織る反物は、瑶家の看板商品だ。それで現在の繁栄を築いたと言っても過言ではない。
慧蓮は幼い頃に拾ってもらい、住処を与えてもらったお礼のために、これからも一生反物を織って生きていくのだと本人も思っていた。
しかし――。
「言い値で構わん。この反物と一緒にそちらのお嬢さんを、そちらの良い金額で譲り受けたい」
老人の破格の提案に、店主夫婦の声が上擦る。
「い、いくらでも?」
「そうじゃ、いくらでも」
「介斉!」
慧蓮の前に跪いていた若者が、抗議するように老人をふり返って声を上げたが、当の老人はまったく意に介さない。
「商談成立じゃな」
「それでは、詳しいお話をこちらで……」
老人と店主夫婦がいそいそと何かを相談し始めた光景を、慧蓮はまるで夢を見ているかのような気持ちでぼんやりと眺めていた。
(私……ここを出て、違う家で働くの……?)
一生この場所で奴隷のように機を織り続けるしかないはずだった慧蓮の運命が、この日の出会いによって、大きく動き出した。
0
あなたにおすすめの小説
狼隊長さんは、私のやわはだのトリコになりました。
汐瀬うに
恋愛
目が覚めたら、そこは獣人たちの国だった。
元看護師の百合は、この世界では珍しい“ヒト”として、狐の婆さんが仕切る風呂屋で働くことになる。
与えられた仕事は、獣人のお客を湯に通し、その体を洗ってもてなすこと。
本来ならこの先にあるはずの行為まで求められてもおかしくないのに、百合の素肌で背中を撫でられた獣人たちは、皆ふわふわの毛皮を揺らして眠りに落ちてしまうのだった。
人間の肌は、獣人にとって子犬の毛並みのようなもの――そう気づいた時には、百合は「眠りを売る“やわはだ嬢”」として静かな人気者になっていた。
そんな百合の元へある日、一つの依頼が舞い込む。
「眠れない狼隊長を、あんたの手で眠らせてやってほしい」
戦場の静けさに怯え、目を閉じれば仲間の最期がよみがえる狼隊長ライガ。
誰よりも強くあろうとする男の震えに触れた百合は、自分もまた失った人を忘れられずにいることを思い出す。
やわらかな人肌と、眠れない心。
静けさを怖がるふたりが、湯気の向こうで少しずつ寄り添っていく、獣人×ヒトの異世界恋愛譚。
[こちらは以前あげていた「やわはだの、お風呂やさん」の改稿ver.になります]
一条さん結婚したんですか⁉︎
あさとよる
恋愛
みんなの憧れハイスペックエリートサラリーマン『一条 美郷(※超イケメン)』が、結婚してしまった⁉︎
嫁ラブの旦那様と毒舌地味嫁(花ちゃん)....とっ!その他大勢でお送りしますっ♡
((残念なイケメンの一途過ぎる溺愛♡))のはじまりはじまり〜
⭐︎本編は完結しております⭐︎
⭐︎番外編更新中⭐︎
ヤンデレ王子を闇落ちから救ったら愛執まみれの独占欲に囚われました
大江戸ウメコ
恋愛
幼い頃に精霊の祝福である未来視の力が開花し、「夫である第二王子ナハルドに殺される」という己の運命を知った伯爵令嬢ツィーラ。この悲惨な未来を変えるべく、ツィーラは彼を避けようとしたが、ひょんなことから婚約者に選ばれてしまった! ならば、ナハルドが将来闇落ちしないよう、側で彼を支えることを決意する。そんな努力の甲斐あって、ツィーラへの好意を隠さず伝えてくるほど、ナハルドとの関係は良好になった。だけど、彼の並々ならぬ執着心のすべてを、ツィーラはまだ知らなくて――
溺愛王子の甘すぎる花嫁~悪役令嬢を追放したら、毎日が新婚初夜になりました~
紅葉山参
恋愛
侯爵令嬢リーシャは、婚約者である第一王子ビヨンド様との結婚を心から待ち望んでいた。けれど、その幸福な未来を妬む者もいた。それが、リーシャの控えめな立場を馬鹿にし、王子を我が物にしようと画策した悪役令嬢ユーリーだった。
ある夜会で、ユーリーはビヨンド様の気を引こうと、リーシャを罠にかける。しかし、あなたの王子は、そんなつまらない小細工に騙されるほど愚かではなかった。愛するリーシャを信じ、王子はユーリーを即座に糾弾し、国外追放という厳しい処分を下す。
邪魔者が消え去った後、リーシャとビヨンド様の甘美な新婚生活が始まる。彼は、人前では厳格な王子として振る舞うけれど、私と二人きりになると、とろけるような甘さでリーシャを愛し尽くしてくれるの。
「私の可愛い妻よ、きみなしの人生なんて考えられない」
そう囁くビヨンド様に、私リーシャもまた、心も身体も預けてしまう。これは、障害が取り除かれたことで、むしろ加速度的に深まる、世界一甘くて幸せな夫婦の溺愛物語。新婚の王子妃として、私は彼の、そして王国の「最愛」として、毎日を幸福に満たされて生きていきます。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
大金で買われた少女、狂愛の王子の檻で宝石になる ―無自覚な天才調合師は第二王子の婚約者(虫除け)を演じることになりました―
甘塩ます☆
恋愛
「君を金貨三十枚で買ったのは、安すぎたかな」
酒浸りの父と病弱な母に売られた少女・ユナを救ったのは、国中から「放蕩王子」と蔑まれる第二王子・エルフレードだった。
「虫除けの婚約者になってほしい」というエルの言葉を受け、彼の別邸で暮らすことになったユナ。しかし、彼女には無自覚の天才調合師だった。
ユナがその才能を現すたび、エルの瞳は暗く濁り、独占欲を剥き出しにしていく。
「誰にも見せないで。君の価値に、世界が気づいてしまうから」
これは、あまりに純粋な天才少女と、彼女を救うふりをして世界から隠し、自分の檻に閉じ込めようとする「猛禽」な王子の物語。
なぜ私?スパダリCEOに捕獲され推しの秘書になりました
あいすらん
恋愛
落ち込んでいた私が見つけた最高の趣味。
それは完璧スパダリCEOの「声」を集めること。
動画サイトで最高のイケボを見つけた私、倉田ひかりは、声を録音するためだけに烏丸商事の会社説明会へ。
失業中の元ピアノ講師には、お金のかからない最高のレクリエーションだったのに。
「君、採用」
え、なんで!?
そんなつもりじゃなかったと逃げ出したのに、運命は再び私と彼を引き合わせる。
気づけば私は、推しの秘書に。
時短の鬼CEO×寄り道大好き迷子女。
正反対な2人が繰り広げる、イケボに溺れるドタバタラブコメ!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる