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第二章
第三話 場違いなる武人
しおりを挟む「キーンコーン、カーンコーン。」
再びチャイムが鳴り、ざわついていた教室は水面に波紋が広がるように揺れ、重苦しい空気は一時だけ和らいだ。
彩音が身を寄せ、小声で囁く。
「惠美……本当に大丈夫? 無理してない?」
その瞳は不安と怯えを孕み、まるで触れてはいけない傷に触れぬような慎重さだった。
惠美は手にしていたペンを置き、表情ひとつ変えずに答える。
「廡傍。」
声音は静かでありながら、大地に重剣を突き立てるような確かさを秘めていた。
彩音は唇を震わせ、言いかけては飲み込み、うつむきながら細い声でつぶやいた。
「……ごめん。」
惠美はわずかに首を傾け、眉を寄せる。
「何故、謝る?」
彩音の指はスカートの裾をきつく握り、肩が小さく震えていた。視線は教科書に落ち、顔を上げられない。
「……さっき、私……何もできなかった。いつも彼女たちにパシリにされても、逆らえないし……惠美のこと悪く言われても……私、何も……」
声は詰まり、言葉は途中で途切れた。
その刹那、李守義の胸奥は、ぐっと強く締め付けられた。
彼は悟った――この少女は、己が留守にしていた間、幾度となく嘲笑や侮辱を受け、その痛みを肩代わりしてきたのだと。
「……なるほど。」
胸中で低く嘆息する。
「この柔弱なる少女もまた、修羅場に立ち、独り苦戦していたか。」
その姿は、かつての戦友を想わせた。弱くとも背を向けず、隣に立ち続ける者。
惠美は瞼を伏せ、静かに言葉を落とす。
「そうか……お前もまた、この修羅に抗っていたのだな。」
短い沈黙。やがて彼女は首を振り、思考を振り払った。
「……だが、今は別の戦がある。」
真剣な光を宿した瞳で告げる。
「次に待つは――英語の授業だ。」
「ぷっ……」
彩音は一瞬きょとんとしたが、すぐに噴き出しそうになった。
「なにそれ……! 急に真顔で言わないでよ……」
だが、李守義にとっては切実《せつじつ》であった。
「此世の言語には、既に慣れつつある。」
胸奥で思索する。
「されど更に西洋文を課されるは、まさに臨戦にて鎧を着替うが如し。真の苦戦、ここに在り。」
脳裏を過る「中二病」という奇妙な語。
「もし字母すら読めず醜態を晒せば……笑止千万。」
彩音は苦笑しながら、小声で囁いた。
「大丈夫だよ。先生だって、毎回ぜんぶ当てるわけじゃないし……たぶん?」
彼女の声は、からかい混じりでも優しく、どこか必死に友を気遣う響きがあった。
惠美は長く息を吐いた。
「……願わくば。」
「Good morning,!」
金髪碧眼の外国人教師が、勢いよく教室へ入ってきた。
ジャケットを片腕に掛け、開いたシャツの隙間から喉仏が覗く。白い歯を見せ、両手を軽快に叩いた。
「Today, let’s practice reading!」
その碧眼が生徒たちを見渡し――ある一点で止まる。
「Oh! Takahashi! Long time no see! Welcome back, we missed you!」
「っ……」
惠美の全身が硬直する。しかし身体は本能のまま立ち上がっていた。
背筋を伸ばし、声を張る。
「Yes, teacher!」
数十の視線が一斉に注がれる。
彼女にとってアルファベットは敵陣の陣形図。
呼吸を整え、喉を震わせる。
「This… is… a… pen.」
一瞬の沈黙。
そして――爆笑が教室を揺るがす。
「ぎゃはは! 何それ!」
「重っ! 誰もそんな言い方しないし!」
「怪物女、やっぱ中二だわ!」
だが惠美は動じず、顎を上げ、堂々と続けた。
「兵者に必備の器、これ『pen』なり! 小なれど、剣に等しき刃なり!」
「腹痛ぇ!」
「マジウケる!」
教師も目を丸くし、両手を広げて苦笑した。
「Well… interesting interpretation, Takahashi. But let’s keep it simple, okay?」
惠美は拳を胸に当て、厳粛に頷く。
「……謹んで承け賜る。」
笑いが続くなか、彩音は机に突っ伏し、肩を震わせていた。
「ごめ……もう無理……」
涙を浮かべながら小声で謝る。
惠美は眉をひそめる。
「……何が可笑しい。」
彩音は慌てて首を振るが、その瞳には複雑な色が宿っていた。
「……惠美。今日のあんた、やっぱり……前と違う。」
李守義は胸奥で低く嘆息した。
「往昔の高橋は、かくも脆弱にして卑下の徒なりしか……。」
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