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第三章
第一話 放課後のふたつの世界
しおりを挟む夕陽が校舎の窓を朱に染め、アスファルトの道に長い影を落とす。
放課後のチャイムがまだ消えぬうちに、校門前は笑い声と話し声で満ちていた。
群れをなして歩く生徒たちは、まるで放たれた鳥の群れのように、思い思いの方向へと羽ばたいていく。
その流れの中、彩音は鞄を胸に抱きしめ、惠美の隣を静かに歩いていた。
小柄な肩を少しすくめ、視線を伏せたまま――それでも、隣の友を気にしてちらりと横を見る。
「……ふう。」
小さく息をついたその声音は、まるで、一日の戦いをようやく終えた兵士のように。
「今日も……なんとか、終わったね。」
そして勇気を振り絞るように、惠美へと顔を向ける。
「惠美、こんなに久しぶりに学校来て……大丈夫?」
惠美はまっすぐな姿勢で歩き続けた。
その歩みには迷いがなく、まるで行軍の兵のように整っていた。
「疲労など、我には届かぬ。」
短く放たれたその言葉に、彩音は思わず立ち止まる。
「……届かぬって、なにそれ。」
笑うような声を出しながらも、彼女の胸にはわずかな不安が広がっていた。
惠美の視線は夕焼けの彼方に向けられている。
「むしろ……面白きこと、多し。」
「え、面白い?」
彩音はぽかんと口を開ける。
どうして、あの修羅場のような一日を“面白い”だなんて――。
惠美は小さく頷き、柔らかな声で続けた。
「一授業は一国のごとし。
数学は数理が絡み合う陣図。
国語は文字の奔流が織り成す大海。
そして西洋文――敵国の暗号。
難解なれど、奥深き趣あり。」
その語り口はまるで、久々に戦場を分析する将のようだった。
彩音はただ呆然としながら、隣を見上げた。
「……じ、陣図? 暗号? もう、意味わかんないってば……。」
けれど、不思議とその声音は耳に心地よく、彼女の中で小さな憧れを灯した。
「惠美……なんか今日、やっぱ変だよ。」
惠美は横顔のまま、ゆるやかに笑う。
「変か? ふふ……そうかもしれぬな。」
その笑みは、どこか達観したようで――どこまでも遠く感じられた。
夕陽が二人の影を長く伸ばす。
一つは細く、かすかに揺れ。もう一つは剣のように真っ直ぐに地を割く。
彼女たちは同じ道を歩いていた。
けれど、その心が向かう先は、まるで違う世界。
一人は日常にしがみつき、もう一人はその日常を「修羅場」と呼んで歩いていた。
彩音は唇を噛みしめ、鞄の紐をぎゅっと握る。
「……ねえ、惠美――」
声をかけようとしたその瞬間、胸の奥がひどくざわめいた。
――もし、今声を掛けたら。
彼女はもっと遠くへ行ってしまう気がした。
そのとき。
惠美がふと立ち止まり、振り返る。
柔らかな微笑みが、沈む光の中でひときわ鮮やかだった。
「……また明日。」
彩音は一瞬呆けて、それから慌てて頷いた。
「う、うん! また明日!」
そして気づく。
目の前の分かれ道――自分の家は左、惠美の家は右。
歩き出しかけた恵美が、ふと足を止める。
その瞳には、揺るぎない意志が宿っていた。
「明日も――必ず、来る。」
その声は穏やかだったが、まるで夕陽の地平に掲げられた旗印のように、強く、まっすぐに響いた。
彩音は小さく息を呑み、遠ざかる背を見つめた。
その姿は光の中に溶けていく。
「……隣にいるのに。なんでだろ。どんどん、もう私の届かないところに行っちゃいそう。」
風が吹き抜け、二人の影を一瞬だけ重ね、そしてまた――別々の方向へと引き離していった。
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