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第六章
第四話 弱虫の覚悟
しおりを挟む夜の空気が張りつめていた。
誰も、動けなかった。
そして――闇を裂くように、その声が響いた。
「……やめて!! もうやめて!!」
――彩音だった。
街灯の下、彼女は欄干の影から飛び出した。
小柄な身体が、惠美と三人の男の間にすっと割り込む。
その姿は、まるで暴風の中心に立つ一本の旗。
風に揺れる細い肩、それでも足は一歩も退かなかった。
息は荒く、胸が上下している。
それでも、その瞳だけは真っすぐだった。
「彩音!?」
後方の柵の陰から、綾香と里奈の悲鳴のような声が重なる。
「バカ! 戻って!!」
彩音は応えなかった。
背中のリュックを乱暴に開け――銀色の光が、闇の中で閃く。
「――っ!」
それは小さなカッターナイフだった。
パチン、と刃が弾けて出る音が夜気を裂く。
街灯の明かりを受けて、細い刃が光る。
それを握る手は震えていた。
けれど、彼女はそのまま、一歩前へ出た。
「……もう、やめて。」
掠れた小さな声。
けれどその一言が、誰よりも強く響いた。
「これ以上、彼女に手を出したら――」
指先が白くなるほど刃を握りしめ、
彩音は男たちをまっすぐに睨みつける。
「――殺す!!」
風が止まる。
世界が息を呑んだ。
彼女は泣いていた。
けれど、その涙は逃げるためのものではない。
恐怖の中で――初めて、立ち向かうための涙だった。
「……彼女を傷つけたら、あたしは絶ッ対許さない。たとえ何があっても!!」
叫びながら、彩音はナイフを振り上げた。
その刃先が震え、月光を反射する。
声が、夜を震わせる。
一瞬、男たちの顔色が引きつる。
誰もが、その小さな刃の光に息を呑んだ。
「……は? ガキが何してんだよ。」
その時、暗がりの柵の向こうから足音がした。
「――やめな。」
鋭い声が静寂を裂く。
綾香だった。
「もういい。これ以上やったら、マジで面倒なことになるから。」
背後で、惠美が静かに息を吐いた。
圧さえつけていた龍也の腕を放し、ゆっくりと立ち上がる。
空気が、ゆっくりと緩み始めた。
圧迫していた緊張が、ようやく剥がれ落ちる。
龍也たちが一瞬だけ反発するように顔をしかめたが、
綾香の冷えた眼差しに、息を飲んだ。
「……チッ。」
「あぁ――ほんっと、つまんない。」
綾香はそう呟くと、里奈を横目で見やる。
里奈はスマホをポケットに押し込み、唇を尖らせる。
「えー、もう終わり? 」
「つまんないから、もう帰る。」
「覚えてろよ。」
その捨て台詞だけが、夜の湿った空気に沈み、やがて消えた。
残されたのは、静寂だけ。
遠ざかる足音が細く響き、風がようやく木々のあいだから抜けていく。
冷たかった空気が、少しだけやわらいだ。
彩音はなおナイフを握りしめたまま、肩で息をしていた。
震える手に力がこもりすぎて、刃がかすかに揺れる。
「……彩音。」
惠美がそっと呼びかけ、彼女のそばへ歩み寄る。
そして、ゆっくりとその手に触れた。
「もういい。」
その声は、驚くほど優しかった。
惠美の指が、彩音の指に重なり、握りしめたナイフを静かに下ろさせる。
抵抗の力が抜け、金属の冷たさが掌から離れていった。
「……ありがとう。」
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
嗚咽が言葉にならない。
「わたしが……わたし、せいで……全部……!」
惠美は静かに彼女を抱き寄せ、
小さく首を振る。
「いいや――あなたは、守った。」
彩音の肩が小さく震える。
惠美はその背にそっと手を添えた。
言葉よりも先に、温もりだけが伝わっていく。
「自分の足で立てた。それだけで、もう……立派な勇者だ。」
街灯が灯る。
夜空は群青に沈み、二人の影が長く伸びて重なった。
冷たい風が過ぎ、泣き声も次第に遠ざかっていく。
小さなカッターナイフがベンチの下で転がり、
微かな光を反射した。
惠美は立ち上がり、涙で濡れた彩音の手を引く。
「もう大丈夫だから……帰ろう。」
「うん……」
二人は並んで歩き出す。
街灯の下、交わる影が静かに遠ざかっていった。
その夜、弱虫は――勇者になった。
そして、戦いはまだ終わらない。
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