武徳JK ~山川異域、風月同天!

盛桃李もりももり

文字の大きさ
22 / 37
第七章

第一話 帰ってきた書生

しおりを挟む

 雨上がりの夜。
 しっとりとした湿気が、街の隅々にまで残り、
 どこか、呼吸までも湿らせていた。

 玄関の灯をつけた瞬間、見慣れない靴が目に入った。
 黒い革靴――長い旅の埃をまとい、玄関の隅で静かに息をしているようだった。

 リビングの奥から、紙をめくる微かな音が聞こえる。
 柔らかな橙の灯りの中、白いシャツの袖をまくった眼鏡の男が、
 分厚い原稿の束を前に、静かにペンを走らせていた。
 
「……惠美、か。」

 男――高橋誠一たかはしせいいちが顔を上げ、微笑む。
 その声は静かで優しいが、どこかぎこちない。
 まるで、久しぶりに使う言葉を思い出しているようだった。

 惠美は立ち尽くしたまま、しばしその姿を見つめる。
 記憶の奥から、いくつもの声が甦る。

 ――「そんなもん書いて何になるの?」
 ――「編集者のくせに、自分の原稿なんて誰が読むの?」
 ――「ほんと、どうしようもないわ。」

 その記憶の刃が、胸の奥を静かに切り裂いた。
 思わず、肩がわずかにこわばった。

(この人が……原主の父親。高橋誠一。)
 李守義りしゅぎの思考が、彼女の内側で静かに響く。
「筆を執りて戦う者 ――これもまた、一つのいくさなり。」

 惠美はそっと息を整え、静かに口を開いた。

「……おかえりなさい。お父さん。」

 誠一の手が止まる。
 原稿の角をつまんだまま、動かない。
 数秒の沈黙のあと、彼は驚いたように目を瞬かせた。

「……ああ、ただいま。」

 小さな笑みが滲む。
 その声には、ほんの少し震えがあった。

 ちょうどその時、玄関の鍵が回る音。
 貴子たかこがヒールの音を響かせて入ってきた。
 肩に掛けたジャケットを手に、濡れた髪を整えながら、軽くため息をつく。
 一日分の疲れが、そのまま仕草に滲んでいた。

「あなた……帰ってきて早々、それ?」
 濡れた髪を払いながら、視線が原稿の山を刺す。
「また原稿? そんなの、誰も読まないってば。」

 その一言で、部屋の温度がわずかに下がる。

 誠一は苦笑し、手元の原稿を整えた。
「いや、ちょっとだけ……思いついたことがあって。
 忘れないうちに書き留めておこうと思って……」

「あっそう。」
 
 惠美は黙って二人を見ていた。
 沈黙の中に、どこか寂しさが滲む。

 李守義りしゅぎの声が再び、心の底で囁く。
「戦場では、剣を抜く者に必ず戦友がいた。
 だがこの男は――ただ一人、静かな戦場で筆を振るっている。」

 惠美は小さく息を吸い、慎重に言葉を選んだ。

「……お父さん、その原稿……何を書いてるの?」

「え?」
 誠一が驚いたように目を上げる。
 娘からそんな問いを受けたのは、いつ以来だろう。
「ああ、これはね……地方の取材記述なんだ。
 戦後の歴史を記録してきた人たちの話。
 たぶん地味だけど、どうしても残しておきたくて。」

「戦後を、記録……」
 惠美は静かに呟く。
 脳裏に、前世の戦場の光景がかすめた。
 あの血と煙の中でも、誰かが筆を取り、歴史を刻んでいた。

「……大切なことだと思います。」

 その言葉は短く、けれど真っすぐだった。

 誠一は息を呑み、眼鏡の奥で目を細めた。
「……ありがとう。」

 掠れた声が、やけに優しく響く。

 貴子は台所の入口で立ち止まり、二人をちらりと見る。
「……そんな暇があるなら、少しは家計のことも考えて。」

 再び、沈黙。

 惠美は静かに父を見た。
 誠一もまた、微笑みながら、何かを言いかけてやめた。
 けれど、その目の奥には、確かに灯りがあった。

 橙の灯りの下で、二人の影がゆっくりと重なっていく。
 長く閉ざされていた扉の隙間から、
 ようやく、一筋のあたたかな風が――そっと、家の中へ流れ込んだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

異世界転生した女子高校生は辺境伯令嬢になりましたが

ファンタジー
車に轢かれそうだった少女を庇って死んだ女性主人公、優華は異世界の辺境伯の三女、ミュカナとして転生する。ミュカナはこのスキルや魔法、剣のありふれた異世界で多くの仲間と出会う。そんなミュカナの異世界生活はどうなるのか。

最強令嬢とは、1%のひらめきと99%の努力である

megane-san
ファンタジー
私クロエは、生まれてすぐに傷を負った母に抱かれてブラウン辺境伯城に転移しましたが、母はそのまま亡くなり、辺境伯夫妻の養子として育てていただきました。3歳になる頃には闇と光魔法を発現し、さらに暗黒魔法と膨大な魔力まで持っている事が分かりました。そしてなんと私、前世の記憶まで思い出し、前世の知識で辺境伯領はかなり大儲けしてしまいました。私の力は陰謀を企てる者達に狙われましたが、必〇仕事人バリの方々のおかげで悪者は一層され、無事に修行を共にした兄弟子と婚姻することが出来ました。……が、なんと私、魔王に任命されてしまい……。そんな波乱万丈に日々を送る私のお話です。

第5皇子に転生した俺は前世の医学と知識や魔法を使い世界を変える。

黒ハット
ファンタジー
 前世は予防医学の専門の医者が飛行機事故で結婚したばかりの妻と亡くなり異世界の帝国の皇帝の5番目の子供に転生する。子供の生存率50%という文明の遅れた世界に転生した主人公が前世の知識と魔法を使い乱世の世界を戦いながら前世の奥さんと巡り合い世界を変えて行く。  

勇者の様子がおかしい

しばたろう
ファンタジー
勇者は、少しおかしい。 そう思ったのは、王宮で出会ったその日からだった。 神に選ばれ、魔王討伐の旅に出た勇者マルク。 線の細い優男で、実力は確かだが、人と距離を取り、馴れ合いを嫌う奇妙な男。 だが、ある夜。 仲間のひとりは、決定的な違和感に気づいてしまう。 ――勇者は、男ではなかった。 女であることを隠し、勇者として剣を振るうマルク。 そして、その秘密を知りながら「知らないふり」を選んだ仲間。 正体を隠す者と、真実を抱え込む者。 交わらぬはずの想いを抱えたまま、旅は続いていく。 これは、 「勇者であること」と 「自分であること」のあいだで揺れる物語。

醜悪令息レオンの婚約

オータム
ファンタジー
醜悪な外見ゆえに誰からも恐れられ、避けられてきたレオン。 ある日、彼は自分が前世で遊んでいたシミュレーションRPGの世界に転生しており、 しかも“破滅が確定している悪役令嬢の弟”として生きていることに気付く。 このままでは、姉が理不尽な運命に呑まれてしまう。 怪しまれ、言葉を信じてもらえなくとも、レオンはただ一人、未来を変えるために立ち上がる――。 ※「小説家になろう」「カクヨム」にも投稿しています。

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

追放された味噌カス第7王子の異種族たちと,のんびり辺境地開発

ハーフのクロエ
ファンタジー
 アテナ王国の末っ子の第7王子に産まれたルーファスは魔力が0で無能者と言われ、大陸の妖精族や亜人やモンスターの多い大陸から離れた無人島に追放される。だが前世は万能スキル持ちで魔王を倒し英雄と呼ばれていたのを隠し生まれ変わってスローライフを送る為に無能者を装っていたのだ。そんなルーファスはスローライフを送るつもりが、無人島には人間族以外の種族の独自に進化した先住民がおり、周りの人たちが勝手に動いて気が付けば豊かで平和な強国を起こしていく物語です。

出来損ない貴族の三男は、謎スキル【サブスク】で世界最強へと成り上がる〜今日も僕は、無能を演じながら能力を徴収する〜

シマセイ
ファンタジー
実力至上主義の貴族家に転生したものの、何の才能も持たない三男のルキウスは、「出来損ない」として優秀な兄たちから虐げられる日々を送っていた。 起死回生を願った五歳の「スキルの儀」で彼が授かったのは、【サブスクリプション】という誰も聞いたことのない謎のスキル。 その結果、彼の立場はさらに悪化。完全な「クズ」の烙印を押され、家族から存在しない者として扱われるようになってしまう。 絶望の淵で彼に寄り添うのは、心優しき専属メイドただ一人。 役立たずと蔑まれたこの謎のスキルが、やがて少年の運命を、そして世界を静かに揺るがしていくことを、まだ誰も知らない。

処理中です...