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第七章
第一話 帰ってきた書生
しおりを挟む雨上がりの夜。
しっとりとした湿気が、街の隅々にまで残り、
どこか、呼吸までも湿らせていた。
玄関の灯をつけた瞬間、見慣れない靴が目に入った。
黒い革靴――長い旅の埃をまとい、玄関の隅で静かに息をしているようだった。
リビングの奥から、紙をめくる微かな音が聞こえる。
柔らかな橙の灯りの中、白いシャツの袖をまくった眼鏡の男が、
分厚い原稿の束を前に、静かにペンを走らせていた。
「……惠美、か。」
男――高橋誠一が顔を上げ、微笑む。
その声は静かで優しいが、どこかぎこちない。
まるで、久しぶりに使う言葉を思い出しているようだった。
惠美は立ち尽くしたまま、しばしその姿を見つめる。
記憶の奥から、いくつもの声が甦る。
――「そんなもん書いて何になるの?」
――「編集者のくせに、自分の原稿なんて誰が読むの?」
――「ほんと、どうしようもないわ。」
その記憶の刃が、胸の奥を静かに切り裂いた。
思わず、肩がわずかにこわばった。
(この人が……原主の父親。高橋誠一。)
李守義の思考が、彼女の内側で静かに響く。
「筆を執りて戦う者 ――これもまた、一つの戦なり。」
惠美はそっと息を整え、静かに口を開いた。
「……おかえりなさい。お父さん。」
誠一の手が止まる。
原稿の角をつまんだまま、動かない。
数秒の沈黙のあと、彼は驚いたように目を瞬かせた。
「……ああ、ただいま。」
小さな笑みが滲む。
その声には、ほんの少し震えがあった。
ちょうどその時、玄関の鍵が回る音。
貴子がヒールの音を響かせて入ってきた。
肩に掛けたジャケットを手に、濡れた髪を整えながら、軽くため息をつく。
一日分の疲れが、そのまま仕草に滲んでいた。
「あなた……帰ってきて早々、それ?」
濡れた髪を払いながら、視線が原稿の山を刺す。
「また原稿? そんなの、誰も読まないってば。」
その一言で、部屋の温度がわずかに下がる。
誠一は苦笑し、手元の原稿を整えた。
「いや、ちょっとだけ……思いついたことがあって。
忘れないうちに書き留めておこうと思って……」
「あっそう。」
惠美は黙って二人を見ていた。
沈黙の中に、どこか寂しさが滲む。
李守義の声が再び、心の底で囁く。
「戦場では、剣を抜く者に必ず戦友がいた。
だがこの男は――ただ一人、静かな戦場で筆を振るっている。」
惠美は小さく息を吸い、慎重に言葉を選んだ。
「……お父さん、その原稿……何を書いてるの?」
「え?」
誠一が驚いたように目を上げる。
娘からそんな問いを受けたのは、いつ以来だろう。
「ああ、これはね……地方の取材記述なんだ。
戦後の歴史を記録してきた人たちの話。
たぶん地味だけど、どうしても残しておきたくて。」
「戦後を、記録……」
惠美は静かに呟く。
脳裏に、前世の戦場の光景がかすめた。
あの血と煙の中でも、誰かが筆を取り、歴史を刻んでいた。
「……大切なことだと思います。」
その言葉は短く、けれど真っすぐだった。
誠一は息を呑み、眼鏡の奥で目を細めた。
「……ありがとう。」
掠れた声が、やけに優しく響く。
貴子は台所の入口で立ち止まり、二人をちらりと見る。
「……そんな暇があるなら、少しは家計のことも考えて。」
再び、沈黙。
惠美は静かに父を見た。
誠一もまた、微笑みながら、何かを言いかけてやめた。
けれど、その目の奥には、確かに灯りがあった。
橙の灯りの下で、二人の影がゆっくりと重なっていく。
長く閉ざされていた扉の隙間から、
ようやく、一筋のあたたかな風が――そっと、家の中へ流れ込んだ。
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