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第一話 聴蝶
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上海の秋の夕暮れ。
街の突き当たりにある静かなカフェの窓辺には、
柔らかな灯りが揺れていた。
ランプの光がガラスを透けて歩道にこぼれ、
まるで古い日記のページをめくるように、淡い影を落としている。
安倍真言は木のドアを押し、
漂うコーヒーと古い家具の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
少し緊張しながらも、どこか懐かしい期待が胸の奥で膨らむ。
──何年ぶりだろう、林莉莉に会うのは。
「真言!」
澄んだ声が、店の奥から弾んだ。
声の方を向くと、懐かしい笑顔がそこにあった。
リリィは相変わらずきりっとしていて、黒髪をゆるく束ね、
濃紺のジャケットを着こなし、明るい瞳には一点の曇りもない。
「久しぶり。」
「久しぶりだね。」
二人の声が重なり、小さく笑い合う。
店員がコーヒーを二杯運んできた。
湯気がカップの縁でゆらめき、
沈黙のあいだに空気がゆっくりとやわらいでいく。
長い時間離れていたはずなのに、
まるで途切れた旋律が自然に繋がったような感覚だった。
リリィは頬杖をつきながら、くすっと笑う。
「まさかベストセラー作家になるなんてね。
日本で出した本、すごく売れてるって聞いたわ。」
「運が良かっただけさ。」
真言は苦笑してカップを傾ける。
「正直、今はもうネタ切れだ。
日本の怪談や都市伝説もいろいろ書いたけど、
結局“自分の国の話”の枠を出られない。
狭いんだ、世界が。
──本当の志怪って、国を越えて、人間そのものを映すものだろ?」
「あなたらしいわ。昔から理屈っぽいところは変わらない。」
軽くため息をつきながら、少し寂しげに笑う。
「でもわかる気がする。
私も今は編集の仕事をしてるけど、夢とは程遠いの。
毎日、ネット小説の原稿ばかり読んでるわ。
三百字で足りることを三千字に引き延ばして──
“水”ばかりで、心なんてどこにもないのよ。」
リリィは肩をすくめて続けた。
「今の作家たちは“アルゴリズム”に支配されてる。
数字のために物語を書いてるの。
そこに魂なんて、もう残ってないわ。」
真言は笑いながらもうなずく。
「日本も同じさ。
驚かせるためだけの“ドンデン返し”、
話題作りのためにキャラを殺す。
でも本来、物語ってもっと“生きること”に近いはずだ。
見たこと、感じたこと、痛んだことを、
そのまま残すのが作家の役目だと思う。」
彼の言葉に、リリィの表情がやわらぐ。
「……大学の頃を思い出すわね。」
「うん。あの頃、よく図書館で変な本ばかり探してた。」
「地方志とか、古い怪談の切り抜きとか?」
「そう。それを宝探しみたいに集めて、夜遅くまで語り合ってた。
あの頃は、本当に“物語”が生きてたよな。」
ふたりはしばらく笑い合ったが、
リリィがカップをそっと置いたとき、
その笑みはどこか遠くへ行くように静まった。
「……ねえ、せっかくだし、久しぶりにひとつ話してあげる。」
「話?」
「ええ。題名は──聴蝶。 」
リリィの声が少し低くなり、
カフェの灯りがその言葉に呼応するように、かすかに揺れた。
「夜になると現れるの。
羽が、耳みたいに大きい蝶《チョウ》。」
「……蝶?」
「そう。
それが人のそばにとまるとね、
その人の“言い訳”を聞き取って、真実をねじ曲げる。
必死に弁明すればするほど、誰にも信じてもらえなくなるの。」
カップの中の影が震えた。
天井のランプがひときわ明るく瞬き、
まるでどこかで蝶の羽が音もなく打たれたように感じた。
「……面白い話だね。」
「でしょ?
この国にはね、聴蝶《チョウチョウ》の伝説が、思っているよりずっと多いの。」
一九七〇年代のことだった。
山に抱かれ、川に面した小さな村。
鶏の鳴き声と蛙の合唱が混ざり合い、
人々の暮らしは、まるで眠っているように静かに続いていた。
だが、あの夏の夜。
その村の時間は、確かに狂い始めた。
村に一人だけ、街の高校に合格した青年がいた。
名前は李明。
貧しい村にとって、彼はまさに“村の希望”だった。
夏休みのある晩、
一人の少女が彼を川辺に呼び出した。
月の下、震える声でこう言った。
「あなたと一緒に、街へ行きたいの。」
李明は優しく笑い、けれど首を横に振った。
「今は勉強しかない。恋は……後にしよう。」
そう言い残し、
彼は川沿いの道を一人歩き出した。
風は湿り、蛙が鳴き、
川面には月が滲んでいた。
──その時だった。
水面が、ぼうっと光を放った。
最初は月の反射かと思った。
けれど、それは生きていた。
大きな蝶。
掌よりも大きく、羽は人の耳のように薄く透き通っている。
血のように赤い筋が光り、
美しいのに、ぞっとするほど不気味だった。
蝶はゆっくりと羽ばたいた。
風が止み、音が消える。
まるで世界の音量を誰かが切ったように。
李明はただ見つめていた。
蝶の複眼は、人間の目のように彼を見据えている。
冷たく、静かで、どこか嘲《あざけ》るように。
蝶は彼の指先に舞い降りた。
羽が、音もなく開く。
──聞いている。
そう感じた。
その瞬間、彼は確かに感じた。
何かが、自分の内側から抜けていくのを。
声にならない“言葉”が、吸い取られていく感覚を。
翌朝、村は騒然となった。
泣き叫ぶ少女。
「李明が私にひどいことをした!」
村長が怒鳴り、村人たちは家を囲んだ。
李明は必死に叫んだ。
「違う! 俺は何もしていない! ただ……あの夜、蝶を見たんだ!」
だがその瞬間、村人たちは一斉に笑った。
「蝶? 夢でも見たか!」
「恥を隠すために怪談を作るとは!」
──誰も信じなかった。
その日、李明は高校を除籍され、
“村の希望”は一夜にして“狂人《きょうじん》”となった。
それから幾十年、彼は村を出なかった。
結婚もせず、家族も持たず、
村の入り口にある古い家で、一人静かに暮らした。
昼は黙々と畑を耕し、
夜になると机に向かい、訴状を書いた。
誰も読まない役所宛ての手紙……
そしてもう一つ、
彼がやめなかったのは、“蝶”を探すことだった。
「蝶を捕まえたら、俺の清白を証明できる。」
やがて村人たちは彼を笑い者にした。
“蝶を追う狂人”と呼ばれ、子供たちは石を投げた。
それでも李明は筆を止めなかった。
机の上には、紙の山。
そこに描かれていたのは、耳の形をした無数の蝶の羽だった。
ある晩、李明は杖を手に取り、
ゆっくりと川へ向かった。
誰にも気づかれぬまま、夜の闇に溶けていった。
翌朝、村人たちは川岸で紙束を見つけた。
濡れた紙には、滲んだインクで無数の蝶が描かれていた。
その羽はどれも、人の耳の形をしていたという。
それ以来、村にはこんな噂が流れるようになった。
──夜の川辺で“蝶”の羽音を聞いた者は、
二度と自分の声で話せなくなる。
聴蝶は、人の弁明を喰らう蝶。
それに触れた者の真実は、すべて“噂”へと変わる。
噂に呑まれた人間の声は、
永遠に誰にも届かなくなるのだと。
──リリィの声が止むと、
カフェの中は水を打ったように静まり返った。
コーヒーは冷め、カップの縁の水滴も消えている。
安倍真言は、しばらく何も言わずにカップの取っ手を撫でていた。
リリィの話の余韻が、まだ胸の奥に残っている。
窓の外で、黒い蛾が一匹、ガラスにぶつかった。
その影が一瞬、蝶のように見えた。
「……これは、ただの始まりよ。」
「この国には、“蝶”より恐ろしいものが、まだたくさんいるの。」
真言は小さく頷いた。
胸の奥で、長い眠りについていた“何か”が、
ゆっくりと目を覚まし始めていた。
街の突き当たりにある静かなカフェの窓辺には、
柔らかな灯りが揺れていた。
ランプの光がガラスを透けて歩道にこぼれ、
まるで古い日記のページをめくるように、淡い影を落としている。
安倍真言は木のドアを押し、
漂うコーヒーと古い家具の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
少し緊張しながらも、どこか懐かしい期待が胸の奥で膨らむ。
──何年ぶりだろう、林莉莉に会うのは。
「真言!」
澄んだ声が、店の奥から弾んだ。
声の方を向くと、懐かしい笑顔がそこにあった。
リリィは相変わらずきりっとしていて、黒髪をゆるく束ね、
濃紺のジャケットを着こなし、明るい瞳には一点の曇りもない。
「久しぶり。」
「久しぶりだね。」
二人の声が重なり、小さく笑い合う。
店員がコーヒーを二杯運んできた。
湯気がカップの縁でゆらめき、
沈黙のあいだに空気がゆっくりとやわらいでいく。
長い時間離れていたはずなのに、
まるで途切れた旋律が自然に繋がったような感覚だった。
リリィは頬杖をつきながら、くすっと笑う。
「まさかベストセラー作家になるなんてね。
日本で出した本、すごく売れてるって聞いたわ。」
「運が良かっただけさ。」
真言は苦笑してカップを傾ける。
「正直、今はもうネタ切れだ。
日本の怪談や都市伝説もいろいろ書いたけど、
結局“自分の国の話”の枠を出られない。
狭いんだ、世界が。
──本当の志怪って、国を越えて、人間そのものを映すものだろ?」
「あなたらしいわ。昔から理屈っぽいところは変わらない。」
軽くため息をつきながら、少し寂しげに笑う。
「でもわかる気がする。
私も今は編集の仕事をしてるけど、夢とは程遠いの。
毎日、ネット小説の原稿ばかり読んでるわ。
三百字で足りることを三千字に引き延ばして──
“水”ばかりで、心なんてどこにもないのよ。」
リリィは肩をすくめて続けた。
「今の作家たちは“アルゴリズム”に支配されてる。
数字のために物語を書いてるの。
そこに魂なんて、もう残ってないわ。」
真言は笑いながらもうなずく。
「日本も同じさ。
驚かせるためだけの“ドンデン返し”、
話題作りのためにキャラを殺す。
でも本来、物語ってもっと“生きること”に近いはずだ。
見たこと、感じたこと、痛んだことを、
そのまま残すのが作家の役目だと思う。」
彼の言葉に、リリィの表情がやわらぐ。
「……大学の頃を思い出すわね。」
「うん。あの頃、よく図書館で変な本ばかり探してた。」
「地方志とか、古い怪談の切り抜きとか?」
「そう。それを宝探しみたいに集めて、夜遅くまで語り合ってた。
あの頃は、本当に“物語”が生きてたよな。」
ふたりはしばらく笑い合ったが、
リリィがカップをそっと置いたとき、
その笑みはどこか遠くへ行くように静まった。
「……ねえ、せっかくだし、久しぶりにひとつ話してあげる。」
「話?」
「ええ。題名は──聴蝶。 」
リリィの声が少し低くなり、
カフェの灯りがその言葉に呼応するように、かすかに揺れた。
「夜になると現れるの。
羽が、耳みたいに大きい蝶《チョウ》。」
「……蝶?」
「そう。
それが人のそばにとまるとね、
その人の“言い訳”を聞き取って、真実をねじ曲げる。
必死に弁明すればするほど、誰にも信じてもらえなくなるの。」
カップの中の影が震えた。
天井のランプがひときわ明るく瞬き、
まるでどこかで蝶の羽が音もなく打たれたように感じた。
「……面白い話だね。」
「でしょ?
この国にはね、聴蝶《チョウチョウ》の伝説が、思っているよりずっと多いの。」
一九七〇年代のことだった。
山に抱かれ、川に面した小さな村。
鶏の鳴き声と蛙の合唱が混ざり合い、
人々の暮らしは、まるで眠っているように静かに続いていた。
だが、あの夏の夜。
その村の時間は、確かに狂い始めた。
村に一人だけ、街の高校に合格した青年がいた。
名前は李明。
貧しい村にとって、彼はまさに“村の希望”だった。
夏休みのある晩、
一人の少女が彼を川辺に呼び出した。
月の下、震える声でこう言った。
「あなたと一緒に、街へ行きたいの。」
李明は優しく笑い、けれど首を横に振った。
「今は勉強しかない。恋は……後にしよう。」
そう言い残し、
彼は川沿いの道を一人歩き出した。
風は湿り、蛙が鳴き、
川面には月が滲んでいた。
──その時だった。
水面が、ぼうっと光を放った。
最初は月の反射かと思った。
けれど、それは生きていた。
大きな蝶。
掌よりも大きく、羽は人の耳のように薄く透き通っている。
血のように赤い筋が光り、
美しいのに、ぞっとするほど不気味だった。
蝶はゆっくりと羽ばたいた。
風が止み、音が消える。
まるで世界の音量を誰かが切ったように。
李明はただ見つめていた。
蝶の複眼は、人間の目のように彼を見据えている。
冷たく、静かで、どこか嘲《あざけ》るように。
蝶は彼の指先に舞い降りた。
羽が、音もなく開く。
──聞いている。
そう感じた。
その瞬間、彼は確かに感じた。
何かが、自分の内側から抜けていくのを。
声にならない“言葉”が、吸い取られていく感覚を。
翌朝、村は騒然となった。
泣き叫ぶ少女。
「李明が私にひどいことをした!」
村長が怒鳴り、村人たちは家を囲んだ。
李明は必死に叫んだ。
「違う! 俺は何もしていない! ただ……あの夜、蝶を見たんだ!」
だがその瞬間、村人たちは一斉に笑った。
「蝶? 夢でも見たか!」
「恥を隠すために怪談を作るとは!」
──誰も信じなかった。
その日、李明は高校を除籍され、
“村の希望”は一夜にして“狂人《きょうじん》”となった。
それから幾十年、彼は村を出なかった。
結婚もせず、家族も持たず、
村の入り口にある古い家で、一人静かに暮らした。
昼は黙々と畑を耕し、
夜になると机に向かい、訴状を書いた。
誰も読まない役所宛ての手紙……
そしてもう一つ、
彼がやめなかったのは、“蝶”を探すことだった。
「蝶を捕まえたら、俺の清白を証明できる。」
やがて村人たちは彼を笑い者にした。
“蝶を追う狂人”と呼ばれ、子供たちは石を投げた。
それでも李明は筆を止めなかった。
机の上には、紙の山。
そこに描かれていたのは、耳の形をした無数の蝶の羽だった。
ある晩、李明は杖を手に取り、
ゆっくりと川へ向かった。
誰にも気づかれぬまま、夜の闇に溶けていった。
翌朝、村人たちは川岸で紙束を見つけた。
濡れた紙には、滲んだインクで無数の蝶が描かれていた。
その羽はどれも、人の耳の形をしていたという。
それ以来、村にはこんな噂が流れるようになった。
──夜の川辺で“蝶”の羽音を聞いた者は、
二度と自分の声で話せなくなる。
聴蝶は、人の弁明を喰らう蝶。
それに触れた者の真実は、すべて“噂”へと変わる。
噂に呑まれた人間の声は、
永遠に誰にも届かなくなるのだと。
──リリィの声が止むと、
カフェの中は水を打ったように静まり返った。
コーヒーは冷め、カップの縁の水滴も消えている。
安倍真言は、しばらく何も言わずにカップの取っ手を撫でていた。
リリィの話の余韻が、まだ胸の奥に残っている。
窓の外で、黒い蛾が一匹、ガラスにぶつかった。
その影が一瞬、蝶のように見えた。
「……これは、ただの始まりよ。」
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