華夏百鬼抄

盛桃李もりももり

文字の大きさ
1 / 8

第一話 聴蝶

しおりを挟む
 上海シャンハイの秋の夕暮れ。
 街の突き当たりにある静かなカフェの窓辺には、
 柔らかな灯りが揺れていた。

 ランプの光がガラスを透けて歩道にこぼれ、
 まるで古い日記のページをめくるように、淡い影を落としている。

 安倍真言あべ まことは木のドアを押し、
 漂うコーヒーと古い家具の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
 少し緊張しながらも、どこか懐かしい期待が胸の奥で膨らむ。
 ──何年ぶりだろう、林莉莉リンリリィに会うのは。

「真言!」
 澄んだ声が、店の奥から弾んだ。

 声の方を向くと、懐かしい笑顔がそこにあった。
 リリィは相変わらずきりっとしていて、黒髪をゆるく束ね、
 濃紺のジャケットを着こなし、明るい瞳には一点の曇りもない。

「久しぶり。」

「久しぶりだね。」
 二人の声が重なり、小さく笑い合う。

 店員がコーヒーを二杯運んできた。
 湯気がカップの縁でゆらめき、
 沈黙のあいだに空気がゆっくりとやわらいでいく。
 長い時間離れていたはずなのに、
 まるで途切れた旋律が自然に繋がったような感覚だった。

 リリィは頬杖をつきながら、くすっと笑う。
「まさかベストセラー作家になるなんてね。
 日本で出した本、すごく売れてるって聞いたわ。」

「運が良かっただけさ。」
 真言は苦笑してカップを傾ける。
「正直、今はもうネタ切れだ。
 日本の怪談や都市伝説もいろいろ書いたけど、
 結局“自分の国の話”の枠を出られない。
 狭いんだ、世界が。
 ──本当の志怪って、国を越えて、人間そのものを映すものだろ?」

「あなたらしいわ。昔から理屈っぽいところは変わらない。」
 軽くため息をつきながら、少し寂しげに笑う。
「でもわかる気がする。
 私も今は編集の仕事をしてるけど、夢とは程遠いの。
 毎日、ネット小説の原稿ばかり読んでるわ。
 三百字で足りることを三千字に引き延ばして──
 “みず”ばかりで、心なんてどこにもないのよ。」

 リリィは肩をすくめて続けた。
「今の作家たちは“アルゴリズム”に支配されてる。
 数字のために物語を書いてるの。
 そこに魂なんて、もう残ってないわ。」

 真言は笑いながらもうなずく。
「日本も同じさ。
 驚かせるためだけの“ドンデン返し”、
 話題作りのためにキャラを殺す。
 でも本来、物語ってもっと“生きること”に近いはずだ。
 見たこと、感じたこと、痛んだことを、
 そのまま残すのが作家の役目だと思う。」

 彼の言葉に、リリィの表情がやわらぐ。
「……大学の頃を思い出すわね。」

「うん。あの頃、よく図書館で変な本ばかり探してた。」

「地方志とか、古い怪談の切り抜きとか?」

「そう。それを宝探しみたいに集めて、夜遅くまで語り合ってた。
 あの頃は、本当に“物語”が生きてたよな。」

 ふたりはしばらく笑い合ったが、
 リリィがカップをそっと置いたとき、
 その笑みはどこか遠くへ行くように静まった。

「……ねえ、せっかくだし、久しぶりにひとつ話してあげる。」

「話?」

「ええ。題名は──聴蝶チョウチョウ。 」

 リリィの声が少し低くなり、
 カフェの灯りがその言葉に呼応するように、かすかに揺れた。

「夜になると現れるの。
 羽が、耳みたいに大きい蝶《チョウ》。」

「……蝶?」

「そう。
 それが人のそばにとまるとね、
 その人の“言い訳”を聞き取って、真実をねじ曲げる。
 必死に弁明すればするほど、誰にも信じてもらえなくなるの。」

 カップの中の影が震えた。
 天井のランプがひときわ明るく瞬き、
 まるでどこかで蝶の羽が音もなく打たれたように感じた。

「……面白い話だね。」

「でしょ?
 この国にはね、聴蝶《チョウチョウ》の伝説が、思っているよりずっと多いの。」

 一九七〇年代のことだった。

 山に抱かれ、川に面した小さな村。
 鶏の鳴き声と蛙の合唱が混ざり合い、
 人々の暮らしは、まるで眠っているように静かに続いていた。

 だが、あの夏の夜。
 その村の時間は、確かに狂い始めた。

 村に一人だけ、街の高校に合格した青年がいた。
 名前は李明リミン
 貧しい村にとって、彼はまさに“村の希望”だった。

 夏休みのある晩、
 一人の少女が彼を川辺に呼び出した。
 月の下、震える声でこう言った。
「あなたと一緒に、街へ行きたいの。」

 李明リミンは優しく笑い、けれど首を横に振った。
「今は勉強しかない。恋は……後にしよう。」

 そう言い残し、
 彼は川沿いの道を一人歩き出した。

 風は湿り、蛙が鳴き、
 川面には月が滲んでいた。

 ──その時だった。

 水面が、ぼうっと光を放った。
 最初は月の反射かと思った。
 けれど、それは生きていた。

 大きなチョウ
 掌よりも大きく、羽は人の耳のように薄く透き通っている。
 血のように赤い筋が光り、
 美しいのに、ぞっとするほど不気味だった。

 蝶はゆっくりと羽ばたいた。
 風が止み、音が消える。
 まるで世界の音量を誰かが切ったように。

 李明リミンはただ見つめていた。
 蝶の複眼は、人間の目のように彼を見据えている。
 冷たく、静かで、どこか嘲《あざけ》るように。

 蝶は彼の指先に舞い降りた。
 羽が、音もなく開く。
 ──聞いている。
 そう感じた。

 その瞬間、彼は確かに感じた。
 何かが、自分の内側から抜けていくのを。
 声にならない“言葉”が、吸い取られていく感覚を。

 翌朝、村は騒然となった。

 泣き叫ぶ少女。
李明リミンが私にひどいことをした!」

 村長が怒鳴り、村人たちは家を囲んだ。

 李明リミンは必死に叫んだ。
「違う! 俺は何もしていない! ただ……あの夜、蝶を見たんだ!」

 だがその瞬間、村人たちは一斉に笑った。
「蝶? 夢でも見たか!」

「恥を隠すために怪談を作るとは!」

 ──誰も信じなかった。

 その日、李明リミンは高校を除籍され、
 “村の希望”は一夜にして“狂人《きょうじん》”となった。

 それから幾十年、彼は村を出なかった。
 結婚もせず、家族も持たず、
 村の入り口にある古い家で、一人静かに暮らした。

 昼は黙々と畑を耕し、
 夜になると机に向かい、訴状そじょうを書いた。
 誰も読まない役所宛ての手紙……

 そしてもう一つ、
 彼がやめなかったのは、“蝶”を探すことだった。

「蝶を捕まえたら、俺の清白せいはくを証明できる。」

 やがて村人たちは彼を笑い者にした。
 “蝶を追う狂人”と呼ばれ、子供たちは石を投げた。

 それでも李明リミンは筆を止めなかった。
 机の上には、紙の山。
 そこに描かれていたのは、耳の形をした無数の蝶の羽だった。

 ある晩、李明リミンは杖を手に取り、
 ゆっくりと川へ向かった。
 誰にも気づかれぬまま、夜の闇に溶けていった。

 翌朝、村人たちは川岸で紙束を見つけた。
 濡れた紙には、滲んだインクで無数の蝶が描かれていた。
 その羽はどれも、人の耳の形をしていたという。

 それ以来、村にはこんな噂が流れるようになった。

 ──夜の川辺で“蝶”の羽音を聞いた者は、
 二度と自分の声で話せなくなる。

 聴蝶チョウチョウは、人の弁明を喰らう蝶。
 それに触れた者の真実は、すべて“噂”へと変わる。
 噂に呑まれた人間の声は、
 永遠に誰にも届かなくなるのだと。

 ──リリィの声が止むと、
 カフェの中は水を打ったように静まり返った。

 コーヒーは冷め、カップの縁の水滴も消えている。
 安倍真言は、しばらく何も言わずにカップの取っ手を撫でていた。
 リリィの話の余韻が、まだ胸の奥に残っている。

 窓の外で、黒い蛾が一匹、ガラスにぶつかった。
 その影が一瞬、蝶のように見えた。

「……これは、ただの始まりよ。」

「この国には、“蝶”より恐ろしいものが、まだたくさんいるの。」

 真言は小さく頷いた。
 胸の奥で、長い眠りについていた“何か”が、
 ゆっくりと目を覚まし始めていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

意味がわかると怖い話

邪神 白猫
ホラー
【意味がわかると怖い話】解説付き 基本的には読めば誰でも分かるお話になっていますが、たまに激ムズが混ざっています。 ※完結としますが、追加次第随時更新※ YouTubeにて、朗読始めました(*'ω'*) お休み前や何かの作業のお供に、耳から読書はいかがですか?📕 https://youtube.com/@yuachanRio

(ほぼ)5分で読める怖い話

涼宮さん
ホラー
ほぼ5分で読める怖い話。 フィクションから実話まで。

【⁉】意味がわかると怖い話【解説あり】

絢郷水沙
ホラー
普通に読めばそうでもないけど、よく考えてみたらゾクッとする、そんな怖い話です。基本1ページ完結。 下にスクロールするとヒントと解説があります。何が怖いのか、ぜひ推理しながら読み進めてみてください。 ※全話オリジナル作品です。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

あべこべな世界

廣瀬純七
ファンタジー
男女の立場が入れ替わったあべこべな世界で想像を越える不思議な日常を体験した健太の話

百物語 厄災

嵐山ノキ
ホラー
怪談の百物語です。一話一話は長くありませんのでお好きなときにお読みください。渾身の仕掛けも盛り込んでおり、最後まで読むと驚くべき何かが提示されます。 小説家になろう、エブリスタにも投稿しています。

皆さんは呪われました

禰津エソラ
ホラー
あなたは呪いたい相手はいますか? お勧めの呪いがありますよ。 効果は絶大です。 ぜひ、試してみてください…… その呪いの因果は果てしなく絡みつく。呪いは誰のものになるのか。 最後に残るのは誰だ……

処理中です...