華夏百鬼抄

盛桃李もりももり

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第二話 龍ノ柱

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 夜は、静かに沈みはじめていた。

 安倍真言あべ まこと林莉莉リン リリィは、カフェの扉を押して外へ出た。
 街のネオンが雨のように光をこぼし、ガラスの壁には、人の影が流れていく。
 車の列が交差点に集まり、ゆっくりと動く光の帯は、まるで都市の上を這う赤い龍のようだった。

「上海も東京と同じだね。眠らない街だ。」
 真言は感嘆の息をもらしながら助手席に滑り込む。

 車が延安高架えんあんこうかに差しかかると、すぐに渋滞にはまった。
 無数のテールランプが赤い鎖のように連なり、夜の空気を灼いている。
 窓の隙間から吹き込む風が、ガソリンと湿ったコンクリートの匂いを運んできた。

 真言は外を眺めながら、ぽつりと言った。
「日本にも似たような高架はあるけど……雰囲気が違うね。
 この柱たち、まるで灰色の森みたいだ。街全体を根で支える“巨人の足”って感じだよ。」

 リリィは軽く笑い、ハンドルを握り直した。
「知ってる? 昔の人はね、こういう大きな建物を作る前に“土地の神様”をしずめたの。」

「鎮めるって、儀式のこと?」

「杭を打つ前に、生きた人を埋める。“打生桩だっせいしょう”って呼ばれてたわ。」
 その言葉は、夜の闇に沈んでいく小石のように、静かに波紋を広げた。

 真言は少し眉を寄せる。
「日本にも“人柱ひとばしら”って伝承でんしょうがあるよ。
 橋や城を建てるとき、人を生贄いけにえにして安定を祈る……。
 結局、どこの国でも、土を恐れ、土を信じていたんだろうね。」

 車内を沈黙が包む。
 遠くでクラクションが鳴り、テールランプの赤がフロントガラスを染めた。
 炎のような光が、真言の横顔を淡く照らす。

「……この下にも、誰か眠ってるのかな。」
 真言がつぶやくと、リリィは意味深に微笑んだ。
「見てみる?」

 彼女はハンドルを軽く切り、前方を指差した。
「ほら、あの柱。」

 真言の視線の先。
 暗闇の中に、ひときわ異様な一本の柱が立っていた。
 他と違い、石の龍が胴を這い上がり、
 その首を高く掲げて、白い街灯の光を受けていた。

 龍の目が、一瞬、ぎらりと光った気がした。

「……彫刻ちょうこく?」

「九〇年代に、この高架が作られたときの話よ。」
 リリィは声を落とした。
「その一本だけ、どうしても杭が打てなかったらしいの。
 どんな重機を使っても、何度やっても──杭は地面に沈まない。
 ドリルは折れ、鉄骨は曲がり……“何か”が拒んでいるみたいだったそうよ。」

「ある夜、見回りの作業員が足を滑らせて落ちて、即死した。
 それからというもの、夜になると重機が勝手に動き出す。
 泥がうねり、地の底から金色の光が滲むのを見た者もいた。
 “龍脈りゅうみゃく”が怒っている──そう囁く者もいたわ。」

 外の赤い光が、車内を血のように染めた。

「工事は何度も止まった。
 結局、ある高僧こうそうが呼ばれて、現場で供養の法要ほうようを開いたの。
 不思議なことに、それ以来、杭はすんなり入った。
 ……でも、その僧侶は間もなく亡くなったの。」

 風が強まり、リリィの声がわずかに揺れる。
「命と引き換えに、龍を鎮めたのかもしれない。」

「だから、あの龍柱が建てられたのか。」

「そう。
 柱を立てる日、正午の陽光が龍の目に差し込んで、金色の閃光が走った。
 見ていた人たちは皆、息を呑んだって。
 “屈服した龍の涙だ”って言う者もいれば、
 “あれは笑っていた”って言う者もいた。」

 その瞬間、上空を抜ける風が唸り、広告看板が鳴った。
 鉄の響きが、まるで龍の咆哮のように空気を震わせた。

 真言は振り返る。
 街灯の光の中、龍の首がほんの僅かに動いたように見えた。

 渋滞がゆっくりと動き出す。
 車がその下を通り抜ける時、真言はぽつりと言った。

「日本では、龍は守り神だ。
 幸運をもたらす存在。
 でも……ここでは、まるでコンクリートの牢獄ろうごくに閉じ込められた囚人しゅうじんみたいだね。」

「象徴っていうのはね、いつも“書く側”の都合で変わるの。」
 リリィの声は、夜風よりも静かだった。
「龍が何を意味するかを決めるのは、龍じゃないわ。」

 真言は息を呑み、そしてゆっくりと微笑んだ。

 夜の街は再び轟音に包まれる。
 赤い光の帯が、高架の下を這う龍のようにうねりながら、夜を渡っていく。
 コンクリートの龍は首をもたげ、
 無表情な瞳で、
 自らの背を踏みしめていく鋼鉄こうてつの街を、
 ただ、静かに見下ろしていた。


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