華夏百鬼抄

盛桃李もりももり

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第三話 キョンシー

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 俺の名前は──安倍真言あべまこと
 東京で生まれ、東京で育った。

 物心ついた頃から、俺は“怪談”に取り憑かれていた。
 みんなが漫画雑誌を読んでいる間、
 俺は中古書店の片隅で、埃とカビの匂いに包まれながら古い民俗資料を、夢中で一枚ずつめくっていた。

 黄ばんだページ、滲んだインク。
 それらはまるで、別の時代からこぼれ落ちた囁きのようで、
 めくるたびに、“あちら側”へ繋がる鍵を手に入れた気がした。

 大学時代、そんな俺が出会ったのが林莉莉リン リリィだった。
 きっかけは、図書館の一角で交わした何気ない会話。
 けれど、それが俺の中でずっと焼きついている。

 彼女は中国からの留学生で、
 どんなにマニアックな資料でも見つけ出す嗅覚を持っていた。
 管理人すら忘れているような本を、当然のように探し出す。
 気づけば、俺たちはいつの間にか、変人同士の小さな同好会になっていた。

 閉館のベルが鳴っても帰らず、廊下に座り込んで語り合った。
 ──怪談とは何か。
 ──恐怖とは、一瞬の感情なのか。それとも、人の心に潜む影なのか。

 リリィはいつも真っ直ぐだった。
 遠慮も嘘もない、速射砲みたいな言葉。
 けれどその中には、奇妙な優しさと芯の強さがあった。
 まるで、誰も読まない古書の中にだけ光る文字のように。

 卒業後、俺は小説家になった。
 本は幸運にも売れた。けれど、胸の奥はむしろ冷めていった。
 “何かが違う”──いつも、そう感じていた。

 俺の書く怪談は、結局“型”で作られた物だった。
 驚かせるための構成、泣かせるための死、計算で作った恐怖。
 本当の怪談は、そんな薄っぺらいものじゃない。

 だから俺は、上海へ来た。
 リリィなら、俺に“本物”を見せてくれる気がした……
 
 翌朝、黄浦江こうほこうの水面に反射した朝日が、街全体を金色に染めていた。
 リリィが俺を観光バスへ誘い、二階席の窓際に並んで座った。

「観光バスかぁ……できれば、もっと地元の路地裏とかに行ってみたいんだ。
 市井の人たちが知ってる“本当の上海”を見てみたい。」

「地元の話なら、いくらでも聞けるわ。
 でもね──“観光客の視線”にも意味があるのよ。
 角度を変えると、同じ街でもまったく違う顔を見せるもの。」
 リリィは笑い、窓の外を見つめた。
 
 バスが外灘バンドを抜け、潮風が湿った塩の香りを運んできた。
 陽光に輝く高層ビル、街頭の喧噪──昨夜の高架下の闇とは、まるで別の世界だった。

「ねえ、真言。“北京ペキン三七五路さんななごろバス事件”って、知ってる?」

 首を横に振ると、彼女の目が少しだけ陰った。

「いろんなバージョンがあるけど、あるひとつの噂が特に奇妙なの。
 ──その夜、バスに乗ってきたのは“人間”じゃなかった。
 清国しんこくの衣を纏った、屍者ししゃ──“キョンシー”だったらしい。」

 その瞬間、窓の隙間から風が吹き込み、
 バスの中のざわめきを吹き消した。

  ──それは、一九九五年。
 中国全土を震撼しんかんさせた“都市怪談”が生まれた年だ。

 深夜の北京。
 終点から最終バスがゆっくりと走り出した。
 路線名は三七五路さんななごろ
 誰もが知る、あの“事件”の始まりである。

 車内は薄暗く、蛍光灯が時折チカチカと瞬く。
 一人の青年が窓際の席に腰を下ろした。
 前方では運転手と車掌が、声を潜めて何かを話している。
 エンジン音以外は、何ひとつ聞こえない──
 異様なほどの静寂が、車内を包み込んでいた。

 ……その時、ドアが開いた。

 三つの影が乗り込んできた。
 二人の男と、一人の女。
 その服装は奇妙で、まるで古い映画の中から抜け出したような清代しんだいの衣。
 車掌が思わず冗談を口にする。
「夜中の時代劇? こんな時間に撮影なんて、物好きだね。」

 だが、三人は答えなかった。
 音はない。ただ、動きだけがそこにあった。
 足音も、気配も……何も……

 車内に戻る、不自然な沈黙。
 その瞬間、角の席の老婆が突然立ち上がった。

「この人! 私の財布を盗んだよ!」

 彼女は隣の青年の腕を掴み、激しく揺さぶった。
 青年は狼狽ろうばいし、必死に否定する。
「違います! 俺は何も──!」

 だが老婆は聞き入れず、声を荒げた。
「警察に行きましょう! 今すぐに!」

 周囲の客が息を呑む中、バスは停車した。
 青年は仕方なく、老婆に腕を引かれながら降りた。

 ドアが閉まり、バスは闇の中に消えていった。

 ようやく老婆が口を開く。
 その声はかすかに震えていた。
「助けたのよ。……さっきの三人、あれは“生きていない”。」

 翌朝。
 新聞の見出しが街を埋めた。
 ──「三七五路最終バス、運転手と車掌行方不明。」

 郊外の空き地で、無人のバスが発見された。
 座席は乱れ、車内には血の匂いが充満していた。
 燃料タンクの中を確認した整備士が、絶句したという。
 そこにあったのはガソリンではなく、どす黒く濁った液体──それは、血だった。

 その夜から、“三七五路のバス”の噂は広がり続けた。
 誰もいない停留所に最終便が止まり、
 清朝の衣を纏った三人が音もなく乗り込む。
 その便に乗った者は、もう二度と家に帰らない。

 「彼らは今も走っている。
  終わりのない夜の路線で、行き先のない旅を続けている。」

 ──そう、人々は囁く。

 バスが角を曲がり、現実が戻ってきた。
 陽光が江面に反射し、リリィの横顔を淡く照らす。

 真言は小さく笑って言った。
「キョンシー、か。日本でも八〇年代に大ブームだったよ。
 香港映画の影響で、みんな両手を前に出してピョンピョン跳ねてさ。
 あれ、滑稽だけど──どこか本気で怖かった。」

「西洋では吸血鬼《きゅうけつき》が血を吸うけど、
 中国では屍者ししゃが血を吸うの。
 違うのは、“歴史”を纏っているところね。
 服装が時代を語るのよ。シンも、メイも、ソウも……死者はそのまま“時代”を運ぶ。」

「つまり、キョンシーはただの怪談じゃなく、“時代の亡霊”ってことか。」

「そうね。」
 リリィは前を見つめたまま、静かに頷いた。
「この後、博物館に行きましょう。
 そこには“古人こじん”の残したものがたくさんある。
 ──次の物語に、きっと繋がっているはず。」

 バスがゆるやかに加速する。
 街の喧騒が戻り、遠くで笑い声が響いた。

 けれど、真言は胸の奥で、微かなざらつきを感じていた。
 ──まるで、またひとつの“扉”が静かに開きかけているような。

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