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第四話 妲己
しおりを挟む博物館のホールは静まり返っていた。
天井は高く、天窓から差す光が斜めに落ち、
ガラスケースの列を白く照らし出す。
青銅器、玉璽、甲骨文──
どの展示も、まるで時間そのものを封じ込めたように鈍く光っていた。
林莉莉はゆっくりと歩きながら、
指先でガラス越しに古代の器の縁をなぞる。
「この無言の遺物たちも、
それぞれの時代を生きてきたのね。
国は滅びても、彼らはこうして残っている。」
その声には、祈りのような響きがあった。
安倍真言は、饕餮文を刻んだ青銅の鼎の前で立ち止まる。
その瞳は、古代の闇を覗き込むように細められていた。
「……ここに立っていると感じるよ。
中国の歴史って、まるで果てのない海みたいだ。
何千年の興亡が、この器ひとつに沈んでる。」
リリィは頷き、視線を奥の展示へ向けた。
そこには殷の時代の婦人像が立っていた。
曇った瞳が、時を越えて見つめ返してくるようだ。
「知ってる? 怪談って、
もともとはこういう“器”や“記録”から生まれるのよ。」
彼女は像を見上げ、声を落とした。
「殷が滅んだとき、一人の“狐”が関わっていたって話、知ってる?
その名は──妲己。」
「妲己……」
彼は青銅像を見つめ、ゆっくりと口を開く。
「日本でも、その名は伝わっているよ。
ただ──呼び方が違うんだ。」
「呼び方?」
「伝説によると、妲己は中原を逃れたあと、
別の名で平安の宮廷に現れたらしい。
絶世の美女で、知恵に長け、
何もかもを見透かす女──
その名は、玉藻前。」
リリィは少しのあいだ黙り、それから微笑んだ。
「……つまり、それは“妲己の続きの物語”なのね。」
真言は頷き、展示室の奥に置かれた石碑へと目をやった。
そこに刻まれた文様が、照明の下でかすかに揺れ、呼吸しているように見えた。
「そう。
では──今度は俺が話そう。
玉藻前という名を持つ、もう一人の“狐”の話を……」
──それは、平安の世も末のことだった。
ある日、天皇の御所にひとりの女が現れた。
名を玉藻前という。
自らを高貴の家の出と語り、その姿はまさに天上の花のごとし。
容色は世に並ぶものなく、
声は鈴のように澄み、言葉には雅があった。
和歌を詠み、琴を弾き、天文・医術・兵法──問われれば即答す。
微笑み一つで、誰もが心を奪われた。
やがて玉藻前は鳥羽天皇の寵愛を受け、
常にその傍らに侍った。
朝議の場では、帝の耳元にやわらかく言葉を添え、
群臣はただ息を呑んだ。
──あまりに完璧だった。
そして人々は囁いた。
「あれは、人にあらず」と。
やがて、宮中に異しき兆しが現れる。
夜な夜な、御所の外より獣の吠える声が聞こえ、
庭の花は一夜にして枯れ、翌晩には再び咲いた。
月光の下では、白い光が地を這い、
人々は悪夢に魘された。
帝の顔色も日に日に衰え、医師らは首を振るばかりだった。
その折、ひとりの陰陽師が星を読み、言った。
「陛下の御側におわすその方、
九尾の狐の化身にてあらせられる。」
この言葉に、宮は凍りついた。
まもなく、噂が流れる。
──玉藻前はこの国のものにあらず。
遠き昔、殷を滅ぼした妖女 妲己。
中原の炎を逃れ、海を越え、名を変えてここに現れたのだ、と。
その日、朝堂はざわめきに満ちた。
陰陽師・安倍泰親が御前で進み出て言う。
「玉藻前、その正体を明かし給え。」
女は微笑みを崩さなかった。
だが、符が舞い、真言が唱えられた刹那、
その身を白炎が包んだ。
現れたのは九つの尾を持つ大狐。
毛は雪のように白く、瞳は血のように紅い。
ただ一瞥で百官は声を失った。
帝は昏倒し、宮廷は混乱。
九尾の狐は吼え、炎を巻き上げ、殿を突き破り、東の野へ逃れた。
のちに朝廷は大軍を発す。
上総介広綱、三浦介義純らが
兵を率いて那須野原に追いつめる。
戦は三日に及び、矢が雨のように飛んだ。
光が閃き、狐の悲鳴が空を裂く。
やがてその身は白煙と化し、消え失せた。
──だが、終わりではなかった。
怨念は地に残り、一つの石に宿る。
触れた者は人も獣も命を落とす。
それが、のちに“殺生石”と呼ばれるものとなった。
今も那須の原にその石はある。
風のない日に白い霧がその上を流れるとき、
人はそっと囁くのだ。
──あれは、遠き中原より流れ着いた妲己の魂だ、と。
真言の声が静まり、
博物館の高い天井には、二人の足音だけが残った。
リリィはガラス越しに狐の石像を見つめ、低く呟く。
「不思議ね……どこでも、狐は女の顔をしてる。
美しく、聡く、そして──いつも罪を背負うの。」
「宮廷の怪談なんて、結局は権力の影さ。
病んだ帝、口を閉ざす臣下。
語れぬ真実が、妖の姿を取るんだ。」
短い沈黙が落ち、
真言がぽつりと続ける。
「だけど、最後に残るのは悲劇ばかりだ。
妲己も、玉藻前も……
名だけが残って、人としては忘れられる。」
リリィは振り返り、微笑んだ。
「そういえばね、真言くんの“怪談収集”、もう誰かが嗅ぎつけたみたいよ。」
「誰が?」
「私の友達。東北の出身で、気が強い子。
“陰陽の目”を持つって噂もあるの。
出馬仙と縁があって、仙家と話せるらしいわ。」
真言は思わず目を見張る。
「……本気で言ってるの?」
「ええ、本気よ。
代々“請仙”をしてきた家の子でね。
香炉の煙に育てられたような人。
きっとわかるわ──普通じゃないって。」
真言は苦笑しながらも、興味を隠せなかった。
「……会ってみたいな。」
「へへ、その子とは気が合うと思うよ、きっと。」
二人の足音が、展示室の奥へと消えていく。
石像の影が長く伸び、
その奥で、真言の胸がかすかに脈打った。
──闇の向こう、次の扉が静かに開こうとしていた。
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