華夏百鬼抄

盛桃李もりももり

文字の大きさ
4 / 8

第四話 妲己

しおりを挟む

 博物館のホールは静まり返っていた。
 天井は高く、天窓から差す光が斜めに落ち、
 ガラスケースの列を白く照らし出す。
 青銅器せいどうき玉璽ぎょくじ甲骨文こうこつぶん──
 どの展示も、まるで時間そのものを封じ込めたように鈍く光っていた。

 林莉莉リンリリィはゆっくりと歩きながら、
 指先でガラス越しに古代の器の縁をなぞる。
 
「この無言の遺物たちも、
 それぞれの時代を生きてきたのね。
 国は滅びても、彼らはこうして残っている。」
 その声には、祈りのような響きがあった。

 安倍真言あべまことは、饕餮文とうてつもんを刻んだ青銅せいどうかなえの前で立ち止まる。
 その瞳は、古代の闇を覗き込むように細められていた。
「……ここに立っていると感じるよ。
 中国の歴史って、まるで果てのない海みたいだ。
 何千年の興亡が、この器ひとつに沈んでる。」

 リリィは頷き、視線を奥の展示へ向けた。
 そこにはいんの時代の婦人像が立っていた。
 曇った瞳が、時を越えて見つめ返してくるようだ。

「知ってる? 怪談って、
 もともとはこういう“器”や“記録”から生まれるのよ。」
 彼女は像を見上げ、声を落とした。
いんが滅んだとき、一人の“きつね”が関わっていたって話、知ってる?
 その名は──妲己だっき。」

「妲己……」
 彼は青銅像を見つめ、ゆっくりと口を開く。
「日本でも、その名は伝わっているよ。
 ただ──呼び方が違うんだ。」

「呼び方?」

「伝説によると、妲己は中原ちゅうげんを逃れたあと、
 別の名で平安の宮廷に現れたらしい。
 絶世の美女で、知恵に長け、
 何もかもを見透かす女──
 その名は、玉藻前たまものまえ。」

 リリィは少しのあいだ黙り、それから微笑んだ。
「……つまり、それは“妲己の続きの物語”なのね。」

 真言は頷き、展示室の奥に置かれた石碑へと目をやった。
 そこに刻まれた文様が、照明の下でかすかに揺れ、呼吸しているように見えた。

「そう。
 では──今度は俺が話そう。
 玉藻前という名を持つ、もう一人の“狐”の話を……」

   ──それは、平安の世も末のことだった。

 ある日、天皇の御所にひとりの女が現れた。
 名を玉藻前たまものまえという。
 自らを高貴こうきの家の出と語り、その姿はまさに天上てんじょうの花のごとし。

 容色ようしょくは世に並ぶものなく、
 声は鈴のように澄み、言葉にはみやびがあった。
 和歌を詠み、琴を弾き、天文・医術・兵法へいほう──問われれば即答す。
 微笑み一つで、誰もが心を奪われた。

 やがて玉藻前は鳥羽天皇とばてんのう寵愛ちょうあいを受け、
 常にその傍らにはべった。
 朝議ちょうぎの場では、帝の耳元にやわらかく言葉を添え、
 群臣はただ息を呑んだ。

 ──あまりに完璧だった。
 そして人々は囁いた。
 「あれは、人にあらず」と。

 やがて、宮中にしききざしが現れる。
 夜な夜な、御所の外より獣の吠える声が聞こえ、
 庭の花は一夜にして枯れ、翌晩には再び咲いた。
 月光の下では、白い光が地をい、
 人々は悪夢にうなされた。
 帝の顔色も日に日に衰え、医師らは首を振るばかりだった。

 その折、ひとりの陰陽師おんみょうじが星を読み、言った。
 「陛下の御側みそばにおわすその方、
  九尾の狐の化身にてあらせられる。」

 この言葉に、宮は凍りついた。
 まもなく、噂が流れる。

 ──玉藻前はこの国のものにあらず。
 遠き昔、いんを滅ぼした妖女ようじょ 妲己だっき
 中原の炎を逃れ、海を越え、名を変えてここに現れたのだ、と。

 その日、朝堂ちょうどうはざわめきに満ちた。
 陰陽師・安倍泰親あべ の やすちかが御前で進み出て言う。
 「玉藻前、その正体を明かし給え。」

 女は微笑みを崩さなかった。
 だが、符が舞い、真言しんごんが唱えられた刹那せつな
 その身を白炎が包んだ。

 現れたのは九つの尾を持つ大狐おおぎつね
 毛は雪のように白く、瞳は血のように紅い。
 ただ一瞥で百官ひゃっかんは声を失った。

 帝は昏倒し、宮廷は混乱。
 九尾の狐は吼え、炎を巻き上げ、殿を突き破り、東の野へ逃れた。

 のちに朝廷は大軍を発す。
 上総介広綱かずさのすけひろつな三浦介義純みうらのすけよしずみらが
 兵を率いて那須野原なすののはらに追いつめる。

 戦は三日に及び、矢が雨のように飛んだ。
 光が閃き、狐の悲鳴が空を裂く。
 やがてその身は白煙と化し、消え失せた。

 ──だが、終わりではなかった。

 怨念おんねんは地に残り、一つの石に宿る。
 触れた者は人も獣も命を落とす。
 それが、のちに“殺生石せっしょうせき”と呼ばれるものとなった。

 今も那須の原にその石はある。
 風のない日に白い霧がその上を流れるとき、
 人はそっと囁くのだ。

 ──あれは、遠き中原より流れ着いた妲己の魂だ、と。

 真言の声が静まり、
 博物館の高い天井には、二人の足音だけが残った。

 リリィはガラス越しに狐の石像を見つめ、低く呟く。
「不思議ね……どこでも、狐は女の顔をしてる。
 美しく、さとく、そして──いつも罪を背負うの。」

「宮廷の怪談なんて、結局は権力の影さ。
 病んだ帝、口を閉ざす臣下。
 語れぬ真実が、妖の姿を取るんだ。」

 短い沈黙が落ち、
 真言がぽつりと続ける。
「だけど、最後に残るのは悲劇ばかりだ。
 妲己も、玉藻前も……
 名だけが残って、人としては忘れられる。」

 リリィは振り返り、微笑んだ。
「そういえばね、真言くんの“怪談収集”、もう誰かが嗅ぎつけたみたいよ。」

「誰が?」

「私の友達。東北の出身で、気が強い子。
 “陰陽いんようの目”を持つって噂もあるの。
 出馬仙しゅつばせんと縁があって、仙家と話せるらしいわ。」

 真言は思わず目を見張る。
「……本気で言ってるの?」

「ええ、本気よ。
 代々“請仙しょうせん”をしてきた家の子でね。
 香炉こうろの煙に育てられたような人。
 きっとわかるわ──普通じゃないって。」

 真言は苦笑しながらも、興味を隠せなかった。
「……会ってみたいな。」

「へへ、その子とは気が合うと思うよ、きっと。」

 二人の足音が、展示室の奥へと消えていく。

 石像の影が長く伸び、
 その奥で、真言の胸がかすかに脈打った。
 ──闇の向こう、次の扉が静かに開こうとしていた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

意味がわかると怖い話

邪神 白猫
ホラー
【意味がわかると怖い話】解説付き 基本的には読めば誰でも分かるお話になっていますが、たまに激ムズが混ざっています。 ※完結としますが、追加次第随時更新※ YouTubeにて、朗読始めました(*'ω'*) お休み前や何かの作業のお供に、耳から読書はいかがですか?📕 https://youtube.com/@yuachanRio

(ほぼ)5分で読める怖い話

涼宮さん
ホラー
ほぼ5分で読める怖い話。 フィクションから実話まで。

【⁉】意味がわかると怖い話【解説あり】

絢郷水沙
ホラー
普通に読めばそうでもないけど、よく考えてみたらゾクッとする、そんな怖い話です。基本1ページ完結。 下にスクロールするとヒントと解説があります。何が怖いのか、ぜひ推理しながら読み進めてみてください。 ※全話オリジナル作品です。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

あべこべな世界

廣瀬純七
ファンタジー
男女の立場が入れ替わったあべこべな世界で想像を越える不思議な日常を体験した健太の話

百物語 厄災

嵐山ノキ
ホラー
怪談の百物語です。一話一話は長くありませんのでお好きなときにお読みください。渾身の仕掛けも盛り込んでおり、最後まで読むと驚くべき何かが提示されます。 小説家になろう、エブリスタにも投稿しています。

皆さんは呪われました

禰津エソラ
ホラー
あなたは呪いたい相手はいますか? お勧めの呪いがありますよ。 効果は絶大です。 ぜひ、試してみてください…… その呪いの因果は果てしなく絡みつく。呪いは誰のものになるのか。 最後に残るのは誰だ……

処理中です...