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第五話 出馬仙
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中国の東北地方には、ほかにはない独特の“信仰”がある。
──出馬仙。
“出馬”とは、仙家が人に憑き、
その口や手足を借りて現世に姿を現すことをいう。
東北では、五種類の“仙”が特に知られている。
狐──狡猾で賢く、言葉と知恵を司る。
黄──黄鼬。俊敏で家を守り、邪を祓う。
白──ハリネズミ。五穀豊穣の守り神。
柳──蛇。病を癒やし厄を解く、冷ややかで神秘的な存在。
灰──鼠。影のように生き、陰と陽を行き来する。人々は畏れと敬意を抱く。
これらの動物は“仙家”の象徴とされてきた。
人々はその力を借りて、病を治し、災いを避け、運命を占う。
そして、その媒介となる者──仙を呼び降ろす者。
それが、“出馬仙”と呼ばれる人々である。
彼らは“神”ではなく“人”だ。
だが、儀式の最中に仙がその身に宿るとき、
声も瞳も、まるで別の存在へと変わるという。
“出馬仙”は占い師であり、巫女であり、医師でもある。
そして何より、“人と神の狭間に立つ者”だった。
今でも東北の市や廟会では、
線香の煙の向こうに、赤布を掛けた香案が見えることがある。
その前に座る老女の唇が、かすかに動いた。
「仙家、いらっしゃい。」
その一言とともに、
空気がふっと変わり、そこだけ世界がねじれる──
そう語る人もいる。
安倍真言がその言葉を初めて聞いたとき、
彼は思わず首を傾げた。
「“出馬”? 出場とか出陣みたいな意味?」
林莉莉は笑いながら首を振った。
「似てるけど違うわ。
東北の“出馬仙”っていうのは、
本当に“仙家”と交わることができる人のことよ。」
真言は隣を見る。
ホテルのロビーのソファに座る少女──
彼女こそ、“出馬仙”だという東北出身のキキだった。
ジーンズのジャケットを無造作に羽織り、
中にはゆったりしたグレーのセーター。
髪をざっくりまとめ、瞳は明るく、唇には小さな笑み。
手首の赤い紐が揺れ、照明を受けて微かに光る。
その光が、彼女に説明のつかない神秘を添えていた。
真言は目を離せなかった。
想像していた“霊媒”とはまるで違う。
山奥の巫女のような重さもなく、
むしろ都会的で快活で、どこか自由だった。
リリィはそんな彼の視線に気づいて笑う。
「キキは東北の子よ。
冬は日本の北国みたいに長くて厳しいの。
雪が屋根も道も埋めるほどね。
でも──あそこにはもう一つの名前がある。“満州”。」
真言は頷いた。
“東北”という言葉が、ただの地名ではないことを理解する。
そこには、歴史と記憶の重みが眠っていた。
キキはその土地の風をまとった人間だった。
大雑把で明るいが、その奥に
“見えている者”特有の静けさがある。
「ねえ、上に行こう。」
キキが立ち上がり、声を弾ませた。
「このホテル、ちょっと変な感じがするんだよね。」
真言は眉をひそめる。
「変って、どういう?」
リリィが肩をすくめる。
「彼女の“変”は、インテリアの話じゃないの。」
キキは真言を見て、にやりと笑った。
「さっき来る時ね──
あなたの後ろに“影”が一つ、ついてきた気がしたの。」
真言の背筋が凍る。
「……冗談だよね?」
「たぶん見間違い。でも念のため、ね。」
軽い調子の声に、どこか本気の響きが混じっていた。
真言は半歩後ずさり、リリィを見る。
リリィは苦笑して手を振った。
「心配しなくていいわ。キキはいつもこうなの。
感っていうか、もうクセみたいなものよ。」
三人はエレベーターへと向かう。
キキがふと口を開いた。
「ホテルに泊まる時のルールって、知ってる?
部屋に入る前は、必ずノック。
“お邪魔します”って言ってからね。
もし中に……“誰か”がいたら困るでしょ?」
真言は乾いた笑いを漏らした。
「“誰か”って……まさか、幽霊とか?」
「それはね──あとで教えてあげる。」
エレベーターの中は、白い光に満たされていた。
空気は冷たく、妙に重い。
「中国のホテルって、“4階”のボタンがない所が多いの知ってる?」
キキが神妙な顔で言った。
「“四(スー)”と“死(スー)”が同じ音だからね。
誰だって“死の部屋”には泊まりたくないでしょ?」
真言はパネルを見上げた。
確かに、3階の次は5階だ。
日本でも“4”や“9”を避ける風習はあるが、
こうして聞くと、背筋が少し冷えた。
キキはいたずらっぽく笑いながら続けた。
「鏡をベッドの正面に置いちゃダメ。
夜中に目を開けて映ったら……自分だけとは限らない。」
「スリッパを片方裏返して脱ぐのもダメ。
“呼んじゃう”らしいの。
あとね、夜に服を窓辺とかバスルームのドアに掛けないこと。
“何か”がその形を借りて出てくるかも。」
彼女は手首の赤い紐を指でなぞった。
「これね、十年以上のお守り。
どこに行く時も一緒。」
真言の背中に冷たいものが這う。
日本にも似た禁忌はあるが、
こうして一つずつ語られると、不思議と胸がざわめいた。
「チン」という音が鳴り、エレベーターが止まる。
扉が開くと、長い廊下が続いていた。
厚い絨毯が足音を吸い込み、天井のライトがちらつく。
奥の暗がりに、誰かが立っているように見えた。
真言が部屋の前で立ち止まると、キキが目を細めた。
「やっぱり……あんまり良くないね。」
「え?」
キキは顎を上げ、周囲を見渡した。
「この部屋、廊下の一番奥でしょ。
こういう“突き当たりの部屋”って、気が淀むのよ。
“モノ”が集まりやすい。
まあ、知ってる人なら絶対選ばないかな。」
真言の胸がどくりと鳴る。
清潔で新しいホテルなのに、なぜか心がざわついた。
リリィが苦笑する。
「ちょっと、キキ!初対面の人を怖がらせないで。」
「大丈夫、大丈夫! 何かいたら、あたしが何とかする!」
その明るさに、真言の緊張が少し緩む。
彼女は唐突で口も悪い。けれど、どこか真っすぐだった。
なぜか、その存在が頼もしく感じられた。
真言は深呼吸をし、カードキーを手に取る。
廊下に静かな電子音が響いた。
ピッ。
──ロックが外れる音がした。
──出馬仙。
“出馬”とは、仙家が人に憑き、
その口や手足を借りて現世に姿を現すことをいう。
東北では、五種類の“仙”が特に知られている。
狐──狡猾で賢く、言葉と知恵を司る。
黄──黄鼬。俊敏で家を守り、邪を祓う。
白──ハリネズミ。五穀豊穣の守り神。
柳──蛇。病を癒やし厄を解く、冷ややかで神秘的な存在。
灰──鼠。影のように生き、陰と陽を行き来する。人々は畏れと敬意を抱く。
これらの動物は“仙家”の象徴とされてきた。
人々はその力を借りて、病を治し、災いを避け、運命を占う。
そして、その媒介となる者──仙を呼び降ろす者。
それが、“出馬仙”と呼ばれる人々である。
彼らは“神”ではなく“人”だ。
だが、儀式の最中に仙がその身に宿るとき、
声も瞳も、まるで別の存在へと変わるという。
“出馬仙”は占い師であり、巫女であり、医師でもある。
そして何より、“人と神の狭間に立つ者”だった。
今でも東北の市や廟会では、
線香の煙の向こうに、赤布を掛けた香案が見えることがある。
その前に座る老女の唇が、かすかに動いた。
「仙家、いらっしゃい。」
その一言とともに、
空気がふっと変わり、そこだけ世界がねじれる──
そう語る人もいる。
安倍真言がその言葉を初めて聞いたとき、
彼は思わず首を傾げた。
「“出馬”? 出場とか出陣みたいな意味?」
林莉莉は笑いながら首を振った。
「似てるけど違うわ。
東北の“出馬仙”っていうのは、
本当に“仙家”と交わることができる人のことよ。」
真言は隣を見る。
ホテルのロビーのソファに座る少女──
彼女こそ、“出馬仙”だという東北出身のキキだった。
ジーンズのジャケットを無造作に羽織り、
中にはゆったりしたグレーのセーター。
髪をざっくりまとめ、瞳は明るく、唇には小さな笑み。
手首の赤い紐が揺れ、照明を受けて微かに光る。
その光が、彼女に説明のつかない神秘を添えていた。
真言は目を離せなかった。
想像していた“霊媒”とはまるで違う。
山奥の巫女のような重さもなく、
むしろ都会的で快活で、どこか自由だった。
リリィはそんな彼の視線に気づいて笑う。
「キキは東北の子よ。
冬は日本の北国みたいに長くて厳しいの。
雪が屋根も道も埋めるほどね。
でも──あそこにはもう一つの名前がある。“満州”。」
真言は頷いた。
“東北”という言葉が、ただの地名ではないことを理解する。
そこには、歴史と記憶の重みが眠っていた。
キキはその土地の風をまとった人間だった。
大雑把で明るいが、その奥に
“見えている者”特有の静けさがある。
「ねえ、上に行こう。」
キキが立ち上がり、声を弾ませた。
「このホテル、ちょっと変な感じがするんだよね。」
真言は眉をひそめる。
「変って、どういう?」
リリィが肩をすくめる。
「彼女の“変”は、インテリアの話じゃないの。」
キキは真言を見て、にやりと笑った。
「さっき来る時ね──
あなたの後ろに“影”が一つ、ついてきた気がしたの。」
真言の背筋が凍る。
「……冗談だよね?」
「たぶん見間違い。でも念のため、ね。」
軽い調子の声に、どこか本気の響きが混じっていた。
真言は半歩後ずさり、リリィを見る。
リリィは苦笑して手を振った。
「心配しなくていいわ。キキはいつもこうなの。
感っていうか、もうクセみたいなものよ。」
三人はエレベーターへと向かう。
キキがふと口を開いた。
「ホテルに泊まる時のルールって、知ってる?
部屋に入る前は、必ずノック。
“お邪魔します”って言ってからね。
もし中に……“誰か”がいたら困るでしょ?」
真言は乾いた笑いを漏らした。
「“誰か”って……まさか、幽霊とか?」
「それはね──あとで教えてあげる。」
エレベーターの中は、白い光に満たされていた。
空気は冷たく、妙に重い。
「中国のホテルって、“4階”のボタンがない所が多いの知ってる?」
キキが神妙な顔で言った。
「“四(スー)”と“死(スー)”が同じ音だからね。
誰だって“死の部屋”には泊まりたくないでしょ?」
真言はパネルを見上げた。
確かに、3階の次は5階だ。
日本でも“4”や“9”を避ける風習はあるが、
こうして聞くと、背筋が少し冷えた。
キキはいたずらっぽく笑いながら続けた。
「鏡をベッドの正面に置いちゃダメ。
夜中に目を開けて映ったら……自分だけとは限らない。」
「スリッパを片方裏返して脱ぐのもダメ。
“呼んじゃう”らしいの。
あとね、夜に服を窓辺とかバスルームのドアに掛けないこと。
“何か”がその形を借りて出てくるかも。」
彼女は手首の赤い紐を指でなぞった。
「これね、十年以上のお守り。
どこに行く時も一緒。」
真言の背中に冷たいものが這う。
日本にも似た禁忌はあるが、
こうして一つずつ語られると、不思議と胸がざわめいた。
「チン」という音が鳴り、エレベーターが止まる。
扉が開くと、長い廊下が続いていた。
厚い絨毯が足音を吸い込み、天井のライトがちらつく。
奥の暗がりに、誰かが立っているように見えた。
真言が部屋の前で立ち止まると、キキが目を細めた。
「やっぱり……あんまり良くないね。」
「え?」
キキは顎を上げ、周囲を見渡した。
「この部屋、廊下の一番奥でしょ。
こういう“突き当たりの部屋”って、気が淀むのよ。
“モノ”が集まりやすい。
まあ、知ってる人なら絶対選ばないかな。」
真言の胸がどくりと鳴る。
清潔で新しいホテルなのに、なぜか心がざわついた。
リリィが苦笑する。
「ちょっと、キキ!初対面の人を怖がらせないで。」
「大丈夫、大丈夫! 何かいたら、あたしが何とかする!」
その明るさに、真言の緊張が少し緩む。
彼女は唐突で口も悪い。けれど、どこか真っすぐだった。
なぜか、その存在が頼もしく感じられた。
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ピッ。
──ロックが外れる音がした。
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