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残っていた仕事を放ったらかし、無理矢理定時でオフィスを出た俺は、デパ地下で惣菜やアルコール類を買い、バス停へ向かった。
途中でスマホで電話をかける。相手は二コール目で電話に出てくれた。
「あ、真由子さん? 久しぶり」
「横山君、久しぶりだね。どうしたの?私、何か仕事でやらかしてた?今頃地雷が爆発した?」
真由子さんが電話に出てくれて、声も思っていた以上に元気そうで、心底安心した。
会社を辞める直前はひどく疲弊していたようだが、軽口を叩くくらいには回復したようだ。
「いや、仕事は何も問題ないよ。そうじゃなくて、真由子さんの送別会、してなかったと思って。ただ、当分忙しくて飲み会をする時間が取れそうにないから、代わりに、せめて宅飲みでもさせてほしいんだけど、これから真由子さんの家行っていい? 酒と食べ物は持って行くから」
俺は有無を言わさぬ口調で問いかけた。
この機会を逃したら、おそらく一生実行できずに終わってしまう。
何としても今日、彼女と会っておきたい。
「急だね」
「ごめん。迷惑かけるのは重々承知なんだけど、でも、俺が関わっているプロジェクトが炎上していて残業続きで、今日くらいしか時間が取れそうにないんだ」
真由子さんは苦笑しながらも承諾してくれた。
あらかじめ日程を組んでいなかったのは申し訳ないが、どうしても彼女と二人で会っておきたかった。
中嶋友希哉と吉川麻里奈の結婚式の前に。
「これからバスに乗るから、あと二十分くらいで着くと思う」
「了解! 待ってまーす」
バス停に着くと、五人ほどの列ができていた。
最後尾に並び、高鳴る鼓動を落ち着けようとした。
今日、自分の気持ちとケジメをつける。そう決めたのだ。
試合にに向かう格闘家のように気合を入れる。
バスが到着し、俺はバスに乗り込んだ。
帰宅ラッシュを少し過ぎた車内は予想より空いていて、右後ろの席に座る。
雨が降り始めたようで、無数の滴が窓を叩いた。
バスを降りて彼女のアパートへ向かった。
傘を持っていなかったので、小走りで目的地を目指す。
真由子さんの部屋には以前何度か同期で宅飲みをした時に行っているから、場所は覚えている。
こぢんまりとした二階建てアパートの二◯三号室。
インターホンを鳴らすと付随しているモニターのレンズが俺を捕らえた。
スピーカーからどうぞという声が聞こえる。
俺がドアを開けると真由子さんは笑顔で出迎えてくれたが、どことなくぎこちない笑顔だった。
「久しぶり。武田さんは?」
「子どもを預けられなくてどうしても来れないって」
俺は出まかせを言った。
本当は声すらかけていない。
真由子さんは少し寂しそうな表情になり、心が痛んだが、武田さんを呼ぶことはできなかった。
真由子さんと二人きりで、缶ビールで乾杯し、適当に惣菜をつまむ。
真由子さんは嬉しそうにデパ地下で人気のサラダを口に運んだが、食べる量は明らかに少なかった。
食欲がないのか、退職した時から痩せたようだ。
それほど中嶋友希哉との別れがもたらした傷痕は大きかったのか。
彼女への哀れみと、中嶋友希哉への嫉妬で胸が締め付けられた。
残業以外で、真由子さんと二人になるのは初めてだった。
いつも武田さんと三人でいたから、いざ狭い空間で二人になると緊張する。
俺は真由子さんに会社の近況を伝えた。
自分のいるプロジェクトが炎上していること、武田さんは元気でやっていること、今田さんと内藤さんが寂しそうにしていること。
ある程度軽い話題を話し終えたら、俺は会社で起こった事件に話を移した。
「でも驚いたよ。
真由子さんが退職した翌日、麻美さんとか平川さんとかが数人休んだんだよ。
そして武田さんが、真由子さんからもらったっていう封筒を開けてみたら、麻美さんと、休んだ人達との不倫写真が大量に入ってて、みんな騒然としたよ。
中には平川さんも写っていてさ、平川さんの奥さんに聞いたら、どうやら平川さん、股間がかぶれて休んでたらしい。
麻美さんに性病を移された可能性が大きいって言ってた。
他の人達もきっと同じ症状で休んでたんだと思う。
真由子さん、知ってたの?」
真由子さんは微笑んだ。
その微笑みは悪魔のそれと彷彿とさせた。
人の不幸を甘い蜜の様に吸う悪魔だ。
「佐藤麻美の節操のなさがもたらした、自業自得だね。人を次々不幸にする病原菌みたいな女」
彼女は冷たい目をしていた。
佐藤麻美を口汚く罵る様子は、今までの彼女からは想像できない醜さが垣間見えた。
アルコールがそうさせたのか、言葉の節々に攻撃性が伴っている。
こんな真由子さん、見たことない。
「それから、菅野さんが会社クビになったんだよ」
「そうなの!?」
彼女はへえ、と気の抜けた声を上げながら二本目のビールを開けた。
プシュっという軽い音が鳴り、ビールは真由子さんの口元へ運ばれる。
食べ物はあまり進んでいないが酒のペースは早い。
俺は話を続けた。
「会社の金を横領したんだよ。社長が警察沙汰にしたくなかったらしくて逮捕せずに済ませたらしいけど」
「あいつも馬鹿だね」
「原因とか、何か知ってる? なんか、女性がらみのことじゃないかと噂されているけど。麻美さんのことを知っていた真由子さんなら何かわかるかと思って」
「いや、なーんにも」
首を横に小刻みに振りながら答えた。根拠はないが、おそらくこれも彼女が関係しているに違いない。
探りを入れてみたが、彼女は知らないとだけ返した。
彼女との話から得られたものはあまりなかったが、それでも彼女と話題を共有したことで、何かを掴めた様な気がした。
「真由子さん、今は何しているの?」
「バイト三昧」
「何のバイト?」
「内緒」
「そう……無理してない?」
「うん、今度は大丈夫。やりたい事が見つかって、それに向かって頑張ってるんだ」
さりげなく彼女の部屋を見渡した。
興信所の紙袋が目に入った。
佐藤麻美の調査をするために使ったのだろうか。
鏡台を見ると、以前来た時には無かったような派手な化粧品が並んでいた。
仕事を辞めてから真由子さんは変わってしまったのかとショックを受けた。
俺の知らない真由子さんに変わってしまうのではないかと不安になった。
ゆっくりと、波にさらわれるように、俺の手の届かない場所に行ってしまうような気がした。
手が届くうちに、しっかりと握りしめておかなければ。
「ごめん、今日来たのは、真由子さんに伝えたいことがあってなんだ」
真由子さんは察したようで、あまり乗り気じゃなさそうな顔をした。
できればその話は避けたい、聞きたくないという気持ちが表情から読み取れる。
それでも、酔っ払ったふりなどせずに、神妙な顔で頷いた。
「真由子さん、痩せたね。ちゃんと食べれてる?」
「大丈夫だよ。食べてるよ」
「サラダを少ししか食べてないよね?」
「そう? 結構食べたよ?」
「まだ中嶋さんのこと引きずってるの?」
彼女は言葉につまった。
目が泳ぎ、次の言葉を紡ごうと、唇を開けたり閉じたりしている。
「そんな事はないよ。もう吹っ切れたよ」
しばらくして、か細い声で彼女はそう答えた。
無理して引き攣った笑顔を作っている。こんなのただの強がりだ。
「今の君を見ているとそうは思えない」
「バレた? 実は引きずってる」
真由子さんは髪をいじりながら苦笑した。
俺と目を合わせようとせず、俯いている。
俺は真由子さんに近づいて、彼女の顔を覗き込む様にして言った。
「俺は前から真由子さんのことが好きだった。俺は君を裏切らない。幸せにする」
今の言葉に嘘はない。
なぜ佐藤麻美や菅野に起こった出来事を真由子さんが知っているのか。
俺の予測では、真由子さんが仕掛けているからだ。
この二人が真由子さんにひどい事をしているのは知っていた。
もし彼女が、佐藤麻美や菅野に復讐をしているのなら、それほど苦しんでいるのなら、その苦しみから解放してあげたい。
他人の不幸を糧にするのではなく、自分の幸せのために生きてほしい。
俺は彼女を幸せにしてあげたい。
中嶋友希哉といた時ほどではないにしても、今より幸せにしてあげられる自信はある。
いや、絶対に幸せにすると誓う。
真由子さんは俺の目を見た。
しかしすぐに目を伏せて、唇をかんだ。
「……ありがとう。でもごめん、その気持ちには応えられない」
絞り出す様な声だった。
彼女の顔が泣き出しそうに歪む。
「俺の事が嫌いなの?」
「そうじゃないの」
「まだ中嶋さんのことが好きなのか?」
彼女は黙った。
「君のことを振った人のことは忘れて、自分の幸せの事を考えた方がいいんじゃないか?」
「分かってるよ」
「あの男は君を裏切ったんだ!」
気持ちに応えてもらうことができず、俺はきつい口調になってしまった。
彼女を傷つけたいわけじゃないのに。
「わかってるよ!
友希哉がわたしを裏切ったことも、横山君と一緒になった方が幸せなことも、頭では分かってる。
でも、気持ちが追いつかないの。
わたしにとって、友希哉は特別だから……なにも出来ない私の手を引っ張ってくれたのも、コンプレックスばっかりの私に自信をくれたのも、地味だった私を綺麗にしてくれたのも、他の誰でもない友希哉で、わたしはまだ友希哉のことを愛してるの」
真由子さんは大粒の涙を流しながら、一言一言を噛み締めるように言った。
まるで自分に言い聞かせているように。
「初めて友希哉の事を意識したのは、仕事で失敗した時のことだったの。わたしがまだエンジニアをしていた時、ミスをしたせいで、友希哉が客先へ謝りに行ってくれたの」
真由子さんは、中嶋友希哉との思い出を語った。
俺は耳を塞ぎたかったが、彼女を受け入れたいという気持ちから、黙って聞くことにした。
『申し訳ありませんでした。わたしのせいで』
真由子さんが謝ると、中嶋友希哉は何事もなかったように笑って見せたらしい。
『気にしなくていいよ。俺が頭を下げればなんとかなるんだから。営業は謝るのが仕事』
『でも、土下座までさせられたなんて』
『大丈夫、慣れてるし。俺、怒鳴られるの平気なんだ』
『でも』
『知ってる? あそこの担当者、怒ると顔が真っ赤になるの。茹でダコみたいで、土下座しながら吹き出しちゃった。タコが喋ってるって思ったら面白くて面白くて。笑いを堪えてたら肩がプルプル震えちゃって、泣いていると勘違いされたみたいでさ。これくらいで泣いてんじゃねえぞって言われたんだけど、滑舌悪くて日本語に聞こえなくてさ。そりゃタコだもん、上手に喋れる訳ないよなーとか考えてたらまた面白くなって、気がついたらお説教終わって許されてた』
真由子さんは、冗談めかした言い方に、つい笑ってしまったらしい。
『あ、笑ってくれた』
『いえ、すみません』
『すこしは元気出た?』
『はい。お陰様で』
『良かった。また明日、笑顔で会社に来てね』
彼女が中嶋を意識し始めたのはそれからのことだった。
奥手な真由子さんが、珍しく恋に積極的になったらしい。
『あの、中嶋さん、今日この後時間ありますか?』
真由子さんが勇気を出して声をかけると、パソコンに向き合っていた中嶋は、難しそうな顔で言った。
『提案書と昨日の会議の議事録を明日までに仕上げないといけなくて』
『そうですか。大変な時に声かけちゃってすみません』
『真由子さん、パソコン得意?』
『まあ、人並みには』
『ワードとかは?』
『そこそこ出来ます』
『議事録作るの手伝ってくれない?』
『はい!』
そうして、二人は時間を共にした。
長時間の残業となったが、真由子さんにとっては、好きな人の手伝いは全く苦ではなかったらしい。
『真由子さんのお陰で早く終わったよ、ありがとう』
『いえ、中嶋さんにはいつも迷惑かけてるので、お役に立てて良かったです』
『じゃあ、よかったら、お礼に、ご飯、ご馳走させてくれる?』
『ええ!?そんな、悪いです』
『そっか、俺と二人じゃ嫌?』
『いえ、じゃあ、お言葉に甘えて』
こうやって長い時間をかけて、二人は絆を深めていった。
イメージチェンジをした時のこと、初めて二人で出かけた時のこと、今でも記憶に刻み込まれていると彼女は言った。
『あれ?コンタクトにしたの?』
『はい!あ、でも、似合いませんよね』
『いや、メガネより似合ってるよ』
『すみません、化粧、濃すぎますよね』
『いや、そうじゃなくて普段と雰囲気違うから、少し驚いた』
『ありがとうございます』
『水色の服、似合うね』
『大好きなんです』
彼女が涙を流しながら話す思い出の数々に、俺は打ちのめされた。
彼女の胸にあるのは中嶋友希哉のことばかり。
俺の入る隙間なんてこれっぽっちもなかった。
「ごめんね、横山君。わたしのことを思って言ってくれているのは分かっているの。でもお願い、わたしのことは放っておいて」
「……俺じゃ駄目なんだね」
「ごめんなさい」
「じゃあ、俺からのお願い、一つだけ聞いて。とにかく、幸せになって。俺は真由子さんが幸せなら、それでいいから」
俺はビールの空き缶などのゴミをビニール袋に集めて、彼女の部屋を後にした。
雨がいつの間にか上がっていて、月が見えていた。
白く浮かび上がる月は酷く綺麗に見えた。
「俺じゃあ、だめなのか……」
涙がこぼれ落ちないように、上を向いた。
しかし溢れる涙の粒は、重力に逆らうことは出来ず、俺の頬を伝った。
涙は次第に嗚咽となって、月明かりの照らす静かな夜の道に響いた。
途中でスマホで電話をかける。相手は二コール目で電話に出てくれた。
「あ、真由子さん? 久しぶり」
「横山君、久しぶりだね。どうしたの?私、何か仕事でやらかしてた?今頃地雷が爆発した?」
真由子さんが電話に出てくれて、声も思っていた以上に元気そうで、心底安心した。
会社を辞める直前はひどく疲弊していたようだが、軽口を叩くくらいには回復したようだ。
「いや、仕事は何も問題ないよ。そうじゃなくて、真由子さんの送別会、してなかったと思って。ただ、当分忙しくて飲み会をする時間が取れそうにないから、代わりに、せめて宅飲みでもさせてほしいんだけど、これから真由子さんの家行っていい? 酒と食べ物は持って行くから」
俺は有無を言わさぬ口調で問いかけた。
この機会を逃したら、おそらく一生実行できずに終わってしまう。
何としても今日、彼女と会っておきたい。
「急だね」
「ごめん。迷惑かけるのは重々承知なんだけど、でも、俺が関わっているプロジェクトが炎上していて残業続きで、今日くらいしか時間が取れそうにないんだ」
真由子さんは苦笑しながらも承諾してくれた。
あらかじめ日程を組んでいなかったのは申し訳ないが、どうしても彼女と二人で会っておきたかった。
中嶋友希哉と吉川麻里奈の結婚式の前に。
「これからバスに乗るから、あと二十分くらいで着くと思う」
「了解! 待ってまーす」
バス停に着くと、五人ほどの列ができていた。
最後尾に並び、高鳴る鼓動を落ち着けようとした。
今日、自分の気持ちとケジメをつける。そう決めたのだ。
試合にに向かう格闘家のように気合を入れる。
バスが到着し、俺はバスに乗り込んだ。
帰宅ラッシュを少し過ぎた車内は予想より空いていて、右後ろの席に座る。
雨が降り始めたようで、無数の滴が窓を叩いた。
バスを降りて彼女のアパートへ向かった。
傘を持っていなかったので、小走りで目的地を目指す。
真由子さんの部屋には以前何度か同期で宅飲みをした時に行っているから、場所は覚えている。
こぢんまりとした二階建てアパートの二◯三号室。
インターホンを鳴らすと付随しているモニターのレンズが俺を捕らえた。
スピーカーからどうぞという声が聞こえる。
俺がドアを開けると真由子さんは笑顔で出迎えてくれたが、どことなくぎこちない笑顔だった。
「久しぶり。武田さんは?」
「子どもを預けられなくてどうしても来れないって」
俺は出まかせを言った。
本当は声すらかけていない。
真由子さんは少し寂しそうな表情になり、心が痛んだが、武田さんを呼ぶことはできなかった。
真由子さんと二人きりで、缶ビールで乾杯し、適当に惣菜をつまむ。
真由子さんは嬉しそうにデパ地下で人気のサラダを口に運んだが、食べる量は明らかに少なかった。
食欲がないのか、退職した時から痩せたようだ。
それほど中嶋友希哉との別れがもたらした傷痕は大きかったのか。
彼女への哀れみと、中嶋友希哉への嫉妬で胸が締め付けられた。
残業以外で、真由子さんと二人になるのは初めてだった。
いつも武田さんと三人でいたから、いざ狭い空間で二人になると緊張する。
俺は真由子さんに会社の近況を伝えた。
自分のいるプロジェクトが炎上していること、武田さんは元気でやっていること、今田さんと内藤さんが寂しそうにしていること。
ある程度軽い話題を話し終えたら、俺は会社で起こった事件に話を移した。
「でも驚いたよ。
真由子さんが退職した翌日、麻美さんとか平川さんとかが数人休んだんだよ。
そして武田さんが、真由子さんからもらったっていう封筒を開けてみたら、麻美さんと、休んだ人達との不倫写真が大量に入ってて、みんな騒然としたよ。
中には平川さんも写っていてさ、平川さんの奥さんに聞いたら、どうやら平川さん、股間がかぶれて休んでたらしい。
麻美さんに性病を移された可能性が大きいって言ってた。
他の人達もきっと同じ症状で休んでたんだと思う。
真由子さん、知ってたの?」
真由子さんは微笑んだ。
その微笑みは悪魔のそれと彷彿とさせた。
人の不幸を甘い蜜の様に吸う悪魔だ。
「佐藤麻美の節操のなさがもたらした、自業自得だね。人を次々不幸にする病原菌みたいな女」
彼女は冷たい目をしていた。
佐藤麻美を口汚く罵る様子は、今までの彼女からは想像できない醜さが垣間見えた。
アルコールがそうさせたのか、言葉の節々に攻撃性が伴っている。
こんな真由子さん、見たことない。
「それから、菅野さんが会社クビになったんだよ」
「そうなの!?」
彼女はへえ、と気の抜けた声を上げながら二本目のビールを開けた。
プシュっという軽い音が鳴り、ビールは真由子さんの口元へ運ばれる。
食べ物はあまり進んでいないが酒のペースは早い。
俺は話を続けた。
「会社の金を横領したんだよ。社長が警察沙汰にしたくなかったらしくて逮捕せずに済ませたらしいけど」
「あいつも馬鹿だね」
「原因とか、何か知ってる? なんか、女性がらみのことじゃないかと噂されているけど。麻美さんのことを知っていた真由子さんなら何かわかるかと思って」
「いや、なーんにも」
首を横に小刻みに振りながら答えた。根拠はないが、おそらくこれも彼女が関係しているに違いない。
探りを入れてみたが、彼女は知らないとだけ返した。
彼女との話から得られたものはあまりなかったが、それでも彼女と話題を共有したことで、何かを掴めた様な気がした。
「真由子さん、今は何しているの?」
「バイト三昧」
「何のバイト?」
「内緒」
「そう……無理してない?」
「うん、今度は大丈夫。やりたい事が見つかって、それに向かって頑張ってるんだ」
さりげなく彼女の部屋を見渡した。
興信所の紙袋が目に入った。
佐藤麻美の調査をするために使ったのだろうか。
鏡台を見ると、以前来た時には無かったような派手な化粧品が並んでいた。
仕事を辞めてから真由子さんは変わってしまったのかとショックを受けた。
俺の知らない真由子さんに変わってしまうのではないかと不安になった。
ゆっくりと、波にさらわれるように、俺の手の届かない場所に行ってしまうような気がした。
手が届くうちに、しっかりと握りしめておかなければ。
「ごめん、今日来たのは、真由子さんに伝えたいことがあってなんだ」
真由子さんは察したようで、あまり乗り気じゃなさそうな顔をした。
できればその話は避けたい、聞きたくないという気持ちが表情から読み取れる。
それでも、酔っ払ったふりなどせずに、神妙な顔で頷いた。
「真由子さん、痩せたね。ちゃんと食べれてる?」
「大丈夫だよ。食べてるよ」
「サラダを少ししか食べてないよね?」
「そう? 結構食べたよ?」
「まだ中嶋さんのこと引きずってるの?」
彼女は言葉につまった。
目が泳ぎ、次の言葉を紡ごうと、唇を開けたり閉じたりしている。
「そんな事はないよ。もう吹っ切れたよ」
しばらくして、か細い声で彼女はそう答えた。
無理して引き攣った笑顔を作っている。こんなのただの強がりだ。
「今の君を見ているとそうは思えない」
「バレた? 実は引きずってる」
真由子さんは髪をいじりながら苦笑した。
俺と目を合わせようとせず、俯いている。
俺は真由子さんに近づいて、彼女の顔を覗き込む様にして言った。
「俺は前から真由子さんのことが好きだった。俺は君を裏切らない。幸せにする」
今の言葉に嘘はない。
なぜ佐藤麻美や菅野に起こった出来事を真由子さんが知っているのか。
俺の予測では、真由子さんが仕掛けているからだ。
この二人が真由子さんにひどい事をしているのは知っていた。
もし彼女が、佐藤麻美や菅野に復讐をしているのなら、それほど苦しんでいるのなら、その苦しみから解放してあげたい。
他人の不幸を糧にするのではなく、自分の幸せのために生きてほしい。
俺は彼女を幸せにしてあげたい。
中嶋友希哉といた時ほどではないにしても、今より幸せにしてあげられる自信はある。
いや、絶対に幸せにすると誓う。
真由子さんは俺の目を見た。
しかしすぐに目を伏せて、唇をかんだ。
「……ありがとう。でもごめん、その気持ちには応えられない」
絞り出す様な声だった。
彼女の顔が泣き出しそうに歪む。
「俺の事が嫌いなの?」
「そうじゃないの」
「まだ中嶋さんのことが好きなのか?」
彼女は黙った。
「君のことを振った人のことは忘れて、自分の幸せの事を考えた方がいいんじゃないか?」
「分かってるよ」
「あの男は君を裏切ったんだ!」
気持ちに応えてもらうことができず、俺はきつい口調になってしまった。
彼女を傷つけたいわけじゃないのに。
「わかってるよ!
友希哉がわたしを裏切ったことも、横山君と一緒になった方が幸せなことも、頭では分かってる。
でも、気持ちが追いつかないの。
わたしにとって、友希哉は特別だから……なにも出来ない私の手を引っ張ってくれたのも、コンプレックスばっかりの私に自信をくれたのも、地味だった私を綺麗にしてくれたのも、他の誰でもない友希哉で、わたしはまだ友希哉のことを愛してるの」
真由子さんは大粒の涙を流しながら、一言一言を噛み締めるように言った。
まるで自分に言い聞かせているように。
「初めて友希哉の事を意識したのは、仕事で失敗した時のことだったの。わたしがまだエンジニアをしていた時、ミスをしたせいで、友希哉が客先へ謝りに行ってくれたの」
真由子さんは、中嶋友希哉との思い出を語った。
俺は耳を塞ぎたかったが、彼女を受け入れたいという気持ちから、黙って聞くことにした。
『申し訳ありませんでした。わたしのせいで』
真由子さんが謝ると、中嶋友希哉は何事もなかったように笑って見せたらしい。
『気にしなくていいよ。俺が頭を下げればなんとかなるんだから。営業は謝るのが仕事』
『でも、土下座までさせられたなんて』
『大丈夫、慣れてるし。俺、怒鳴られるの平気なんだ』
『でも』
『知ってる? あそこの担当者、怒ると顔が真っ赤になるの。茹でダコみたいで、土下座しながら吹き出しちゃった。タコが喋ってるって思ったら面白くて面白くて。笑いを堪えてたら肩がプルプル震えちゃって、泣いていると勘違いされたみたいでさ。これくらいで泣いてんじゃねえぞって言われたんだけど、滑舌悪くて日本語に聞こえなくてさ。そりゃタコだもん、上手に喋れる訳ないよなーとか考えてたらまた面白くなって、気がついたらお説教終わって許されてた』
真由子さんは、冗談めかした言い方に、つい笑ってしまったらしい。
『あ、笑ってくれた』
『いえ、すみません』
『すこしは元気出た?』
『はい。お陰様で』
『良かった。また明日、笑顔で会社に来てね』
彼女が中嶋を意識し始めたのはそれからのことだった。
奥手な真由子さんが、珍しく恋に積極的になったらしい。
『あの、中嶋さん、今日この後時間ありますか?』
真由子さんが勇気を出して声をかけると、パソコンに向き合っていた中嶋は、難しそうな顔で言った。
『提案書と昨日の会議の議事録を明日までに仕上げないといけなくて』
『そうですか。大変な時に声かけちゃってすみません』
『真由子さん、パソコン得意?』
『まあ、人並みには』
『ワードとかは?』
『そこそこ出来ます』
『議事録作るの手伝ってくれない?』
『はい!』
そうして、二人は時間を共にした。
長時間の残業となったが、真由子さんにとっては、好きな人の手伝いは全く苦ではなかったらしい。
『真由子さんのお陰で早く終わったよ、ありがとう』
『いえ、中嶋さんにはいつも迷惑かけてるので、お役に立てて良かったです』
『じゃあ、よかったら、お礼に、ご飯、ご馳走させてくれる?』
『ええ!?そんな、悪いです』
『そっか、俺と二人じゃ嫌?』
『いえ、じゃあ、お言葉に甘えて』
こうやって長い時間をかけて、二人は絆を深めていった。
イメージチェンジをした時のこと、初めて二人で出かけた時のこと、今でも記憶に刻み込まれていると彼女は言った。
『あれ?コンタクトにしたの?』
『はい!あ、でも、似合いませんよね』
『いや、メガネより似合ってるよ』
『すみません、化粧、濃すぎますよね』
『いや、そうじゃなくて普段と雰囲気違うから、少し驚いた』
『ありがとうございます』
『水色の服、似合うね』
『大好きなんです』
彼女が涙を流しながら話す思い出の数々に、俺は打ちのめされた。
彼女の胸にあるのは中嶋友希哉のことばかり。
俺の入る隙間なんてこれっぽっちもなかった。
「ごめんね、横山君。わたしのことを思って言ってくれているのは分かっているの。でもお願い、わたしのことは放っておいて」
「……俺じゃ駄目なんだね」
「ごめんなさい」
「じゃあ、俺からのお願い、一つだけ聞いて。とにかく、幸せになって。俺は真由子さんが幸せなら、それでいいから」
俺はビールの空き缶などのゴミをビニール袋に集めて、彼女の部屋を後にした。
雨がいつの間にか上がっていて、月が見えていた。
白く浮かび上がる月は酷く綺麗に見えた。
「俺じゃあ、だめなのか……」
涙がこぼれ落ちないように、上を向いた。
しかし溢れる涙の粒は、重力に逆らうことは出来ず、俺の頬を伝った。
涙は次第に嗚咽となって、月明かりの照らす静かな夜の道に響いた。
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