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第2章
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子機を置いた──つもりが、手元がぶれて床に落ちた。予想以上に大きな音が響き、それでなんとか目が覚めた。
テレビを消して、ソファーに座る。その約一分後にはやっと、まともに思考できる状態になっていた(と思っているのは私だけでハタから見たらどうかはわからない)。
まず夫のことを考える。連絡するべきか。
──否。余計な心配はかけるべきではない。仕事中ならなおのこと。
──じゃあ警察は?
冗談じゃない。そんなことをしたら、ヘタをすれば私は全国中のさらしものになってしまう。今夜のニュースの主役にはなりたくない。
結論は一つ。
私一人で解決するしかない。待ってなんていられない。こっちからで向いて連れ戻す。それが親の役目だろう。
そのためには、奴らの居場所を探り出さなければならない。
──とはいうものの、どうしようか。
我ながら大した苦労もなく、この時代にしては比較的早くに満足できる結婚までこぎ着け、子供も二人できた。二人とも健康。育児に関しても、人並み以上の苦労はなかったと思う。そんな私が、三十代を目前にしてこんな出来事を体験してしまうとは──
──はっ。いけない。軽く現実逃避しそうになってしまった。
あらためて現状を確認する。最優先でするべきは奴らの居場所を知ることだ。
そのための手がかりは──さっきの電話にしかないだろう。いや、厳密にはもっと無数にあるのだろうが、決定的なものはそれだけだと考えて間違いはない。
うちの電話はFAXつきの旧式だ。ついでにいえばもらいもの。各自で携帯電話を持っているんだからいちいち電話にお金をつぎ込む必要はない──夫婦でその結論に至ったのだ。
この電話では、相手のナンバーを表示する機能は使えないが、これに関しては今からごねても始まらない。
さっきの電話を思い出す。
声が聞き取りにくかった。
なんで聞き取りにくかった?
大きな音が邪魔をしたから──車の音だ。ということは外。それも一台や二台ではない。車通りが多い?
外という要素から真っ先に考えられるのは、携帯電話だ。しかしそれはほとんどあり得ない。公衆電話だと考える方が自然だ。
車通りが多い道路にある、外の公衆電話。このご時世、公衆電話なんて探すのが大変なくらいに少ない。さらに「あの要素」を付け加えれば、対象は二、三カ所程度にはしぼれるはずだ。
しかし、奴らの特性を考えると「あの要素」が百パーセント通じるとは断言できない。それに加え、当然奴らだって移動する可能性も高い。さらに、向こうは私の顔を知っている。行き当たりばったりで探していては、もし見つけても逃げられる可能性がある。
先を読め。奴らの動きを読め。狙うは一撃必殺(実際に殺すわけではないが)。初手をかわされれば面倒になることは必至。セオリー通りに行くなら身代金の受け渡しの時だろう。
指定された場所──というよりも、奴らが提案した金の受け渡し方法はかなり特殊だ。
ガチャガチャのカプセルに金を入れ、とある用水路の指定されたポイントに投げ込めというもの。
「ガチャガチャのカプセル」について説明が必要だろうか。
あまり──というか全然重要な要素ではないのだが、公平を期すために一応しておこう。
私の記憶では、よく駄菓子屋に置いてあったものだ。百円玉を指定された場所に設置して、ハンドルをひねる。すると球形のカプセルが出てきて、その中身のものが商品となるのである。機械の正面にはたいてい、カプセルの中身に何が入っているのかを示す表記があるのだが、やはり子供の興味を引くデザインになっていることが多い。しかしこれが実にくせ者で、まずこれの信用性を疑うところから始めなければならない。なぜかというと、まったく違うものが出てくることが多いのだ。しかもそれらのほとんどは百円ですら高すぎると感じるほどの粗悪品なのである。消えない消しゴム、需要がまったく考えられない正体不明の人形、謎のプラスチック片、その他言葉で形容しがたいものたち──百円ということで軽視されがちだが、法律的にはともかく、道徳的には百パーセント詐欺である──と私は思う。
なお、「私の記憶」と「現在の実情」の相違点としては、「駄菓子屋」という文化が絶滅寸前の今、設置場所は主に大手スーパーやデパートであること、百円ではなく二百円のものもある、などがあげられる。
閑話休題。話を元に戻そう。
さて、私はこれからブツを用意しなければならない。
身代金はすでに用意している。残るのは「ガチャガチャのカプセル」である。
いちいちそれを調達するために百円なり二百円を浪費しなければならない、これでは外装と中身の価値が逆転してしまうではないか──とお思いのあなた。それが違うのだ。
なんと奴らは、大胆にもカプセルを用意していたのである。
用意されていた場所は、我が家の一室。そこを探せばすぐに見つかるといっていた。
事実、探す必要すらなかった。
その一室とは、人質である我が子の部屋である。
人質をとことんまで利用してやろうという、鬼畜にすら勝るとも劣らない、極悪非道の所行である──といいたいが、奴らのことだ。そこまで考えていたわけではないと断言しよう。
とにかく、要求されたブツの準備を完了した。
次は外出の準備である。
どういう格好で行くべきか悩んだが、小考の末、ここで策を弄することはやめた。変装するにしろ、行動でバレてしまう。それに私は警察関係者ではなく被害者本人なのだから、変装しても得はない。そう考えていくと、効果的な策が特に思いつかなかったからである。ただ、動きがあるかもしれないため、スカートではなくパンツスタイルで行くことにした。
自分に対して一通りの準備を施して、戸締まりをする。あまり大きな声ではいえないが、日常における我が家の戸締まりは甘い。
それはともかく。
──絶対に連れ戻す。
そう決意して外に出た。
──が。一瞬で心が折れそうになった。
この場合は、「強烈な日射しに、その決意が瞬時に溶けそうになった」とでも形容するべきだろうか。
エアコン恐るべし。
まあ、エアコンのせいにしても太陽のせいにしても始まらない。今一度決意を結び直し、一歩、二歩と踏み込む。これは親である私の役目なのだ。
三歩目を踏み込んだときには、額に汗が浮いていた。
指定されたポイントは、ここから徒歩で二十分ほど。
車の免許は持っているが、一台しかない車は夫が通勤に使っているし、そうでなくても今の目的には適さない。
残る選択肢は自転車か徒歩。三台あるはずの自転車は、一台を残し稼働中だ。つまり、残っているその一台が私のものである。
あまり考えもせずに、自転車の鍵を外した。
サドルにまたがって──飛び上がるようにすぐ降りた。
黒色のソレは、焼けるように熱かったのである。今の時期にはよくあることだった。
手のひらを当てる。熱い。薄い肉ならおいしく焼けそうだ。
待ってみても全然温度が下がらない。
さらに十秒ほど考えて、再びサドルにまたがった。
──我慢我慢。
暑さ以外には大した障害もなく、簡単に目的地まで着いた。あとはカプセルを投げ込むだけだ。
用水路にカプセルを投げ込むと、水に乗って下流に流される。そのためのカプセルなのだろう。
今、巷をにぎわせている誘拐犯。身代金を受け取りに来ない──つまり、受け渡し場所に現れないために未だに捕まっていない。
そこからヒントを得たのだろう、「受け渡し場所に行かなければ捕まることはない」「その状態で金を手に入れるにはどうするべきか」──奴らがそこまで考えたかはわからない。正直な話、奴らの思考を正確にトレースする自信はない。
しかし、この作戦には致命的な欠陥があった。
水流に沿ってカプセルの行方を追えば、犯人にたどり着く。奴らが金を手にするとほぼ同時に身柄を拘束することが可能だ。
アホだ。奴らはアホだ。
その事実は、おかしくもあり悲しくもあった。
さらに。今に限ってはそれ以上の問題があった。
この暑さで、用水路の水が完全に干上がっていたのだ。からっからなのである。なんのための水路かは知らないが、これではただの側溝である。
雨天中止ならぬ、晴天による中止。
脅迫する前に下調べぐらいしろ、といいたい。
そして私は、何を思ったのかそこにカプセルを置いてみた。
ほんの少しの傾斜があるせいか、乾いた音とともにわずかに転がって、止まった。
拾う。
通行人と目があった。
向こうはすぐに目をそらした。
猛暑の下での奇行。暑さで頭がやられたとか思われたかも。
いけないいけない。
と、そのとき。
軽い恥ずかしさの中、平日のまばらな通行人の中に不自然な影を見つけた。
──奴らの片割れだ!
監視していたのだ。考えてみれば監視は当然だ。
自転車に乗って逃げる背中。仲間のところに向かうのだろうか。そうに違いない。
──今に見てろ! 仲間共々一網打尽にしてやる!
私は適度に距離を開けて追跡を開始した。
二分後。
私はターゲットの背中を見失っていた。
距離を開けたのが裏目に出た──のもあるかも知れないが、本質的な原因はそこではない。私と奴の間には絶対に埋まらない溝がある。奴にできて私にできないことがある。その性質をうまく利用されたのだ。
さあここからどうする。
今までのことを考えると、私が追った方ではない片割れがいる場所は特定できない。
ああでもないこうでもないと考えていると。
携帯電話が鳴った。
開いてディスプレイを見る。
公衆電話──
思わず伸びた指をとっさのところで制して、着信音の音量を下げた。
ふたを閉じて、ポケットにしまう。
そう。奴らは私の携帯電話の番号も知っているのだ。
なぜ、さっきは家の電話で今は携帯電話なのか。
正解かどうかはわからないが、考えられる仮説が一つある。
それは私の居場所だ。
一回目の時に携帯にかけた場合、私が奴らのそばにいないとはいいきれない。その場合、途端に計画が頓挫してしまう可能性がある。つまり、スタート地点は絶対に自宅である必要があったのだ。
そして、なぜ今は携帯にかかってきたのか。
それは、奴らが私の居場所をほぼ特定しているからである。それプラス、電話に気をとらせることで足止めしたいという目的もあるかも知れない。それを防止するために私は今、電話に出ないのだ。
とにかく。
ここからは純粋な時間勝負だ。早ければ私の勝ち、遅ければ逃げられる。
前後の状況と電話のタイミングを考えれば、発信元は比較的近くの公衆電話に間違いない。
私は鮮明になりつつあるイメージを頭の中にしまい、ペダルに足をかけた。
案の定、奴らはすぐに見つかった。
私があまりに電話に出ないため、もうあきらめのだろう。二人とも電話ボックスの前にいた。
私が最初から考えていた「あの要素」とは、行動範囲のことである。私から見れば狭く移るが、本人たちにとっては決してそうではないはずだ。そして、ほんの気まぐれでその外に出てみようとも思うだろう。
携帯電話なんて持たせていないから、公衆電話だろうと思った。半ば当然だが、この考えは正しかったことになる。
余所様の敷地を自転車でショートカット。子供はなんとか許されても、いい年した大人にできる技ではない。
二人が私に気付いた。びくびくしているのが手に取るようにわかる。
「あ……お母さん、買い物?」
と犯人役の上の子。とぼける気満点のようである。人質役の下の子は、ものすごく険しい表情で黙っている。
「怒る」と「叱る」が似て非なるものだと本当に理解したのは、結構最近のことだ。この場合は──どっちだろう? まずはこの子たちの話を聞いてみなくては。
とはいうものの、だいたいの動機は推察できる。単純にお金が欲しかったのだろう。そういえば、「○○くんがお父さんに何々を買ってもらったんだって」みたいなことをいっていたっけ。それは間接的なおねだりである。日頃の話を聞くに、どうもお金持ちの子が周りに何人かいるようで、しかも某骨川君のように自慢などをしてくるらしい。うちはそれほど貧乏というわけではないけれど、お金がありすぎるとロクな人間にならないという夫婦共通の経験則から、お小遣いは少し渋めに設定してある。そのあたりをどうやってわかってもらうか。
押しつけるのではなく、理解させる。理想論かも知れないが、二人で話し合って決めた教育方針。
本当は今すぐにでも怒るなり叱るなりした方がいいのだろうが、こう人目が多いとそれも難しい。
さて、今日の夜はどうなるだろうか。
──?
上の子の手に、テレホンカードが握られていた。五十度数のくせに千円もする、いわゆる記念品的なものである。本来、使うつもりのないものを勝手に使った。まあ、その事実に関しては今は置いておこう。隠さないで手に持っていたことを考えると、それに関する罪悪感はないようだ。手の届く場所に置いていたこちらにも非はある。
それよりも、気になったのは──
テレホンカードは、使えば穴が空く。その穴の位置が、微妙におかしいのだ。
最初の電話の時の通話時間を思い出す──やはりおかしい。
「……二回電話したの?」
「え……うん」
思いついた仮説は、あっさりと了承された。
うちに来たのは一回。二度目の電話──携帯にかかってきたものに関しては出ていないので、通話料はかからない。
イヤな予感。
話を聞いていくと、要領は得ないが、どうも間違い電話をしたらしい可能性が出てきた。
ただの間違い電話ならばいい。問題は、その内容だ。しかも、電話をかけた本人は間違い電話をした自覚が、なぜかまったくない。
やばい。このままでは今夜のニュース、主役の座をゲットしてしまうかも知れない。
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テレビを消して、ソファーに座る。その約一分後にはやっと、まともに思考できる状態になっていた(と思っているのは私だけでハタから見たらどうかはわからない)。
まず夫のことを考える。連絡するべきか。
──否。余計な心配はかけるべきではない。仕事中ならなおのこと。
──じゃあ警察は?
冗談じゃない。そんなことをしたら、ヘタをすれば私は全国中のさらしものになってしまう。今夜のニュースの主役にはなりたくない。
結論は一つ。
私一人で解決するしかない。待ってなんていられない。こっちからで向いて連れ戻す。それが親の役目だろう。
そのためには、奴らの居場所を探り出さなければならない。
──とはいうものの、どうしようか。
我ながら大した苦労もなく、この時代にしては比較的早くに満足できる結婚までこぎ着け、子供も二人できた。二人とも健康。育児に関しても、人並み以上の苦労はなかったと思う。そんな私が、三十代を目前にしてこんな出来事を体験してしまうとは──
──はっ。いけない。軽く現実逃避しそうになってしまった。
あらためて現状を確認する。最優先でするべきは奴らの居場所を知ることだ。
そのための手がかりは──さっきの電話にしかないだろう。いや、厳密にはもっと無数にあるのだろうが、決定的なものはそれだけだと考えて間違いはない。
うちの電話はFAXつきの旧式だ。ついでにいえばもらいもの。各自で携帯電話を持っているんだからいちいち電話にお金をつぎ込む必要はない──夫婦でその結論に至ったのだ。
この電話では、相手のナンバーを表示する機能は使えないが、これに関しては今からごねても始まらない。
さっきの電話を思い出す。
声が聞き取りにくかった。
なんで聞き取りにくかった?
大きな音が邪魔をしたから──車の音だ。ということは外。それも一台や二台ではない。車通りが多い?
外という要素から真っ先に考えられるのは、携帯電話だ。しかしそれはほとんどあり得ない。公衆電話だと考える方が自然だ。
車通りが多い道路にある、外の公衆電話。このご時世、公衆電話なんて探すのが大変なくらいに少ない。さらに「あの要素」を付け加えれば、対象は二、三カ所程度にはしぼれるはずだ。
しかし、奴らの特性を考えると「あの要素」が百パーセント通じるとは断言できない。それに加え、当然奴らだって移動する可能性も高い。さらに、向こうは私の顔を知っている。行き当たりばったりで探していては、もし見つけても逃げられる可能性がある。
先を読め。奴らの動きを読め。狙うは一撃必殺(実際に殺すわけではないが)。初手をかわされれば面倒になることは必至。セオリー通りに行くなら身代金の受け渡しの時だろう。
指定された場所──というよりも、奴らが提案した金の受け渡し方法はかなり特殊だ。
ガチャガチャのカプセルに金を入れ、とある用水路の指定されたポイントに投げ込めというもの。
「ガチャガチャのカプセル」について説明が必要だろうか。
あまり──というか全然重要な要素ではないのだが、公平を期すために一応しておこう。
私の記憶では、よく駄菓子屋に置いてあったものだ。百円玉を指定された場所に設置して、ハンドルをひねる。すると球形のカプセルが出てきて、その中身のものが商品となるのである。機械の正面にはたいてい、カプセルの中身に何が入っているのかを示す表記があるのだが、やはり子供の興味を引くデザインになっていることが多い。しかしこれが実にくせ者で、まずこれの信用性を疑うところから始めなければならない。なぜかというと、まったく違うものが出てくることが多いのだ。しかもそれらのほとんどは百円ですら高すぎると感じるほどの粗悪品なのである。消えない消しゴム、需要がまったく考えられない正体不明の人形、謎のプラスチック片、その他言葉で形容しがたいものたち──百円ということで軽視されがちだが、法律的にはともかく、道徳的には百パーセント詐欺である──と私は思う。
なお、「私の記憶」と「現在の実情」の相違点としては、「駄菓子屋」という文化が絶滅寸前の今、設置場所は主に大手スーパーやデパートであること、百円ではなく二百円のものもある、などがあげられる。
閑話休題。話を元に戻そう。
さて、私はこれからブツを用意しなければならない。
身代金はすでに用意している。残るのは「ガチャガチャのカプセル」である。
いちいちそれを調達するために百円なり二百円を浪費しなければならない、これでは外装と中身の価値が逆転してしまうではないか──とお思いのあなた。それが違うのだ。
なんと奴らは、大胆にもカプセルを用意していたのである。
用意されていた場所は、我が家の一室。そこを探せばすぐに見つかるといっていた。
事実、探す必要すらなかった。
その一室とは、人質である我が子の部屋である。
人質をとことんまで利用してやろうという、鬼畜にすら勝るとも劣らない、極悪非道の所行である──といいたいが、奴らのことだ。そこまで考えていたわけではないと断言しよう。
とにかく、要求されたブツの準備を完了した。
次は外出の準備である。
どういう格好で行くべきか悩んだが、小考の末、ここで策を弄することはやめた。変装するにしろ、行動でバレてしまう。それに私は警察関係者ではなく被害者本人なのだから、変装しても得はない。そう考えていくと、効果的な策が特に思いつかなかったからである。ただ、動きがあるかもしれないため、スカートではなくパンツスタイルで行くことにした。
自分に対して一通りの準備を施して、戸締まりをする。あまり大きな声ではいえないが、日常における我が家の戸締まりは甘い。
それはともかく。
──絶対に連れ戻す。
そう決意して外に出た。
──が。一瞬で心が折れそうになった。
この場合は、「強烈な日射しに、その決意が瞬時に溶けそうになった」とでも形容するべきだろうか。
エアコン恐るべし。
まあ、エアコンのせいにしても太陽のせいにしても始まらない。今一度決意を結び直し、一歩、二歩と踏み込む。これは親である私の役目なのだ。
三歩目を踏み込んだときには、額に汗が浮いていた。
指定されたポイントは、ここから徒歩で二十分ほど。
車の免許は持っているが、一台しかない車は夫が通勤に使っているし、そうでなくても今の目的には適さない。
残る選択肢は自転車か徒歩。三台あるはずの自転車は、一台を残し稼働中だ。つまり、残っているその一台が私のものである。
あまり考えもせずに、自転車の鍵を外した。
サドルにまたがって──飛び上がるようにすぐ降りた。
黒色のソレは、焼けるように熱かったのである。今の時期にはよくあることだった。
手のひらを当てる。熱い。薄い肉ならおいしく焼けそうだ。
待ってみても全然温度が下がらない。
さらに十秒ほど考えて、再びサドルにまたがった。
──我慢我慢。
暑さ以外には大した障害もなく、簡単に目的地まで着いた。あとはカプセルを投げ込むだけだ。
用水路にカプセルを投げ込むと、水に乗って下流に流される。そのためのカプセルなのだろう。
今、巷をにぎわせている誘拐犯。身代金を受け取りに来ない──つまり、受け渡し場所に現れないために未だに捕まっていない。
そこからヒントを得たのだろう、「受け渡し場所に行かなければ捕まることはない」「その状態で金を手に入れるにはどうするべきか」──奴らがそこまで考えたかはわからない。正直な話、奴らの思考を正確にトレースする自信はない。
しかし、この作戦には致命的な欠陥があった。
水流に沿ってカプセルの行方を追えば、犯人にたどり着く。奴らが金を手にするとほぼ同時に身柄を拘束することが可能だ。
アホだ。奴らはアホだ。
その事実は、おかしくもあり悲しくもあった。
さらに。今に限ってはそれ以上の問題があった。
この暑さで、用水路の水が完全に干上がっていたのだ。からっからなのである。なんのための水路かは知らないが、これではただの側溝である。
雨天中止ならぬ、晴天による中止。
脅迫する前に下調べぐらいしろ、といいたい。
そして私は、何を思ったのかそこにカプセルを置いてみた。
ほんの少しの傾斜があるせいか、乾いた音とともにわずかに転がって、止まった。
拾う。
通行人と目があった。
向こうはすぐに目をそらした。
猛暑の下での奇行。暑さで頭がやられたとか思われたかも。
いけないいけない。
と、そのとき。
軽い恥ずかしさの中、平日のまばらな通行人の中に不自然な影を見つけた。
──奴らの片割れだ!
監視していたのだ。考えてみれば監視は当然だ。
自転車に乗って逃げる背中。仲間のところに向かうのだろうか。そうに違いない。
──今に見てろ! 仲間共々一網打尽にしてやる!
私は適度に距離を開けて追跡を開始した。
二分後。
私はターゲットの背中を見失っていた。
距離を開けたのが裏目に出た──のもあるかも知れないが、本質的な原因はそこではない。私と奴の間には絶対に埋まらない溝がある。奴にできて私にできないことがある。その性質をうまく利用されたのだ。
さあここからどうする。
今までのことを考えると、私が追った方ではない片割れがいる場所は特定できない。
ああでもないこうでもないと考えていると。
携帯電話が鳴った。
開いてディスプレイを見る。
公衆電話──
思わず伸びた指をとっさのところで制して、着信音の音量を下げた。
ふたを閉じて、ポケットにしまう。
そう。奴らは私の携帯電話の番号も知っているのだ。
なぜ、さっきは家の電話で今は携帯電話なのか。
正解かどうかはわからないが、考えられる仮説が一つある。
それは私の居場所だ。
一回目の時に携帯にかけた場合、私が奴らのそばにいないとはいいきれない。その場合、途端に計画が頓挫してしまう可能性がある。つまり、スタート地点は絶対に自宅である必要があったのだ。
そして、なぜ今は携帯にかかってきたのか。
それは、奴らが私の居場所をほぼ特定しているからである。それプラス、電話に気をとらせることで足止めしたいという目的もあるかも知れない。それを防止するために私は今、電話に出ないのだ。
とにかく。
ここからは純粋な時間勝負だ。早ければ私の勝ち、遅ければ逃げられる。
前後の状況と電話のタイミングを考えれば、発信元は比較的近くの公衆電話に間違いない。
私は鮮明になりつつあるイメージを頭の中にしまい、ペダルに足をかけた。
案の定、奴らはすぐに見つかった。
私があまりに電話に出ないため、もうあきらめのだろう。二人とも電話ボックスの前にいた。
私が最初から考えていた「あの要素」とは、行動範囲のことである。私から見れば狭く移るが、本人たちにとっては決してそうではないはずだ。そして、ほんの気まぐれでその外に出てみようとも思うだろう。
携帯電話なんて持たせていないから、公衆電話だろうと思った。半ば当然だが、この考えは正しかったことになる。
余所様の敷地を自転車でショートカット。子供はなんとか許されても、いい年した大人にできる技ではない。
二人が私に気付いた。びくびくしているのが手に取るようにわかる。
「あ……お母さん、買い物?」
と犯人役の上の子。とぼける気満点のようである。人質役の下の子は、ものすごく険しい表情で黙っている。
「怒る」と「叱る」が似て非なるものだと本当に理解したのは、結構最近のことだ。この場合は──どっちだろう? まずはこの子たちの話を聞いてみなくては。
とはいうものの、だいたいの動機は推察できる。単純にお金が欲しかったのだろう。そういえば、「○○くんがお父さんに何々を買ってもらったんだって」みたいなことをいっていたっけ。それは間接的なおねだりである。日頃の話を聞くに、どうもお金持ちの子が周りに何人かいるようで、しかも某骨川君のように自慢などをしてくるらしい。うちはそれほど貧乏というわけではないけれど、お金がありすぎるとロクな人間にならないという夫婦共通の経験則から、お小遣いは少し渋めに設定してある。そのあたりをどうやってわかってもらうか。
押しつけるのではなく、理解させる。理想論かも知れないが、二人で話し合って決めた教育方針。
本当は今すぐにでも怒るなり叱るなりした方がいいのだろうが、こう人目が多いとそれも難しい。
さて、今日の夜はどうなるだろうか。
──?
上の子の手に、テレホンカードが握られていた。五十度数のくせに千円もする、いわゆる記念品的なものである。本来、使うつもりのないものを勝手に使った。まあ、その事実に関しては今は置いておこう。隠さないで手に持っていたことを考えると、それに関する罪悪感はないようだ。手の届く場所に置いていたこちらにも非はある。
それよりも、気になったのは──
テレホンカードは、使えば穴が空く。その穴の位置が、微妙におかしいのだ。
最初の電話の時の通話時間を思い出す──やはりおかしい。
「……二回電話したの?」
「え……うん」
思いついた仮説は、あっさりと了承された。
うちに来たのは一回。二度目の電話──携帯にかかってきたものに関しては出ていないので、通話料はかからない。
イヤな予感。
話を聞いていくと、要領は得ないが、どうも間違い電話をしたらしい可能性が出てきた。
ただの間違い電話ならばいい。問題は、その内容だ。しかも、電話をかけた本人は間違い電話をした自覚が、なぜかまったくない。
やばい。このままでは今夜のニュース、主役の座をゲットしてしまうかも知れない。
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