淑女の隣にあなたの花が咲く

八尾倖生

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第三章

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「綺麗な満月だね」
 初めて来る住宅街の夜道を歩きながら、空に浮かぶ満月を眺める。
「最後の夜がこれなんて、神様も粋な演出するじゃない」
 隣を歩く彼はその言葉を聞くと、悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「やっぱり、亜希さんってロマンチストだよな」
 側にある右肩を小突こうとして、やめた。その様子を見て彼は、ほのかに寂しそうな顔をした。
 綾乃さんから二人の過去を聞き、マンションの近くの公園で夫と彼に助けられ、総てを知ったあの濃密な二日間から、ちょうど一ヵ月が経過した。
 その間私は、事情を話して夫に家を託し、できるだけ彼の償いに協力した。それもあってこの一ヵ月で、全ての被害者の連絡先と被害金額を把握し、くして今日、謝罪と共に返済の手続きが完了した。合計金額はかなりの額に上ったが、私の返済金が足しになったことで、なんとか全員分を賄うことができた。すなわち今の彼は、出会ってから初めて、私よりも貧乏になった。それが、彼の新たな物語のスタートである。
 明日、私は警察に電話する。約束通り、私が彼を通報する。
 その前に彼は行きたい場所があると言って、私を夜のに連れ出した。正直、大方の見当はついていた。もう既に、大きな鉄塔が視界に入っている。
「あそこで倒れてたのは、ホントに偶然だったんだ」
 歩くスピードを少し落として、彼は初めて会ったあの日を振り返った。
「あの頃はマンションにもほとんど帰ってなくて、いろんなところぶらついて、他の場所でもあんな風に倒れてたよ」
 満月の光と空の闇が、もう少しだけ私たちに時間をくれるように、せめぎ合っている。
「亜希さんは、初めて声をかけてくれた人だった」
 あの日、私がパソコンを買いに行ってなかったら、彼に声をかけた人はいなかったかもしれない。私に持ち合わせがなかったら、お金を返すという再会の口実は発生していなかったかもしれない。
「不思議ね。もうそんな歳じゃないけど、運命って言葉を信じたくなる」
 そのままお互いの人生は、悪魔の思い通りに沈んでいたかもしれない。
「運命なんかじゃないよ」
 しかし彼はあっさりと、天の悪戯を否定した。
「全部、偶然だよ。俺たち人間は、みんな偶然の下で生きてる。偶然落ちてきた人生と、偶然落ちてきた出会いにすがって生きてる。神様は、何も与えてはくれない。ただ、そこに居てくれるだけなんだ」
 与えられるものではなく、落ちてくると彼は言った。それを効率良く拾える人間は、当然限られている。
「幸せな人間と不幸な人間は、同じものを拾えない。……人間って、残酷なのね」
 外見も内面も、時代も環境も、何もかもが落ちてきたものだったとしたら、そんな世界は残酷である。幸せの種を拾えなかった人間は、不幸になるしかないのだろうか。
「でも俺は、人間に生まれてよかった」
 彼の人生が幸だったか不幸だったか、私にはわからない。
「どう考えたって弱いし、理不尽な生き物だけど、もしまた生まれ変われるなら、俺は、人間がいい」
 彼の前には、どちらの道も落ちてきた。
 愛の親である綾乃さんとの一年間、二人を引き裂いた十五年間、取り憑かれた悪魔に闇の道へといざなわれた九年間、真実の愛を知った半年間。
 この四半世紀で、彼は何かを確信した。
「誰にだって、震える心はあるから」
 それは、二十五年間で唯一、彼がずっと持っていたものだ。
「それさえあれば、人は生きていける。視えてる景色が違くても、聴こえてる音が違くても、匂いも、味も、触り心地が違くたって、人にはそれぞれ、感性が溢れてる。人には、それを感じられる心がある」
 彼は綾乃さんに、この半年間が人生で一番幸せだったと言った。
 私と同じように、彼もまた、この半年間で五感を震わせていた。
「それさえあれば、どんな世界が落ちてきたって、人は幸せを感じられると思う」
 しかし私たちは、気付かないだけで、それまでの人生でもたくさん心を震わせている。夫と暮らし始めた日も、結婚すると決めた日も、朱翔と、碧翔と、白翔が生まれた日も、それ以外の石原亜希として生きてきた何でもない日常の一時でも、私の心は、間違いなく震えていた。そのとき、その瞬間に、人間として生まれた偶然に包まれていた。
 それもまた、小さな幸せなのかもしれない。
「だから俺は、人間にさせてくれたこの場所が、大好きなんだ」
 少し前を歩いていた彼が立ち止まる。いつの間にか、公園の入り口に到着していた。
 だが、その公園には先客がいる。
 空に浮かぶ満月と同じくらい身も心も綺麗な、この世界の淑女が。
「あれ……? 誰かいる……?」
 その女性に気付いて、彼は私に視線を飛ばす。
 無言の問いかけに表情を変えない私を見て、彼は笑った。
「……一本、取られたよ」
 私は彼より、十一年も長く生きている。
「さすが……、亜希さんだね」
 これが彼に教えられる、最後の年の功かもしれない。
「最後まで、見届けてくれるよね……?」
 無言で頷いた私を見て、彼は公園に入っていった。
 その背中には、赤いカーネーションが満遍なく咲いている。
「……久しぶり」
 記憶の中の彼の姿とは随分変わってしまっただろうが、彼女はすぐに彼だと解った。
「元気、だった……?」
 震える声と肩を、彼がそっと支えてあげている。
 何度も触れ合ったであろう二人のその身体に、初めて温もりが生まれる。
「元気、だったよ。……お母さん」
 そのとき、綾乃さんは持っていた鞄を手から放した。
 そして迷いなく、彼の背中に両手を回す。
「ありがとう……! ありがとう……! 私を、ゆるしてくれて……!」
 満月の光も、空の闇も、今だけは、静かに二人を見護っている。
 この世界の総てが、二人を見護っている。
「一つ、お願いしてもいい……?」
 彼の優しい声が、地面に落ちる綾乃さんの涙の雫に宿る。
「名前、呼んでくれないかな……? お母さんが、付けてくれた名前を」
 彼は頑なに、名前で呼ばれることを拒んでいた。私の名前を、素敵だと言ってくれた。
 それはきっと、本当の名前を知っていたから。
有希斗あきと……!」
 長い星霜せいそうを経て、再び、彼は本当の名前で呼ばれた。
 その名前を呼ぶことを赦された、たった一人の家族から。
「ありがとう、有希斗。私の前に、降りてきてくれて。ごめんね、有希斗。ずっと、苦しい思いをさせて……」
 彼の胸に顔を埋めながら、綾乃さんは謝った。
 彼を傷つけてしまったことを。彼に闇を見せてしまったことを。
「俺、幸せだったよ……!」
 その後悔を、彼が打ち消す。それと同時に、感謝を伝える。
「こんな素敵な世界に、居させてくれたんだから……!」
 自分を拾ってくれたことを。自分に教えてくれたことを。
 自分の生涯のために、心を震わせてくれたことを。
「お母さんが、お母さんでよかった……!」
 少しだけ、満月の光が勝った。
 初めて二人が出会った夜も、きっと、そうだったのだろう。

「この度は、本当にありがとうございました……! 本当に、何とお礼を言ったらいいか……」
 公園の入り口でその美しい顔に涙の跡を浮かべながら、綾乃さんは深く頭を下げた。それをなだめながら、今も公園の隅にいる彼を横目で見る。
「もう、いいんですか……? 最後の晩くらい一緒に……」
「いいんです」
 彼女の表情は、本当に晴れやかだった。彼が今晩ここに来ることを知ったときも、その表情を浮かべてくれただろう。
「私は、母親ですから」
 傷つけ続けてきた心と身体も、赤いカーネーションの香りが癒してくれただろう。
「最後のお別れは、亜希さんがしてください」
 同時に彼女の物語も、これからまた始まる。
「私たちに教えてくれた、真実の愛で」
 彼女の美しさには、これから磨きがかかる。
「……わかりました。じゃあ、一つだけ──」
 綾乃さんの手を握る。私は彼女の淑やかさを、どこまでも追い求めると決めた。
「またね、綾乃さん」
 彼は日常の素晴らしさと共に、もう一つ、教えてくれた。
「またね、亜希さん」
 私の人生も、まだまだこれからだということを。

 彼がたたずむ公園の隅っこに、風が吹き込む。
「意外と憶えてるもんだな、って言ったら、やっぱりおかしいよね」
 この冷たい雑草の上に、冬を思わせる冷たい風が吹き込む。おそらくそのときに、彼は運命と縁を切ったのだろう。
「憶えてるって、例えばどんな?」
 偶然落ちてきた実の親との出会いに絶望し、偶然落ちてきた綾乃さんとの出会いに希望を抱いたことだろうか。
 生まれたばかりの赤ん坊に重すぎる人生の悲喜を背負わせた、天への憤りだろうか。
「そんな難しいことじゃないよ」
 難しい顔をしていた私を、彼は笑った。土壇場で年の功が逆転される。
「たぶん、感性が憶えてるんだと思う。月が光って、鳥がさえずって、花が香って、風にさすられて、生まれた味を判別する。そんな自然の摂理を、心が憶えてるんだと思う」
 どんな人間にも、どんな世界にも、震える心はあると彼は言った。意思の欠片もない状態でも、もうすぐ死ぬと解っていても、感性だけは働いていたと彼は言った。
 それは、日常にあるから輝くものだ。
「最後のお別れだっていうのに、こんなあっさりでいいのかしら」
 そんな私も、あっさりとした言い方をする。心中もどことなく、言葉の綾を反映している。
「だって、俺たちは他人だ。だから亜希さんは、街でたまたま指名手配犯を見て、それで──」
「ピンときた、ってわけね」
 彼は笑った。最後の最後で、私たちはイーブンになった。
 それこそが、他人の証である。
「そして亜希さんは、家族の元に帰る」
 家ではみんなが待っている。
 朱翔と、碧翔と、白翔と、夫と、私たちの命を繋いでくれた、たくさんの家族たちが。
「行き着けたかな? 小さな幸せに」
 たくさんの家族たちが育み、私たちに繋いでくれた、小さな幸せ。
「亜希さんの隣には、いつでも小さな幸せがある」
 彼が空けてくれた、私の隣。そこにあったのは、小さくて、はかなげで、今までは見えなかった微かな欠片だった。
 しかしそれに気付いたとき、欠片は、永遠に在り続ける塊に換わる。
 永遠に、人々を見護ってくれる。
「それを、忘れないで」
 二つ隣に居た彼が、そっと、私の前から消えていく。
「またね、あなた」
 月が光るように。鳥が囀るように。
 花が香るように。風に摩られるように。
「またね、亜希さん」
 生まれた味に、心を震わせるように。

 そうして今、世界を平等に照らす満月と共に、もう一つの物語が、終わった。
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