吉祥寺行

八尾倖生

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第一章

白常 水曜日

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1 水曜日

 19時6分、下りの急行井の頭線は富士見ヶ丘を通過し、久我山に停車するために速度を落とし始めていた。進行方向から見て右側のドアに寄り掛かっていた身体を起こし、スマートフォンの画面を暗くする。降りるためではない、動くために身体を起こした。既に永福町で乗客のピークは過ぎ、車内には余裕があった。久我山で乗り降りする客も少なかった。
 すると社会の邪魔にならぬよう身体を縮めていた僕の横目に、左から三番目にある空いた座席が映った。その右前にはスマートフォンをいじっている女性がいたが、座る気配はない。ただの直感だが、他にその席に目を付けた人物はいない。朝6時半に起きた体は、脳に座れと訴えているような気もした。しかし疲れた体ではない。僕にとって座ることは、休むためではなく、楽をするためである。
 世間からして僕のような若いかつ健康な男が電車の座席に座るのは、カースト制で言えばシュードラ、つまり優先度は一番低い。義務教育で小耳に挟んだ薄い知識での比喩は、決して口で発することはない。頭の中で軽く酔いしれるだけだ。それでもたまに誰に対しての強がりかわからず、無性に恥ずかしくなるときがある。その感情は決して表には出さず、胸にも仕舞しまっておかない。そっと心の隅で消えていくだけである。そんな穏やかな日々が、また今日も何も起こらないまま、朝焼けに姿を変える時を待とうとしていた。
 つまり何が言いたいのかと言えば、自分は対角線に身体を動かしてまで席に座るようなことはしないということだ。モグラ叩きのようにぽつぽつと穴が空いているのならともかく、残り一つのドーナツのように、たった一席空いているのでは訳が違う。しかも自分は今、ドアのポジションを確保できている。電車におけるドアのポジションとは、満員電車で開く側に居た折の一時的に乗降しなければならないわずらわしささえ除けば、ある程度の楽をしつつ、他人からも不審がられない、座席に次ぐ良いポジションだろう。下手すれば、外れの両隣を引いたときより良い。
 そこを捨ててまで狭いドーナツの穴に飛び込むのは、僕にとってはリスクなのかもしれない。誰も気にしていない周りの目が、僕を傷つける可能性もある。それならいっそ、今の立ち位置を誰にも譲らないことに専念しよう。
 そんな下らないと気付いている物思いに駆られているうちに、二本に一本の京王井の頭線の急行は、終点の吉祥寺に到着した。そこで気付いた。吉祥寺に着くまでの残り三分でやろうとしていたスマホゲームのスタミナ消費を忘れていたことを。「ああ、今日も寝る時間が三分遅くなる」と片隅で考えながら、吉祥寺駅のホームへと降りていった。

 街のを潜り抜けながら家に帰れば19時31分、ゴールデンタイムにもかかわらず、兄が録画した情報系の番組を見て、テレビを占領していた。地上波で特に目ぼしい放送が無いとき、朝と夜はいつもこれである。つい二、三ヵ月前までは疑問に思っていたこの占領も、最近は貸しだと割り切り何も感じなくなった。ただ本人は借りだなんて微塵みじんも思ってないことは明白である。普段から大して使ってないエネルギーの消費を恐れた、ただの気休めだ。
 腹を満たし体を清め、十五分ほどの軽いストレッチを終えて、寝る態勢に入ろうとしていた。兄から用済みとなったテレビには、深夜帯に差し掛かったバラエティ番組が流れている。自分にはこれらのたぐいを下らないと思えるほどの度量はない。かと言って熱心に見ているわけではないので、流行に乗れるわけでもない。
 知ってるものだけ知り、知らないものは一切知らない。このセリフが使われていた高校時代に熱中していたアニメも、ネットの心無い書き込みを真に受け、距離を置くようになった。今ではたまに動画サイトで、ワンシーンを流し見する程度に落ち着いている。
 とはいえ僕は、かのキャラクターのように広い範囲の物事を知っているわけではない。このセリフを言う資格すら与えられない、アフリカ大陸にある国の数ぐらいしか物事を知らないのが現実である。アフリカの国の数自体を知らないのが何よりの証拠だ。たぶん、南米よりは多いのだろう。
 だから僕には世間知らずの性質が定着している。流行のファッションも、靴も、インフルエンサーが三ヵ月前に紹介した一押し商品すら、僕の耳には一生入ってこない。ただ、しゃに構えているつもりはない。もしかしたら世間からはそう見られているのかもしれないが、自分ではそんなつもりは一切ない。なぜなら、世間に対して大した好き嫌いのない僕にとって、大学生の小説の主人公によくあるそのような気構は、唯一愚かに映ったからである。
 しかし、それはおそらく過去の自分が影響している。文字にするのさえ億劫おっくうになるが、自分にもそんな時期があった。人と違うことに愉悦ゆえつを覚え、世間を俯瞰ふかんしたつもりになり、マジョリティと出るくいを見下す。それが個性であり、稀代な生き方であると信じていた。
 だが大人にとって、そんな子供は有象無象に過ぎない。そうやって僕らをあしらう彼らを、見る目がないとあざけることもあった。しかし自分と違うステージにいる同世代を見て、そのような幻想は記憶にほうむられた。幸いそのときの爪痕が笑い話のタネになるレベルで済んだことを、当時の自分に感謝したい。
 自分はまだ常人のレールの上にいる。むしろ、その真ん中にいる。皮肉にも、当時の自分が最も軽侮するタイプであることは間違いないのだが。

 長々と脱線したが、話を戻せばシンプルに僕はものを知らないのだ。正確に言えば、ものを知ろうとする能力が欠落している。避けているわけではないが、外部からの刺激と縁がない日々は肌に合うらしい。世界に染まらず、なおかつ自分の世界を創らない。そんな中途半端な立ち位置に居心地が生まれたのが、夢に見ていた大学生活である。どうやら自由を求めた挙句、その渦に飲み込まれたみたいだ。
 しかしそのまま身体を預け、グルグル回転するというのも退屈なわけではない。大きなプールに行けばスライダーがあるが、あれと同じような感覚だ。誰かが作り出した自然に身を任せたところで、そこに刺激が生まれるかどうかは主観次第である。
 とにかく僕は、現状の生活に満足している。他人にわらわれようとも、自由を制限する力には及ばない。もしそうなっても、自由を盾にして戦えばいい。こういうときだけ僕は強気である。しかし、戦う相手はいない。
 時刻は午前1時、思考の航海を終え、脳みそはいかりを降ろした。アラームにセットされた時刻はない。翌朝が早起きであるほど、眠りに落ちることに苦労する。逆に言えば、翌日が空白であればあるほど、就寝も起床もスムーズだった。
 今回もそうだ。今までの思慮のもつれが嘘かのように、スムーズに眠りに落ちた。だが別に不思議なことではない。ただ単にプレッシャーの問題である。そんなことを思う間もなく落ちたのだから、その日は実は疲れていたのかもしれない。
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