「月が、綺麗ですね。」

八尾倖生

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第一章 企画

卒業

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1 卒業

「夏目朱美あけみ
「はい」
 二百人弱分の一人の声が、体育館に響き、渡るはずもない。おそらく、後ろの方に座っている保護者はおろか、体育館前方に座る生徒たちの中にも、たった今、卒業証書授与の営みの一つが完了したことに気付いていない人がいるかもしれない。
 いや、生徒たちに限ればそれはないだろう。
「西野美月」
「はい!」
 すっ、と、人々の息を呑む音が聞こえた。今、壇上から降りる私の姿を見ているのは、両親と、もしかしたら一花いちか以外いないだろう。
 一応節目の催しとだけあって、年頃の証が肌に表れている男子たちの間にも、最低限の神聖さが空間に広がっていた。しかし彼女の名が呼ばれた瞬間、それどころかその前に名前が呼ばれる待機場所に行き、数百人規模の人々にその端麗な風采を向けた瞬間、ぎだらけの秩序は崩れ去った。式中は禁止されているはずなのに、シャッター音がどこかから聞こえた。
 仙姿玉質せんしぎょくしつ、という言葉はこの人のためにあるんだろうな、そんなことを思ったこともある。それほど彼女はこの高等学校で、輝いた存在だった。もちろん、女として、純粋にそう思った。この一年間、一年生のときも入れれば二年間、あまり話す機会はなかったが、何かと近くに私が全く嫌悪感を持っていないのだから、彼女は本当に心が綺麗な女性なのだと思う。
「橋本一花」
「はい」
 結局、日常ではほとんど絡む機会のなかった、背の高い担任の体育教師の声がその名前を呼んだとき、壇上を見据えていた人間は、一花の両親と、私しかいない、かもしれない。
 ただ一つ言えることは、本当に、一花がこの学校にいてくれてよかった。同時に、これからは一花がいない生活を歩まなくてはならない。高校生活を締め括る今日に生まれた一花への感謝の気持ちは、これからの新生活の不安とイコールで結ばれる。これを私は「ナツメの定理」と名付け、卒業の印として、高校生らしく一年間お世話になった机に刻んでやろうか、と考えるキャラではないことは誰がどう見ても明白だ。下手すれば、一花にさえ縁を切られる。
 いろんな人が集まり、いろんな人の話が体育館に響き渡り、いろんな感情が交差した高校生活最後のイベントが、終わった。出席番号順に退場していくため、彼女は私の後ろを歩いている。当然、私のに注目が集まる。人々からすれば、光り輝く彼女の近辺にいるのは、私のような毒にも薬にもならない存在がちょうどいいんだろうなと妄想し、自分なりの居場所を創り出す。そうしていないと精神が持たない、わけでもない。ただ単に、そうしているのが楽しいだけだ。
 体育館の外で待っていたたくさんの後輩たちが、彼女を出迎える。彼女にプレゼントを渡す。たぶんその中には、意を決し、初めて話しかけるようなもいただろう。
「持とうか?」
 両手一杯にプレゼントを抱えた彼女に、ふとそう声をかけた。本当に、自然に言葉が出てきた。
「ううん、大丈夫! ありがと、夏目さん!」
 CMかよ、と声に出そうになるほど、爽やかな笑顔で彼女は答えた。
 いっそのこと、本当に出てみてほしい。現実ではなく、画面を通した彼女を一度でいいから見てみたい。性的少数者の権利が認められつつあるこの時代で、これほど彼女のそばにいて、新しい自分に目覚めなかった自分を不思議に思う。
 外はまだ冷たい風が吹いていたが、彼女のまとっている風は、どこか色を帯びていた。今時はプロじゃなくても、周りにそのようなエフェクトをかけられるぐらい映像技術は普及しているらしい。私もそのうち、そんな手に職を付けなきゃなと考えていたら、いつの間にか、彼女の後ろを歩いていた。
 その後ろ姿は、綺麗だった。まるで、美しい月のように。

「せーのっ、おめでとー!」
 教室に戻り、担任の体育教師が教室に来るまでの間、騒がしい余韻が最後の一時を作り出していた。各々のグループがせわしく写真を撮り合い、時にそれはグループの垣根を超え、謳歌おうかを形に残そうとしている。
 一方私たちはというと、
「ホントにボタン貰いに行く女子なんているのかね?」
「ウチじゃいないんじゃない? さすがに」
 卒業式あるあるを都市伝説のように仕立て上げ、残り数少ない親友との時間を過ごしていた。
 だが実際、この学校ではそんな現象は、都市伝説と言っても過言ではない。この高校はどの代でも、オーディションでもしたかのように、なぜか、ルックスのレベルが高い女子が集まっていた。各クラスに眩しい女子が均等に君臨し、男子はその存在感におののき、自然と立場の関係が形成されていた。その中でも西野さんは群を抜いていたのだから、私が今まで施してきた形容も、的外れどころか足りないぐらいだ。
 そんな状況に私が特別恩恵を受けたわけではなかったが、何事もなく普通に過ごしていれば、見縊みくびられることもなかった。だから私たちは、自分たちができる最大限の普通に成りきり、青春を突破しようとした。その当ては見事に的中し、燦然さんぜんたる彼女たちの陰に隠れ、余計な光にさらされることなく、大人への階段を上ることができた。
 それゆえ、私が東京の大学に進学することになったと知った人は、驚愕を心に宿したことだろう。もちろん、一花含め。
 そしてそこに秘められた密かな動機は、誰にも暴かれるどころか、理解もされないだろう。
「どうする? 私たちも、撮る?」
「いいんじゃない? 終わって外出た後で」
「うん、そだね」
 一花はあまり、私の目を見てくれない。だが少しだけ、潤んだまぶたが私の目に映った。
 なるほど、そういうことか。
「お待たせー、みんな!」
 少しだけナーバスな気持ちを受け取った瞬間、担任の体育教師が教室に入ってきた。それと同時に、何人かの女子がクラッカーを鳴らした。
 彼は、そういう人だ。男女関係なく、特に女子から懐かれる、清々しい人だ。もちろん私も嫌いではない。嫌いになる理由がない。ただ、生きている世界が違いすぎる、それだけだ。
 そんな人たちが、この高校にはたくさんいた。あまつさえ、これからも。
「みんな、ホントにおめでとう! これからはみんなバラバラになって、困難なことも起こるかもしれないけど、そんなときはいつでも頼ってくれ! それから──」
 良いことを言ってくれている、のだと思う。確かに何か困ったことが起きたとき、先生に言えば何とかしてくれる気がする。
 でも、果たしてそのみんなに、私は含まれているのだろうか。先生だって忙しいだろうし、私の悩みなんて、取り合っている暇などないのではないだろうか。これから起こり得る私の困難など、先生にとっては困難に該当すらしないのではないだろうか。「夏目なら、絶対大丈夫だ!」、そう言われて、肩を叩かれ前を向かされ、なんとなくその気になって終わり、という未来というか、妄想が、頭の中を駆け巡る。
「それじゃみんな、元気で!」
 間違いなく教室内で一番元気な人の声が響き、最後の言葉が締め括られた。完全に、聞き逃した。
 その後、全員で写真を撮ろうという自然の法則に身を任せ、おそらく最後の高校生活が、終わろうとしている。後で見返しても恥ずかしくないように最低限の笑顔を浮かべ、最低限絡みのあった女子たちと最後の挨拶を交わし、解散が告げられた教室から去ろうとする。
「夏目」
 ふと、先生から声をかけられた。
「東京、大変だと思うけど頑張れよ! なんか困ったことあったら、いつでも相談乗るからな!」
 よかった。私も、みんなに含まれていた。
「ありがとうございます。先生もこれから、頑張ってください」
「はは、まさか生徒にそんなこと言われるとは思わなかったなあ。やっぱり夏目は、独特のセンス持ってるよ。ホントに楽しみだ」
 先生は、やっぱり優しい。
 そういうのを生徒目線にすると、変、だとか、気持ち悪い、に変換される。学生社会とは、そういうものだ。だからできるだけ、そういうのは一花にだけ出すように心掛けていた。でもこれからは、また我慢の日々が始まる。
「じゃ、頑張れよ! 橋本もな!」
「あ、はい! 先生、さようなら!」
 唐突に話を振られた一花は若干動揺していたものの、すぐに態勢を立て直し、最後の憧憬しょうけいを向けた。
「朱美、私たちも行こっか」
「うん」
 ここに思い残したことなど、何もない。本当に、何も。

「朱美ー! やっぱり離れ離れなんてやだよー!」
 お互いの両親に挨拶を済ませ、再び二人きりになってすぐ、一花は泣き出した。
「一花……」
「ううん、ごめん。これから大変なのは、どう考えても朱美の方だよね」
「そんなことないよ。お互い頑張ろ」
 一花はこの春から、地元の短大に進学する。そのまま実家から通い、小中学校のときの友人もいると言っていたから、正直、私の言葉は心の底からの本心だとは思っていない。
「こっち帰ってきたら、絶対会おうね!?」
「うん。でも、帰ってきたらそのまま居たくなっちゃうから、できるだけ帰ってこないつもり、なんて言えないな、私」
「もう、相変わらず朱美は言い回しに癖あるよね。それももう、聞けなくなっちゃうのかー」
「私も言えなくなっちゃうのかー、なんてね。こんな事いつまでも言ってたら痛いだけだし、そろそろ私も卒業するよ」
「大丈夫だって! 東京にも絶対、朱美語理解してくれる人いるよ! ていうか、もっと癖強い人もいるかも」
「なんか、聞いてるこっちが恥ずかしくなってきたな」
 そう言い合っていると、一花の涙は、いつの間にか渇いていた。
「じゃあ朱美、私、この辺で」
「あ、うん!」
「ホントに、元気でね? それと、頑張って!」
「うん! 一花も!」
 そのまま一花は駅の方へと歩いていった。一花はこれから、家族で旅行に行くらしい。私も誘われたが、わざわざ休みを取ったであろう父親を始めとする一花の家族に、他人である私に気を遣わせるのは酷だと思い、丁重に断った。
 なにしろ私にも、家族がいる。今日はご馳走ちそうを作って待ってくれているらしい。なんだか小学生みたいで恥ずかしい気もしたが、恥ずかしがる相手はいない。こんなこと、誰も知るよしもないのだから。
「夏目さん!」
 ふと、後ろから声をかけられた。その相手に思わず、まさか、と思った。
「あ、西野さん!」
「今から帰り?」
「うん」
「これからさ、女子何人かと打ち上げやるんだけど、よかったら来ない?」
 まさかの申し出にまた、まさか、と思った。
「本当にありがたいんだけど、一花来れないし、私だけ行っても変な空気になるだけだろうから、やめとく。ホントにごめんね」
「ううん、そんなことないよー! でも、そうだよね。橋本さんいないと居づらいよね。ごめん、余計なこといちゃって」
「ううん! 全然!」
 なぜ、彼女は私なんかを誘ったんだろう。この口ぶりだと、一花がこれから旅行に行くことは彼女も知っていた気がする。ということは、私誘いたかったってこと?
「夏目さんとは出席番号前後だったのに、あんまり話せなかったねー。一年のときも同じクラスだったのに」
「うん」
「私、ホントはもっと夏目さんと話してみたかったんだ。実は面白いって噂だったし」
「そ、そんなことないよ!」
「あとね、夏目さんと橋本さんみたいな関係、私、憧れてたの。なんて言うか、すごく楽しそうで」
「そ、そうなんだ」
 なんて言うか、こういうことって本当にあるんだと、率直に思った。
 こういう、輝いている人が輝いてない人たちを見て、「そっちの方が疲れないし、本当に楽しそう」、みたいな感じで言うやつ。もちろん彼女にそんな嫌味を言ったつもりはないけど、だけどこういう、小説でよくある展開が本当にあるんだと、率直に思った。私はてっきり、作者が自分の生き方を肯定するために、架空のキャラクターに代弁させているのかと思っていた。何よりの証拠に、私がそうしようとしていたから。
「夏目さんもこれから東京だよね?」
「え? あ、うん!」
 かたわらで変なことを考えていたから、危うく会話に乗り損ねるところだった。
「じゃあさ、これからも会おうよ! 私、あっちに知り合いなんて全然いないから、夏目さんも東京の大学行くって聞いたとき、ホントに嬉しかったんだ!」
 なるほど、だから彼女は私に声をかけてきたのか。そんな卑屈になることでもないのかもしれないけど。
「うん、そうだね! あ、でも、私の大学って都心から結構離れたところにあるみたいなんだよね」
「大丈夫大丈夫! 東京なんてウチの県と比べたら、東も西もないようなもんでしょ!」
「そ、そうなのかな」
 そんなことを言われても、彼女の行く大学は都心の一等地にあって、私の行く大学はそこから一時間近く西に行ってようやく辿り着く場所にあるという事実は変わらない。そんな卑屈になることでもないのかもしれないけど。
「じゃあ夏目さん、あ、これからは朱美ちゃんって呼ぼ! 朱美ちゃん、また、いつの日か!」
「うん! バイバイ!」
 ストレートの黒髪をなびかせて颯爽さっそうと歩くその後ろ姿は、本当に美しい。まるでここが世界の中心だと錯覚させるような、そんな求心力がある。
「あ、そうだ!」
 不意に立ち止まり、こちらを振り向く。ドラマかよ、と内心ツッコむ。
「眼鏡、これからは思い切って外してみたら? そっちの方が、きっと──」
「え?」
「ううん、何でもない! じゃあね!」
 そう言われ立ち尽くした私は、かけていた眼鏡を試しに外してみる。周囲がぼやけ、唐突に妙な不安感が心に宿る。おそらく彼女の言おうとしたことはそういう意味ではないんだろうなと片隅で考えながら、これも小説にありそうだ、ともう片隅で考える。
 だが、小説かよ、とはツッコまなかった。なぜならこれも、私がやろうとしているから。
 生まれた時点でどうしても差が出てしまう容姿や能力とは違い、そこに刻まれた意味と響きだけで勝負できる、文字という奇跡の発明を私は愛したから。
 それでしか、自分を表現できないと悟ったから。
「帰ろっと」
 段々暖かみが乗ってきた風を感じながら、周りに誰もいないことを周到に確認し、独り言をつぶやいた。きっとこれからも、こんな風に独りの時間が増える。慣れておく必要はないけれど、いや、やっぱりあるのかな。
 とりあえず今は、家に帰ろう。お母さんが私の大好物のオムライスを作って待ってくれている。お父さんが私の最後の制服姿を楽しみに待ってくれている。これだけ見ると、やっぱり私、小学生みたいだ。
 ホントに大丈夫かな、この先、私一人で。
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