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第三章 出版
秋③
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3 秋
「いよいよ最終日ですね、奏さん」
「ああ」
遂に予定されている口頭弁論の最終日を迎え、何事もなければ、今日が終わると次に裁判所を訪れるのは判決の日ということになる。
すなわち、今日が逆転の最後のチャンスというわけだ。
「本城さん、尊から連絡は?」
「いや、それがまだ……」
「そうですか」
いつも来てくれていた美月やお母さんだけでなく、先生や大野さん、さらにはお父さんや一花、大学の友人や先輩、奏さんの伯母さんまでもが駆け付けてくれた中、尊さんの姿はなかった。
「とりあえず行きましょうか」
「はい」
二人についていき、裁判所の中へと向かった。
法廷に入ると、既に佐々木有紗と彼女の弁護士は席に着いていた。
「なんか、やけに自信ありそうだな」
奏さんの言う通り、彼女らは前回のやり取りがなかったかのように、堂々としている。
「何か策があるんでしょうか?」
「わからない。ただ、前回のお返しに何かを仕掛けてきそうな雰囲気はある」
そうしていると、裁判官たちが入廷し、最終決戦の幕が開けた。
「それでは、名前と年齢、学校名をお願いします」
「はい。遊佐奏、二十三歳、中明大学四年生です」
相手の弁護士の問いかけに、奏さんは冷静に答える。
「あなたの証言では、あの小説はあなたが執筆し、それで完成させたということですか?」
「はい。厳密に言えば彼女と二人で、ですが」
私の方をチラリと見る。
「また、その小説は高校時代から書かれていたと?」
「はい。最初は高校のときに書き始めましたが、色々あって一度中断し、そしてまた色々あって、去年の四月から再開しました」
奏さんは最初の「色々あって」のときに佐々木有紗をチラリと見たが、彼女は平然と、むしろ楽しそうに、奏さんを見据えている。
「なるほど。話は変わりますが、あなたは執筆途中のデータというものをネット上に公開し、また今回も証拠として提出されていますよね?」
「はい。それが何か?」
相手の弁護士はそのタイミングで、軽く息を吸った。
「私もそのデータを拝見しましたが、その中に、主人公の行動はすべて妄想であり、最終的に今までの話がすべて現実ではなかったという内容がありますよね?」
「……確かに、そのような構想も以前はありました」
先ほどより、少しトーンを落として答える。
「なるほど。しかしですね、作者である五木あおい、もといこちらの佐々木有紗は、そのような構想などなかったと仰っていますが」
「それは、彼女が原作者ではないからではないですか……!?」
「ほう。では、あの構想案を考えたのはあなただったとしましょう。そうなると、あの妄想という設定もあなたが考えたことになります。さらにあなたは今回以前に、多くのSF小説や奇抜な題材の作品を新人賞に応募しています。ということは、あなたには妄想癖があり、その性格が今回の騒動を招いたと──」
「異議あり! 具体的な根拠なく本人を攻撃しています!」
本城さんの横槍により、一旦相手弁護士の口撃は止まった。
「では、質問を変えましょう。あなたは先ほど、高校時代に色々あったことで執筆をやめたと仰っていましたが、具体的には何があったのでしょうか?」
まさか、彼らがやろうとしていることって──
「奏くん! 答えなくていいぞ!」
本城さんが必死で守ろうとするも、裁判長に釘を刺される。
「……答えます。僕は高校二年生の頃、あの小説を書き始めました。それはほとんどの人には見せませんでしたが、今ここにいる佐々木有紗には、執筆途中の原稿を見せました。その際──」
奏さんは間を置き、目を一瞬閉じて、深く息を吸った。
「彼女は、僕の小説を嗤いました。『気持ち悪い』、『吐き気がする』、『近くにいると陰キャが感染るから近寄らないで』などと言って、僕のことを激しく非難しました。さらに、その小説は彼女の手によってクラス中に出回り、僕はクラスの嗤い者になりました。そのショックでしばらく学校には行けなくなり、同時に執筆もやめました」
今、彼が話しているのは、私や尊さん相手ではない。
知り合ってまだ日が浅い我々の関係者たちと、お互い名前すらあやふやで、しかも記録すら取られている、赤の他人相手である。その人たちに向かって、奏さんは今、最も心の奥に仕舞っておきたい、できることなら心の内から消え去ってほしい、そんな過去を赤裸々に語っている。と言うより、語らせられている。
「なるほど。しかしですね、彼女の元同級生、或いはあなたの元同級生でもあるのですが、その方によると、そんな騒動などなかったという証言を受けていますが」
「なっ……!?」
奏さんは激しく動揺した。
佐々木有紗は当時、彼女を含めて四人組のグループで主に行動していたらしく、おそらくそのときのメンバーの一人が、彼女が有利になるように、証言を捏造したのだろう。
「確かに遊佐さんは数ヵ月間、高校を欠席していたのは事実なようです。それは元同級生の方も仰っていました。しかしその時期、確かあなたの父親、自殺したそうじゃないですか」
「そ、それは……」
え? どういうこと?
「ということは、あなたが高校を欠席することになった本当の理由は、その小説に関する一連の騒動などではなく、ただ単に家庭の事情だったのではないですか?」
「ち、違います! 父が自殺したのとその時期が重なったのは偶然で、それで……」
「皆さん、これでよくわかったでしょう!?」
自分の弁護士が攻勢を仕掛けているのを抑え込み、佐々木有紗が喋り出した。
「この男は単なる妄想好きで、しかも父親の自殺を忘れるために架空の事件をでっちあげる、そんな人間なんですよ! 正直私、彼の高校時代なんて全く覚えてません。確かにそんな小説がもし当時存在していたら、さっきの言葉、言ってしまいそうですけど」
裁判長に止められながらも、そう言い放ちながら仄かに嗤う佐々木有紗は、完全に勝ち誇った顔をしている。
「だから今回も、全部彼の妄想なんです! 高校時代にあったトラウマを語って悲劇のヒーロー気取るのも、私の小説を自分のものだって言い張るのも、全部、つまらない自分の人生を誰かに見てほしくて、誰かに構ってほしくて始めた妄想なんです!」
前回の帰り際、彼女が軽く前哨戦を仕掛けてきたことも、今日の初めから堂々とした態度を取っていたことも、すべて、彼らの手札だった。
彼らは奏さんの、佐々木有紗が作った高校時代の過去のトラウマ、私も知らなかった、その同時期に起きてしまった悲劇、あまつさえ二度も倒れることとなった、彼の精神的な脆さを利用し、彼に個人攻撃を仕掛けた。自分の口で、それが事実であると一番わかっている本人に言わせた上で、中途半端な身内と赤の他人の前で辱めに遭わせ、しかもそれを妄想だと断定して別の角度からも攻め、二重に彼の内面に攻撃を仕掛けた。
そうしてまた、奏さんをこの場で潰し、我々の戦意を完全に喪失させようと画策したのが、彼らの切り札だったのだ。
「こんな妄想男、逮捕してほしいくらいですよ。今頃、また危ないこと妄想して──」
「そこまで妄想で考えられるなら、今頃僕はハリウッドにいますよ」
しかし彼らが妄想していた奏さんは、今の奏さんではない。
「申し訳ないけど、あなたたちは僕の妄想力を過大評価してますよ」
今の奏さんは、間違いなく──
「僕の妄想力は所詮、そこにいるパートナーに呆れられ、危うくそのまま逃げられてしまいそうになるくらい、大したものなんかじゃないんですから」
前を、向いている。
「僕が書けるのは、現実の話だけです。よかったですよ、僕に大した妄想力がなくて。もしあったら今頃、パートナーの彼女と、あの小説を──」
現実を、生きている。
「完成させることができなかったんですから」
未来を、描いている。
「佐々木有紗さん。そんなに原稿が欲しいなら、僕が妄想で書いていたもの、全部差し上げましょうか?」
「……遠慮しとくわ」
佐々木有紗が顔を落とす。
「弁護士さん。他に何か質問あります?」
「……いえ、以上です」
相手の弁護士も顔を落とす。
「えーそれでは、すべての尋問が終了ということで、」
裁判長が、今日の終わりを告げようとする。
「判決の日に関しましては、指定した通りの判決期日で──」
「待ってください!!」
そのとき、傍聴席の方のドアが勢いよく開いた。
「本城さん、こんなに時間がかかって申し訳ない。間に合いました!?」
「わからないけど、やってみる」
勢いよく入ってきたその人物は、勢いよく私たちの方に駆け寄り、本城さんに何枚か紙を手渡した。
「ちょっと、あなたは一体何なんですか?」
「お騒がせしてすみません。しかしこれは、この裁判の行方を左右する重要な証拠です!」
「証拠? それはどういうことですか?」
「裁判長、ちょっといいですか?」
本城さんが裁判長の方に歩み寄る。
「たった今、重要な証人が到着したそうです。誠に勝手なお願いだとは承知しておりますが、あと一度だけ、証人尋問をやっていただくことはできませんか?」
そうして、手に持っている紙を裁判長に見せた。
「……!? なるほど、確かにこれは重要な証拠ですね。しかし、制度上許されることではなく──」
「彼女は仕事の関係で海外に住んでいるのですが、帰国する飛行機が遅れてしまい、この時間になってしまったんです! 誠に勝手ながら、特例という形で認めていただくことはできないでしょうか!?」
傍聴席にいる大柄な男性が、私たちの想いも乗せて、必死に投げかける。
「認められるわけないだろ!?」
当然、相手陣営は抵抗する。
「少々、お時間を頂けますか?」
裁判長はそう言うと、他の裁判官たちと相談を始めた。
流れるこの一時に、すべてのアドレナリンが注がれる。まるでワールドカップ決勝のPK戦のように、この一瞬が、永遠に感じられた。おそらく、最初で最後の結晶だ。
「……誠に異例ながら、事の重要性を鑑み、特例として、この書類の人物の証人尋問を行なう。それでは証人、中へ」
「ちょ、ちょっと!?」
佐々木有紗は咄嗟に立ち上がった。
「え、涼子!? なんであんたここに!?」
中に入ってきた人物を見て、今度は驚きのあまり、椅子にへたり込んだ。
その佐々木有紗の反応を見て、何気なく奏さんと目を見合わせる。
「……尊さん、間に合いましたね!」
「ああ。あいつなら、やってくれると信じてたよ!」
そうして戦いは、最終局面へと突入した。
「お名前と年齢、ご職業をお聞かせ願えますか?」
「はい。大沢涼子、二十三歳、今年から外資系企業に勤めています」
飛び入りで証言台に立っている彼女に対し、佐々木有紗は未だに信じられないという顔をしている。
「本日は勤め先から、それも日本に着いてすぐにここまで来ていただき、誠にありがとうございます。確認ですが、大沢さんはこちらにいる遊佐奏さん、それからあちらにいる佐々木有紗さんと、同じ高校だったということでよろしいですか?」
「はい、そうです。二年生の頃は二人と同じクラスでした」
本城さんが息を吸う。
「それではお伺いします。高校二年生の頃、あなたのクラスで何か騒動のようなことは起きませんでしたか?」
今度は大沢涼子さんが息を吸う。
「……二年の秋頃、私のクラスで、ある小説が出回りました。聞いた話によると、その小説は遊佐奏くんのものであり、悪い意味で、クラス中の噂になりました。しかもおそらく、その所為で、彼はしばらく学校を休みました」
室内中に騒めきが走る。
「静粛に!」
裁判長の声で音は表面的には収まるも、その気配は未だに強く充満している。
「それでは大沢さん、単刀直入にお尋ねします。あなたはその出回った小説の内容を憶えていますか?」
今度は一転、室内は静寂に満たされた。
「……いえ、申し訳ないのですが、今ここで詳細に言えるほどはっきりとは憶えてません」
佐々木有紗はその瞬間、ホッとしたようにため息をついた。
「しかし私は当時、佐々木有紗さんと、よく行動を共にしていました。なので私は噂ではなく、彼女から直接その小説のことを聞きました」
ホッとしたのも束の間、佐々木有紗はまた緊張に包まれたように、肩を強張らせた。
同時にそのとき、奏さんも、同じように緊張を全面に纏った。
「その際、彼女は私にその小説と思われる文章を写真で送ってくれました。おそらく、内容についての感想を共有したかったのだと思います」
「そのときの写真に載っている文章を、今ここで読み上げてもよろしいでしょうか?」
「私は大丈夫です」
同じタイミングで本城さんは奏さんにも目配せし、それに対して奏さんは頷いた。
「それでは読み上げます」
本城さんが読み上げた文章は、繊細で、なおかつ大胆で、感情の柔らかいところを一つずつ抓み、それが壊れないギリギリで放すことで、心にすっと入り込んでいく、そんな風に、可憐で、幼気で、奥ゆかしく、そして綺麗な、音の並びだった。
「……偶然でしょうか。今読み上げた文章が、佐々木有紗さんが発表した『月が、綺麗ですね。』の前半部分にそっくりそのまま登場しているのは」
もはやそのときの騒めきを止められる手段はなかった。
「こんなに文章が一致することなどありますか? この場に登場さえしていない元同級生だという人の証言と、今ここにいて、名前も顔も晒して友人相手に勇気を出してくれた人の証言、どちらがより信用できるでしょうか?」
本城さんが言い切ると、再び室内には沈黙が走った。
「以上です」
その瞬間、佐々木有紗が机を叩いた。
「……裏切ったわね、涼子」
「違うの! 私、有紗にはちゃんと生きてほしいの! 大学中退したって聞いて、その後連絡付かなくなって、すごく心配してた。だから小説家としてデビューするって聞いたとき、ホントに嬉しかった。すぐに作品も読んだ。だけど、なんとなくそれがどこかで見覚えあるなって思って、そしたら三年のときに同じクラスだった柳井くんから連絡が来て、事情説明されて──」
「うるさい! なによ、あんただって一緒になって嗤ってたくせに! 今さら正義の味方のつもり!? バッカじゃないの!?」
「確かに私も当時、みんなと一緒に遊佐くんのことを嗤った。それに関しては心から謝りたい。でもね、私、そのときの文章、本当は読んでてすごく感動した。だから今でも写真が手元に残ってるの。いつかまた読み返そうと思って、大事に取っておいたんだ」
そのとき、奏さんは目を閉じた。
「私、遊佐くんの文章、もっと読みたい。夏目さんと一緒に描く物語を、もっと見てみたい。あの小説を初めて読んだとき、私、興奮して一晩中読んじゃったの。その時期ちょうど海外生活始まったばかりで不安ばっかりだったんだけど、一瞬にして吹き飛んだ」
流れゆく一分一秒に文字を刻むようにして、彼女はこちらを向いた。
「遊佐くん、あのとき、みんなと一緒に嗤ってしまい、本当にごめんなさい。夏目さん、あなたとは会うのは初めてだけど、こんなに遅くなってしまい、本当にごめんなさい。こんなときに言うことではないと思うし、そんな資格ないのかもしれないけど、あの──」
彼女の眼は、本当に真っ直ぐだった。
「お二人の、ファンになってもいいですか?」
そのまま行けば、世界を一周してしまいそうなくらい。
「必ずこれからも、大沢さんの期待に応えられるような作品を創ってみせます」
彼女はこれ以上ない、満面の笑みを私たちにくれた。
「それでは以上で、審理をすべて終了致します。これ以後の例外は一切認めません」
裁判長の声が法廷に響き渡り、空気はゼロに還元された。
「民事裁判だと判決、聞かなくてもいいみたいですよ?」
「今さら俺が逃げると思ってるのか?」
判決当日、もう冬が目の前まで迫っていることもあり、あまり外で長居はしたくなかった。それでも来てくれたたくさんの人たちのために、一人一人に挨拶をする。平日にもかかわらず、最後の口頭弁論に来てくれた人たちはもちろん、尊さん、奏さんの母親、さらには大沢さんまでもが、再び来日して駆け付けてくれた。
「だが正直、今日だけはやめてほしかったな」
「え? なんでですか?」
その答えを予想する間もなく、何の躊躇もなしに訊いてしまった。
「今日、父の命日なんだ。そんな日にもし負けたら、俺まで自殺するかもしれないだろ?」
「……そんな恐ろしいこと平然と言わないでください」
しかし逆に、今日がそれを乗り越えるきっかけになるかもしれない。
いや、間違いなく、そうなってくれるはずだ。
「ちなみに奏さんのお父さんは、何をされていた方なんですか?」
「小説家だよ。書きたいものが書けない、もう耐えられないとか言って、置手紙だけ遺して一流の文豪張りに首括って死んじまった。その後の俺たちの苦労も考えないで」
そのときの彼の苦悩はわからない。本当はもっと、根深い理由があったのかもしれない。
しかし確実に、今の奏さんの姿を見たら、まだまだ生きていたいと、前を向いてくれると思う。
「あの世まで、今日の結果が届くといいですね」
「天国までって言わないあたり、お前やっぱり俺のこと舐めてるだろ?」
そんな風にいつものやり取りをしていると、本城さんがやって来た。
「それじゃ、行きましょうか」
いつもの本城さんのこの言葉も、今日で最後になるはずだ。
「それでは、判決を言い渡します」
もう見慣れてきた裁判長の相貌に、すべての視線が集まる。
「主文、名誉棄損罪について──」
室内にあるすべての聴覚が、聞き慣れているはずの一声に貫録すら覚える。
「原告の請求を棄却する」
横で奏さんが握りこぶしを作る。
「したがって反訴については、原告の請求を全面的に認め、被告は自らの持つ権利諸々を放棄し、原告に引き渡すことを命じる」
本城さんに肩を叩かれる。
「民事裁判であるので通常理由は省略しますが、今回は特別な事情が審理の中で発生したため、長くなりますが説明させていただきます。まずは──」
「おめでとう! 朱美さん、奏くん!」
裁判長はまだ理由を話していたが、本城さんは気にせず、私たちにだけ聞こえる声でこれ以上ない祝賀の言葉をくれた。
「朱美」
その横で、奏さんから声をかけられる。
「長い間、本当にご苦労だった。そして、ありがとう」
初めて、おそらくこの瞬間、世界で一番固く、強く、熱い握手を交わした。
「本城さん、奏さん」
言いたいことはたくさんあった。
しかし、一番伝えたかった言葉は一つだけ──
「本当に、ありがとうございました!」
そのとき、私の目頭が熱くなったかどうかは、何度も何度も遠回りさせながら、やっと『月が、綺麗ですね。』を完成させてくれた、かの原作者に直接訊いてみてほしい。
その後、たくさんの人から、たくさんの賛辞を貰った。一花や美月に関しては、抱きついて離れなかった。尊さんも珍しく、感情が昂っているようだった。
しかし奏さんは、たくさんの言葉を貰いながら、どこか落ち着きなく、我々以外の誰かを探しているようだった。そのため、なかなか裁判所の入り口付近から離れようとしない。
「あ、すみません。ちょっとだけ失礼します」
おそらく件の人物を見つけた奏さんは、公共施設の入り口で堂々と輪を作る我々から抜け出した。私もそれについていった。
「おい、佐々木」
「……ああ、あんたらか」
そこには、髪もメイクも完全に崩れ、この世の終わりのようにヨロヨロと歩く佐々木有紗がいた。
「これから、どうするつもりだ?」
「……別に、どうもしないけど。あの男にも逃げられちゃったし、……そうね、適当に養ってくれそうな中年男とアプリとかで知り合って、そのままゴールイン、的な」
その顔は、明らかに本意ではない。
「なあ、蛇の道は蛇、って言葉、知ってるか?」
「……は? なにそれ?」
少しだけ、奏さんの方に顔を向けた。
「まあ要は、人は同じような人間の考えや行動はよくわかるってことなんだけど、佐々木はその、そういう人間の界隈にばかりいるから、そういう考え方になってるんじゃないか?」
「なに? 説教?」
しかしすぐに、奏さんから目線を外す。
「とにかく、今までどんな生き方してこようが、これから前を向いて生きさえすれば、今までの蛇の道から抜け出せると思うんだ。俺が、そうだったように」
そのままの目線で、彼女は笑った。
「……あんたの文章読んでるときも思ったけど、相変わらず、変な言葉使うのね。今の言葉も全然例えになってないし。絶対、響きの良さで選んだでしょ、そのじゃがなんとかって言葉」
「……まあ、それは否めない」
彼女は笑ったまま、私たちの正面に立った。
「そんなにいいもんなら、ホントに書いてあげてもいいけど」
「え?」
片目でウインクをした彼女は、なるほど奏さんが一目惚れするほど、魅力的に見えた。
「小説」
去っていく彼女の足取りは、どこからどう見ても、敗者の後ろ姿には見えない。
そうしてやっと、盗作が発覚した今年の二月からの、もっと言えば書き始めた去年の四月からの、長い長い戦いが幕を下ろした。
「いよいよ最終日ですね、奏さん」
「ああ」
遂に予定されている口頭弁論の最終日を迎え、何事もなければ、今日が終わると次に裁判所を訪れるのは判決の日ということになる。
すなわち、今日が逆転の最後のチャンスというわけだ。
「本城さん、尊から連絡は?」
「いや、それがまだ……」
「そうですか」
いつも来てくれていた美月やお母さんだけでなく、先生や大野さん、さらにはお父さんや一花、大学の友人や先輩、奏さんの伯母さんまでもが駆け付けてくれた中、尊さんの姿はなかった。
「とりあえず行きましょうか」
「はい」
二人についていき、裁判所の中へと向かった。
法廷に入ると、既に佐々木有紗と彼女の弁護士は席に着いていた。
「なんか、やけに自信ありそうだな」
奏さんの言う通り、彼女らは前回のやり取りがなかったかのように、堂々としている。
「何か策があるんでしょうか?」
「わからない。ただ、前回のお返しに何かを仕掛けてきそうな雰囲気はある」
そうしていると、裁判官たちが入廷し、最終決戦の幕が開けた。
「それでは、名前と年齢、学校名をお願いします」
「はい。遊佐奏、二十三歳、中明大学四年生です」
相手の弁護士の問いかけに、奏さんは冷静に答える。
「あなたの証言では、あの小説はあなたが執筆し、それで完成させたということですか?」
「はい。厳密に言えば彼女と二人で、ですが」
私の方をチラリと見る。
「また、その小説は高校時代から書かれていたと?」
「はい。最初は高校のときに書き始めましたが、色々あって一度中断し、そしてまた色々あって、去年の四月から再開しました」
奏さんは最初の「色々あって」のときに佐々木有紗をチラリと見たが、彼女は平然と、むしろ楽しそうに、奏さんを見据えている。
「なるほど。話は変わりますが、あなたは執筆途中のデータというものをネット上に公開し、また今回も証拠として提出されていますよね?」
「はい。それが何か?」
相手の弁護士はそのタイミングで、軽く息を吸った。
「私もそのデータを拝見しましたが、その中に、主人公の行動はすべて妄想であり、最終的に今までの話がすべて現実ではなかったという内容がありますよね?」
「……確かに、そのような構想も以前はありました」
先ほどより、少しトーンを落として答える。
「なるほど。しかしですね、作者である五木あおい、もといこちらの佐々木有紗は、そのような構想などなかったと仰っていますが」
「それは、彼女が原作者ではないからではないですか……!?」
「ほう。では、あの構想案を考えたのはあなただったとしましょう。そうなると、あの妄想という設定もあなたが考えたことになります。さらにあなたは今回以前に、多くのSF小説や奇抜な題材の作品を新人賞に応募しています。ということは、あなたには妄想癖があり、その性格が今回の騒動を招いたと──」
「異議あり! 具体的な根拠なく本人を攻撃しています!」
本城さんの横槍により、一旦相手弁護士の口撃は止まった。
「では、質問を変えましょう。あなたは先ほど、高校時代に色々あったことで執筆をやめたと仰っていましたが、具体的には何があったのでしょうか?」
まさか、彼らがやろうとしていることって──
「奏くん! 答えなくていいぞ!」
本城さんが必死で守ろうとするも、裁判長に釘を刺される。
「……答えます。僕は高校二年生の頃、あの小説を書き始めました。それはほとんどの人には見せませんでしたが、今ここにいる佐々木有紗には、執筆途中の原稿を見せました。その際──」
奏さんは間を置き、目を一瞬閉じて、深く息を吸った。
「彼女は、僕の小説を嗤いました。『気持ち悪い』、『吐き気がする』、『近くにいると陰キャが感染るから近寄らないで』などと言って、僕のことを激しく非難しました。さらに、その小説は彼女の手によってクラス中に出回り、僕はクラスの嗤い者になりました。そのショックでしばらく学校には行けなくなり、同時に執筆もやめました」
今、彼が話しているのは、私や尊さん相手ではない。
知り合ってまだ日が浅い我々の関係者たちと、お互い名前すらあやふやで、しかも記録すら取られている、赤の他人相手である。その人たちに向かって、奏さんは今、最も心の奥に仕舞っておきたい、できることなら心の内から消え去ってほしい、そんな過去を赤裸々に語っている。と言うより、語らせられている。
「なるほど。しかしですね、彼女の元同級生、或いはあなたの元同級生でもあるのですが、その方によると、そんな騒動などなかったという証言を受けていますが」
「なっ……!?」
奏さんは激しく動揺した。
佐々木有紗は当時、彼女を含めて四人組のグループで主に行動していたらしく、おそらくそのときのメンバーの一人が、彼女が有利になるように、証言を捏造したのだろう。
「確かに遊佐さんは数ヵ月間、高校を欠席していたのは事実なようです。それは元同級生の方も仰っていました。しかしその時期、確かあなたの父親、自殺したそうじゃないですか」
「そ、それは……」
え? どういうこと?
「ということは、あなたが高校を欠席することになった本当の理由は、その小説に関する一連の騒動などではなく、ただ単に家庭の事情だったのではないですか?」
「ち、違います! 父が自殺したのとその時期が重なったのは偶然で、それで……」
「皆さん、これでよくわかったでしょう!?」
自分の弁護士が攻勢を仕掛けているのを抑え込み、佐々木有紗が喋り出した。
「この男は単なる妄想好きで、しかも父親の自殺を忘れるために架空の事件をでっちあげる、そんな人間なんですよ! 正直私、彼の高校時代なんて全く覚えてません。確かにそんな小説がもし当時存在していたら、さっきの言葉、言ってしまいそうですけど」
裁判長に止められながらも、そう言い放ちながら仄かに嗤う佐々木有紗は、完全に勝ち誇った顔をしている。
「だから今回も、全部彼の妄想なんです! 高校時代にあったトラウマを語って悲劇のヒーロー気取るのも、私の小説を自分のものだって言い張るのも、全部、つまらない自分の人生を誰かに見てほしくて、誰かに構ってほしくて始めた妄想なんです!」
前回の帰り際、彼女が軽く前哨戦を仕掛けてきたことも、今日の初めから堂々とした態度を取っていたことも、すべて、彼らの手札だった。
彼らは奏さんの、佐々木有紗が作った高校時代の過去のトラウマ、私も知らなかった、その同時期に起きてしまった悲劇、あまつさえ二度も倒れることとなった、彼の精神的な脆さを利用し、彼に個人攻撃を仕掛けた。自分の口で、それが事実であると一番わかっている本人に言わせた上で、中途半端な身内と赤の他人の前で辱めに遭わせ、しかもそれを妄想だと断定して別の角度からも攻め、二重に彼の内面に攻撃を仕掛けた。
そうしてまた、奏さんをこの場で潰し、我々の戦意を完全に喪失させようと画策したのが、彼らの切り札だったのだ。
「こんな妄想男、逮捕してほしいくらいですよ。今頃、また危ないこと妄想して──」
「そこまで妄想で考えられるなら、今頃僕はハリウッドにいますよ」
しかし彼らが妄想していた奏さんは、今の奏さんではない。
「申し訳ないけど、あなたたちは僕の妄想力を過大評価してますよ」
今の奏さんは、間違いなく──
「僕の妄想力は所詮、そこにいるパートナーに呆れられ、危うくそのまま逃げられてしまいそうになるくらい、大したものなんかじゃないんですから」
前を、向いている。
「僕が書けるのは、現実の話だけです。よかったですよ、僕に大した妄想力がなくて。もしあったら今頃、パートナーの彼女と、あの小説を──」
現実を、生きている。
「完成させることができなかったんですから」
未来を、描いている。
「佐々木有紗さん。そんなに原稿が欲しいなら、僕が妄想で書いていたもの、全部差し上げましょうか?」
「……遠慮しとくわ」
佐々木有紗が顔を落とす。
「弁護士さん。他に何か質問あります?」
「……いえ、以上です」
相手の弁護士も顔を落とす。
「えーそれでは、すべての尋問が終了ということで、」
裁判長が、今日の終わりを告げようとする。
「判決の日に関しましては、指定した通りの判決期日で──」
「待ってください!!」
そのとき、傍聴席の方のドアが勢いよく開いた。
「本城さん、こんなに時間がかかって申し訳ない。間に合いました!?」
「わからないけど、やってみる」
勢いよく入ってきたその人物は、勢いよく私たちの方に駆け寄り、本城さんに何枚か紙を手渡した。
「ちょっと、あなたは一体何なんですか?」
「お騒がせしてすみません。しかしこれは、この裁判の行方を左右する重要な証拠です!」
「証拠? それはどういうことですか?」
「裁判長、ちょっといいですか?」
本城さんが裁判長の方に歩み寄る。
「たった今、重要な証人が到着したそうです。誠に勝手なお願いだとは承知しておりますが、あと一度だけ、証人尋問をやっていただくことはできませんか?」
そうして、手に持っている紙を裁判長に見せた。
「……!? なるほど、確かにこれは重要な証拠ですね。しかし、制度上許されることではなく──」
「彼女は仕事の関係で海外に住んでいるのですが、帰国する飛行機が遅れてしまい、この時間になってしまったんです! 誠に勝手ながら、特例という形で認めていただくことはできないでしょうか!?」
傍聴席にいる大柄な男性が、私たちの想いも乗せて、必死に投げかける。
「認められるわけないだろ!?」
当然、相手陣営は抵抗する。
「少々、お時間を頂けますか?」
裁判長はそう言うと、他の裁判官たちと相談を始めた。
流れるこの一時に、すべてのアドレナリンが注がれる。まるでワールドカップ決勝のPK戦のように、この一瞬が、永遠に感じられた。おそらく、最初で最後の結晶だ。
「……誠に異例ながら、事の重要性を鑑み、特例として、この書類の人物の証人尋問を行なう。それでは証人、中へ」
「ちょ、ちょっと!?」
佐々木有紗は咄嗟に立ち上がった。
「え、涼子!? なんであんたここに!?」
中に入ってきた人物を見て、今度は驚きのあまり、椅子にへたり込んだ。
その佐々木有紗の反応を見て、何気なく奏さんと目を見合わせる。
「……尊さん、間に合いましたね!」
「ああ。あいつなら、やってくれると信じてたよ!」
そうして戦いは、最終局面へと突入した。
「お名前と年齢、ご職業をお聞かせ願えますか?」
「はい。大沢涼子、二十三歳、今年から外資系企業に勤めています」
飛び入りで証言台に立っている彼女に対し、佐々木有紗は未だに信じられないという顔をしている。
「本日は勤め先から、それも日本に着いてすぐにここまで来ていただき、誠にありがとうございます。確認ですが、大沢さんはこちらにいる遊佐奏さん、それからあちらにいる佐々木有紗さんと、同じ高校だったということでよろしいですか?」
「はい、そうです。二年生の頃は二人と同じクラスでした」
本城さんが息を吸う。
「それではお伺いします。高校二年生の頃、あなたのクラスで何か騒動のようなことは起きませんでしたか?」
今度は大沢涼子さんが息を吸う。
「……二年の秋頃、私のクラスで、ある小説が出回りました。聞いた話によると、その小説は遊佐奏くんのものであり、悪い意味で、クラス中の噂になりました。しかもおそらく、その所為で、彼はしばらく学校を休みました」
室内中に騒めきが走る。
「静粛に!」
裁判長の声で音は表面的には収まるも、その気配は未だに強く充満している。
「それでは大沢さん、単刀直入にお尋ねします。あなたはその出回った小説の内容を憶えていますか?」
今度は一転、室内は静寂に満たされた。
「……いえ、申し訳ないのですが、今ここで詳細に言えるほどはっきりとは憶えてません」
佐々木有紗はその瞬間、ホッとしたようにため息をついた。
「しかし私は当時、佐々木有紗さんと、よく行動を共にしていました。なので私は噂ではなく、彼女から直接その小説のことを聞きました」
ホッとしたのも束の間、佐々木有紗はまた緊張に包まれたように、肩を強張らせた。
同時にそのとき、奏さんも、同じように緊張を全面に纏った。
「その際、彼女は私にその小説と思われる文章を写真で送ってくれました。おそらく、内容についての感想を共有したかったのだと思います」
「そのときの写真に載っている文章を、今ここで読み上げてもよろしいでしょうか?」
「私は大丈夫です」
同じタイミングで本城さんは奏さんにも目配せし、それに対して奏さんは頷いた。
「それでは読み上げます」
本城さんが読み上げた文章は、繊細で、なおかつ大胆で、感情の柔らかいところを一つずつ抓み、それが壊れないギリギリで放すことで、心にすっと入り込んでいく、そんな風に、可憐で、幼気で、奥ゆかしく、そして綺麗な、音の並びだった。
「……偶然でしょうか。今読み上げた文章が、佐々木有紗さんが発表した『月が、綺麗ですね。』の前半部分にそっくりそのまま登場しているのは」
もはやそのときの騒めきを止められる手段はなかった。
「こんなに文章が一致することなどありますか? この場に登場さえしていない元同級生だという人の証言と、今ここにいて、名前も顔も晒して友人相手に勇気を出してくれた人の証言、どちらがより信用できるでしょうか?」
本城さんが言い切ると、再び室内には沈黙が走った。
「以上です」
その瞬間、佐々木有紗が机を叩いた。
「……裏切ったわね、涼子」
「違うの! 私、有紗にはちゃんと生きてほしいの! 大学中退したって聞いて、その後連絡付かなくなって、すごく心配してた。だから小説家としてデビューするって聞いたとき、ホントに嬉しかった。すぐに作品も読んだ。だけど、なんとなくそれがどこかで見覚えあるなって思って、そしたら三年のときに同じクラスだった柳井くんから連絡が来て、事情説明されて──」
「うるさい! なによ、あんただって一緒になって嗤ってたくせに! 今さら正義の味方のつもり!? バッカじゃないの!?」
「確かに私も当時、みんなと一緒に遊佐くんのことを嗤った。それに関しては心から謝りたい。でもね、私、そのときの文章、本当は読んでてすごく感動した。だから今でも写真が手元に残ってるの。いつかまた読み返そうと思って、大事に取っておいたんだ」
そのとき、奏さんは目を閉じた。
「私、遊佐くんの文章、もっと読みたい。夏目さんと一緒に描く物語を、もっと見てみたい。あの小説を初めて読んだとき、私、興奮して一晩中読んじゃったの。その時期ちょうど海外生活始まったばかりで不安ばっかりだったんだけど、一瞬にして吹き飛んだ」
流れゆく一分一秒に文字を刻むようにして、彼女はこちらを向いた。
「遊佐くん、あのとき、みんなと一緒に嗤ってしまい、本当にごめんなさい。夏目さん、あなたとは会うのは初めてだけど、こんなに遅くなってしまい、本当にごめんなさい。こんなときに言うことではないと思うし、そんな資格ないのかもしれないけど、あの──」
彼女の眼は、本当に真っ直ぐだった。
「お二人の、ファンになってもいいですか?」
そのまま行けば、世界を一周してしまいそうなくらい。
「必ずこれからも、大沢さんの期待に応えられるような作品を創ってみせます」
彼女はこれ以上ない、満面の笑みを私たちにくれた。
「それでは以上で、審理をすべて終了致します。これ以後の例外は一切認めません」
裁判長の声が法廷に響き渡り、空気はゼロに還元された。
「民事裁判だと判決、聞かなくてもいいみたいですよ?」
「今さら俺が逃げると思ってるのか?」
判決当日、もう冬が目の前まで迫っていることもあり、あまり外で長居はしたくなかった。それでも来てくれたたくさんの人たちのために、一人一人に挨拶をする。平日にもかかわらず、最後の口頭弁論に来てくれた人たちはもちろん、尊さん、奏さんの母親、さらには大沢さんまでもが、再び来日して駆け付けてくれた。
「だが正直、今日だけはやめてほしかったな」
「え? なんでですか?」
その答えを予想する間もなく、何の躊躇もなしに訊いてしまった。
「今日、父の命日なんだ。そんな日にもし負けたら、俺まで自殺するかもしれないだろ?」
「……そんな恐ろしいこと平然と言わないでください」
しかし逆に、今日がそれを乗り越えるきっかけになるかもしれない。
いや、間違いなく、そうなってくれるはずだ。
「ちなみに奏さんのお父さんは、何をされていた方なんですか?」
「小説家だよ。書きたいものが書けない、もう耐えられないとか言って、置手紙だけ遺して一流の文豪張りに首括って死んじまった。その後の俺たちの苦労も考えないで」
そのときの彼の苦悩はわからない。本当はもっと、根深い理由があったのかもしれない。
しかし確実に、今の奏さんの姿を見たら、まだまだ生きていたいと、前を向いてくれると思う。
「あの世まで、今日の結果が届くといいですね」
「天国までって言わないあたり、お前やっぱり俺のこと舐めてるだろ?」
そんな風にいつものやり取りをしていると、本城さんがやって来た。
「それじゃ、行きましょうか」
いつもの本城さんのこの言葉も、今日で最後になるはずだ。
「それでは、判決を言い渡します」
もう見慣れてきた裁判長の相貌に、すべての視線が集まる。
「主文、名誉棄損罪について──」
室内にあるすべての聴覚が、聞き慣れているはずの一声に貫録すら覚える。
「原告の請求を棄却する」
横で奏さんが握りこぶしを作る。
「したがって反訴については、原告の請求を全面的に認め、被告は自らの持つ権利諸々を放棄し、原告に引き渡すことを命じる」
本城さんに肩を叩かれる。
「民事裁判であるので通常理由は省略しますが、今回は特別な事情が審理の中で発生したため、長くなりますが説明させていただきます。まずは──」
「おめでとう! 朱美さん、奏くん!」
裁判長はまだ理由を話していたが、本城さんは気にせず、私たちにだけ聞こえる声でこれ以上ない祝賀の言葉をくれた。
「朱美」
その横で、奏さんから声をかけられる。
「長い間、本当にご苦労だった。そして、ありがとう」
初めて、おそらくこの瞬間、世界で一番固く、強く、熱い握手を交わした。
「本城さん、奏さん」
言いたいことはたくさんあった。
しかし、一番伝えたかった言葉は一つだけ──
「本当に、ありがとうございました!」
そのとき、私の目頭が熱くなったかどうかは、何度も何度も遠回りさせながら、やっと『月が、綺麗ですね。』を完成させてくれた、かの原作者に直接訊いてみてほしい。
その後、たくさんの人から、たくさんの賛辞を貰った。一花や美月に関しては、抱きついて離れなかった。尊さんも珍しく、感情が昂っているようだった。
しかし奏さんは、たくさんの言葉を貰いながら、どこか落ち着きなく、我々以外の誰かを探しているようだった。そのため、なかなか裁判所の入り口付近から離れようとしない。
「あ、すみません。ちょっとだけ失礼します」
おそらく件の人物を見つけた奏さんは、公共施設の入り口で堂々と輪を作る我々から抜け出した。私もそれについていった。
「おい、佐々木」
「……ああ、あんたらか」
そこには、髪もメイクも完全に崩れ、この世の終わりのようにヨロヨロと歩く佐々木有紗がいた。
「これから、どうするつもりだ?」
「……別に、どうもしないけど。あの男にも逃げられちゃったし、……そうね、適当に養ってくれそうな中年男とアプリとかで知り合って、そのままゴールイン、的な」
その顔は、明らかに本意ではない。
「なあ、蛇の道は蛇、って言葉、知ってるか?」
「……は? なにそれ?」
少しだけ、奏さんの方に顔を向けた。
「まあ要は、人は同じような人間の考えや行動はよくわかるってことなんだけど、佐々木はその、そういう人間の界隈にばかりいるから、そういう考え方になってるんじゃないか?」
「なに? 説教?」
しかしすぐに、奏さんから目線を外す。
「とにかく、今までどんな生き方してこようが、これから前を向いて生きさえすれば、今までの蛇の道から抜け出せると思うんだ。俺が、そうだったように」
そのままの目線で、彼女は笑った。
「……あんたの文章読んでるときも思ったけど、相変わらず、変な言葉使うのね。今の言葉も全然例えになってないし。絶対、響きの良さで選んだでしょ、そのじゃがなんとかって言葉」
「……まあ、それは否めない」
彼女は笑ったまま、私たちの正面に立った。
「そんなにいいもんなら、ホントに書いてあげてもいいけど」
「え?」
片目でウインクをした彼女は、なるほど奏さんが一目惚れするほど、魅力的に見えた。
「小説」
去っていく彼女の足取りは、どこからどう見ても、敗者の後ろ姿には見えない。
そうしてやっと、盗作が発覚した今年の二月からの、もっと言えば書き始めた去年の四月からの、長い長い戦いが幕を下ろした。
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