箱庭の空をあげる

ゆるふわ畜生

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1.出会い

1.鈍色の空

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 ノルは、鈍色の雲に覆われた空を見上げていた。何度見ても変わらない光景。真っ昼間だというのに、地上には一筋の光さえ差さない。昼間だと分かるのは、分厚い雲間をくぐり抜けた僅かな陽光が、かろうじて周囲を仄暗く照らしているからに過ぎない。

 雲の先には空がある――そう教えてくれたのは、母親だった。数百年生きた猫獣人のくせにどうにも要領が悪く、狩りも出来ないものだから、父親に捨てられてからは客を取って日銭を稼いでいた。母親の仕事が終わるのは、いつだって夜が深まってからだったが、薄いぼろきれのような毛布に一緒になって包まるのは嫌いではなかったから、母の仕事場の隣で膝を抱えて待っていた。

『昔はね、雲の先には綺麗な空が見えたの――あの人と……お前と同じ綺麗な青色の空がね』

 母親が寝入りばなに話すのは、決まって雲の先にある『青空』というものの話だった。最初のうちはただ父親だった男を恋しがっているだけだと思っていたが、すぐにその考えは間違っていることに気づいた。ノルの髪を梳かすときの丁寧な仕草、仕事が終わる度にノルの髪に顔を埋めること、眠る前にノルの毛繕いをすること、母はノルを通して『青空』を見ていた。ここでは――いや、この世界のどこでももう、青い空なんて見ることはできないから。 房にいくつも実を付けた葡萄のように、バラックが軒を連ねるそこに住み始めたのがいつからだなんて、もう覚えていない。社会で上手くやれなかった奴らが息を潜めて生活する――それがスラム・ムルクホルムだった。

「探したぜ、やっぱりここにいやがったか」

 ふと背後から声がした。這うような低い声に、ノルの頭から生える三角耳がぴくぴくと動いた。しかし、ノルは振り向かない。振り向くまでもないからだ。気配を隠すつもりもないのか、先ほどから鋭い殺気が背中に突き刺さっている。

「……何か用か」

「何か用か、だと……? てめぇのせいで俺はあの店を追い出された! もう二度と足を踏み入れるなとのおまけつきだ‼ 忘れたとは言わせねえぞ‼」

 男が咆哮にも似た怒鳴り声を上げた。ビリビリと空気が震え、ただでさえ吸い心地の良くない空気が不味くなった気がした。ようやくノルは立ち上がると、気配の主へと向き直った。視線の先には、思った通りの男がいた。体格の良い、人間の男だ。二の腕や太腿は、スラムに住む女子供の胴ほどあり、普段から良いものを食っているのだろうと想像がつく。ここで良いものを食っていられる奴はスラムの中でも治安を維持する有権者か、ろくでもない仕事で稼ぎを得ている奴の二択だ。男は、後者だった。

「それはあんたがルールを破ったからだ。娼館の商品たる女に怪我をさせた。ここで五体満足の女がどれだけ貴重か、知らないわけじゃないだろ」

「うるせえ! この俺が抱いてやるってのに、抵抗なんざするからだ‼」

「……救えないな」

 もとより対話をする気がない相手とのやり取りはそれだけで疲弊する。吐き捨てるように口にした言葉に、男の顔が怒りのあまり赤黒く染まり、表情がぐにゃりと歪んだ。

「てめえ、調子に乗ってんじゃねえぞ! 猫風情が‼」

 男が振りかぶった拳を、ノルは素早い身のこなしで交わした。そのまま地面を踏みしめ、方向転換すると男めがけて突っ込む。相手の懐に飛び込んだところで足を高く上げ、勢いよく股間を蹴り上げた。声にならない声を上げ、男の体が前のめりに崩れ落ちる。その隙に腰のベルトから取り出したナイフを男の首元へとぴたりと当てた。

「まだやるか?」

 研ぎ澄まされたナイフの鋭い輝きに、男が生唾を飲んだ。ぶるぶると唇を震わせながら小さく首を振る男に、ノルは小さく息を吐くと、ナイフを持つ手を下ろした。地面に倒れ伏したままの男から身を離した、そのときだ。

「死ね‼」

 男の手元が光ったかと思うと、焼けるような痛みが右太腿に走った。咄嗟に逆の足をバネにして、後方へ大きく跳ぶと、先ほどまでノルが立っていた箇所に五ミリほどの孔がいくつも空いた。
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