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母親

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到着を知らせるチャイムがなり、エレベーターの扉が開く。外に出ると、緩やかな風が首筋を撫でた。

「だいぶ遅くなっちゃったな」
 
スマートフォンで時刻を確認する。もう時期七時半になる。こんな遅くまで制服を着ていたことは、今まで一度もなかった。
 
予定通りにバイトが終わるとすれば、ずいぶん前に母さんは家に帰っているだろう。それから晩御飯を作って、明日の準備をして、風呂に入って、洗濯物を回して、もう時期就寝する頃だろう。
 
夜になっても帰ってこない息子のことを心配しているかもしれない。制服や通学カバンがなくなっていることに気がつけば学校に行ったと考えるだろうが、部活動に参加したことまでは想像できないはずだ。変な事件に巻き込まれたのかと気がかりな気持ちになっているかもしれない。学校を出る前に遅くなることを連絡しておけば良かった。
 
母さんのことを考えながら狭い通路を進む。ほとんどの部屋の窓からは、家庭を照らす灯りが漏れていた。
 
奥から二番目の部屋の前に立ち、財布の中から鍵を取り出す。母さんの睡眠を妨げないためにも、インターフォンは押さないようにしている。
 
ドアノブに鍵を差し込んで、静かに家の扉を引いた。

「……あれ?」
 
リビングからテレビの音と光が漏れている。バラエティ番組がついているようで、司会者のツッコミに合わせて母さんの笑い声が聞こえた。
 
静かに靴を脱ぎ、足音を殺して早々と自室に向かう。
 
電気をつけて通学カバンを机の横に引っ掛ける。そしてズボンとネクタイを脱いでハンガーにかけ、パジャマとパンツを持って部屋を出た。

「おかえり」
 
自室を出たと同時に、母さんの声が聞こえた。

「……ただいま」
 
廊下を引き返して、リビングに顔を出す。母さんは足を投げ出して床に座っていた。

「随分と遅かったけど、何かあった?」
 
話している間も、母さんはテレビから目を離さない。テレビの中では、司会の男がゲストに指し棒の先を向けて質問をしている。番組のレギュラーは有名な芸人ばかりなので知っていたが、質問されているゲストの女性は見たこともなかった。最近、高校生の間で人気を博している地下アイドルらしい。

「別に何もなかったよ」
 
厳密に言えば何もなかったわけではないが、事件に巻き込まれたり不良に絡まれたりはしていない。

「なら良かった」

「うん。心配かけてごめん」

「今度からはちゃんと連絡してよ」
 
単調な返しだったが、怒っている様子はなかった。テレビに集中しているのか、それとも気を使ってくれているのかはわからなかったが、今日のことを根掘り葉掘り聞かれるよりもずっといい。場の空気に敏感なのは、母さん譲りの性格なのかもしれない。僕自身もその親切さには何度も救われた。

「こういう番組見るの珍しいね」
 
働き詰めの母さんは、天気予報や朝のニュースチェック以外の目的でテレビをつけることはなかった。数年前に言った「くだらない番組やドラマを見るくらいならば睡眠を取って明日に備えた方がマシだ」という言葉は今でも覚えている。

「暇だったからね。久しぶりに見たけどやっぱり面白いよ」
 
編集で後付けされた観客の笑い声に合わせて、母さんも笑う。番組の内容は面白く感じなかったが、母さんの豪快な笑い声につられて思わず吹き出してしまった。
 
興味のない話題だったが、不思議と見入っていた。面白いと感じないのに、母さんが笑うと思わずクスッとしてしまう。

「そろそろ寝ようかな、明日も朝早いし」
 
一つのコーナーが終わってCMに入った頃、母さんがリモコンを手に取って呟いた。こちらを見て、首を傾げている。消していいかどうか尋ねているのだろう。

「いいよ。風呂入るから」

「わかった」
 
バチンとテレビが暗転して、部屋の中が一気に静まり返る。母さんは口元を抑えながら大きなあくびをした後、両手のひらを天井に向けて背筋を伸ばした。

「後で洗濯機回すから、洗うものあったら出しておいてね」

「うん」
 
頷いて、足を踏み出す。
 
リビングにある丸テーブルの上には、カレーライスがラップされた状態で置かれていた。
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