上 下
43 / 66

踏み出す勇気

しおりを挟む
目を覚ました頃には、通学時間はとっくに過ぎていた。太陽が高い場所まで登っており、朝特有の匂いも残っていない。十時間近く眠っていたので頭が痛かった。
 
昨夜、意識がうっすらとして眠りに就けたのは、てっぺんを過ぎた後だった。学校のことや部活動のこと、それから星見さんのことと、一日のうちにあったことが次々に思い出されてしまい脳が覚醒し続けていた。
 
行くかどうか迷っていた学校も、この時間になってからでは行くことができない。背景になってしまったようなあの空気は辛かったが、星見さんと会えるというだけの理由で登校しようか悩んでいた。しかし今から行っても、五時限目の途中で教室に入って無駄に注目を浴びるだけだ。
 
ベッドから這い出て大きく伸びをする。たった一日登校しただけなのに、平日のこの時間に自室にいることが不思議に思えた。本来ならば五時間くらい前に起床して、今頃は眠気と戦いながら授業を受けているはずだ。
 
勉強机の上に、口の開いた通学カバンが乗っている。乱雑に置いたせいで、学校から持ってきたプリントや教科書などが飛び出ていた。
 
スマートフォンを手にしたまま部屋を出て、洗面所で顔を洗う。目元がスッキリすると、今度は口の中が気になって歯ブラシに手を伸ばした。乱れた歯ブラシの先を水に当てて、大雑把に歯を磨いた。
 
洗面所を離れてリビングの扉を開くと、テーブルに朝食が置かれているのがわかった。いつも通り白米が茶碗によそってあり、梅干しの入った透明の小瓶が添えられている。味噌汁の中には、わかめと豆腐が浮いていた。
 
朝食を電子レンジで温める。ぐるぐると回転する茶碗を見ながら、リビングの時計に目をやった。もう時期、十二時になる。三十分経てば授業が終わって、待ちに待った昼休みが訪れる。自分の席を離れて、学食やら友人の席やらに移って昼食をとる姿が目に浮かぶ。
 
ほとんどの生徒の顔が朧げな状態だったが、一人だけ鮮明に描かれた人がいた。肩まで伸びた髪の毛が、微笑むたびに揺れている。丸い瞳は、彼女の周囲で楽しそうに笑う生徒たちの姿を写していた。
 
妄想を砕くかのように、電子レンジが音を立てる。浮かび上がっていた教室の景色がシャボン玉のように弾けて、僕を現実へと引き戻した。
 
取り出せと二度目の音を鳴らされて、電子レンジを開く。茶碗まで温かくなっている。パジャマの袖を伸ばして、火傷しないようにテーブルへと運んだ。

「あれ……?」
 
引いた椅子の上に、学校指定のシャツと靴下が置かれていた。シワはついていない。僕が寝ている間に、母さんがアイロンをかけてくれたのだろう。
 
制服を隣の椅子に移動させると、一枚の紙がひらひらと落ちていった。間に挟んであったみたいだ。以前と同じように、ボールペンで短く文章が綴られている。僕と違って、母さんの字は整っていて読みやすい。
 
ここ数週間の僕の行動については、触れていなかった。ぼんやりと悩む息子の肩にそっと手を乗せるような内容が記されている。『頑張れ』という文字も『負けるな』という文字も入っていないシンプルな文章は、無理やり背中を押されるよりも断然いいと思ってしまう。
 
自分のペースで、時間をかけて前に進む準備ができるからだ。
 
少し前の、自分を中心とした生活ならばそれで良かった。環境が変化をしないから、僕も含めて誰一人傷つかず、迷いが生じることもない。隣り合っていない歯車は、どんな速度で回っても輪を乱すことはなかった。

「……でも」
 
独り言を言ったのは、自分自身に言い聞かせるためだった。僕に寄り添ってくれる人がいるならば、最低限でもそれに応じる義務がある。今まで散々もらってきた優しさと時間は、いつか自分なりの答えに変換して返さなければいけない。他人にとっては些細で、僕にとっては大きな変化が、目の前で起こり始めている。
 
僕が準備をしている間も、同じ速度で時間は進んでいる。
 
いずれは追いつけると信じて支度をしているうちに、一人取り残されてしまう。自分だけが壊れた歯車になったようで、コミュニティにいることが怖くなり逃げ続けた。解決策があることも、その先に些細な幸せがあることも知っていながら薄暗い部屋の中で丸くなっていた。孤独に苛まれていたあの頃の僕ならば、それ以外の手段が取れなかった。
 
でも、今は違う。
 
深い穴から助け出してくれた人たちがいる。
 
上手く笑えない僕の前で、微笑み続けてくれる人たちがいる。
 
自分のペースで前に進んでいいということは、自分で速度を上げなければ追いつけないということだ。早く歩くことを強要することは間違っていても、ゆっくりと歩いているばかりでは孤独から抜け出すことはできない。並んで歩きたい誰かが遠くにいるなら、走って追いつく必要がある。
 
遠い道の先で手を振っている星見さんに追いつきたいと思った。昨日のように、日常の中にある些細な会話をしたいと感じた。
 
頭の中で、昨日の別れ際に言われた言葉が剥き出しになっていく。星見さんからしてみれば何ともない言葉の数々だ。
 
僕がその場にいることを、期待してくれる人がいる。
 
自分がその期待に応えたいと思っているのが、無性に嬉しく感じられた。

「……今日も部活あるのかな」
 
先輩の説明通りならば、今日も開かれている。月火と連続した後、二日空いて週末に一度だけ活動する。文化部ということもあってか土日は活動しないらしいが、二ヶ月に一回くらいの頻度で遊びに行ったりもしているらしい。
 
授業には間に合わないが、部活になら間に合うはずだ。どうせクラスメイトは僕の顔など覚えていないだろうから、すれ違った所で問題にはならないだろう。
 
マイナスばかりを見ていた思考が、プラスへと視線を移した。対面していた恐怖は、今は視界に入っていない。克服までの道のりに色がついていく。

「少しずつ、ペースを上げていくんだ」

身体中が満たされていくのを感じながら、パジャマを脱いでシャツを手に取った。
しおりを挟む

処理中です...