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第一の旅人
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ここはどこだ。
身体が粘土に埋められたように上手く動かない。
いや、この粘土、どこから粘土なのか感覚を麻痺させている。身体は動いているのかもしれない。幸介はそう考えてみた。
何か液体の中に沈んでいるのかも。
白い風景はただの目の前の液体の色なのかもしれない。
ところが、身体を少し動かしているうちに、そうではないことが分かってきた。
どうやら、いま、俺の身体は本当にこの白くて水っぽい粘土との境を失くしているのだ。
(いや、そうじゃない!)
幸介はまどろみから覚めたように不意にそう思った。
(俺は今、粘土になっている!)
はっきりとその事が意識されると、今度は別の考えが、というか見え方ができた。
(周りが白いのは粘土の白い目で見ているからだ。それに、もしかしたら俺自身は白くないかもしれない。そうだ、ここは砂漠だ。ああ、そうだった。ここは砂漠。僕は喘ぐ人魚だ)
覚めていってるのか、眠りに落ちているのか分からない感覚で幸介は考え続けた。考える、というより、選択に近い工程をほぼ反射的に行い続けた。
砂漠の砂の色、感触、空の色、雲の数、自分の姿その細部、色、光、匂い、感情、自分で決めているのか、誰かがてきぱきと決めていくのを眺めているのか分からなかったが、決まったことは形になっていった。目覚めたのか、夢に落ちたのか、幸介が目を開くと荒い粒子の砂漠に横たわっていた。上体を起こそうとするが上手くできない。足が痺れているのだ。
何度か起きようと試し、その度に失敗するので不審に思い、うつ伏せの状態から転がって仰向けになってみた(これはできた)。
やってみて「ああ、そうだった」と思った。幸介の下半身は臍があったはずの位置より十センチほど上から藍色の鱗が生え、腰より下に足はなく、魚の尾鰭が死んだように横たわっていた。
死の匂い。尾鰭から続く乾いた鱗から濃く、そして、見間渡す限り荒い砂漠である世界のすべてから薄らと(しかし目に見えるようにしっかりと)、死の匂いはすべてから漂った。
(ああああああぁぁぁーー……!!)誰もいない空間で、人魚になった幸介は頭を抱えて声に出さずに叫んだ。
真実が見えてしまった。見たくなかった、見ようとしなかった、あまりに、酷い、真実が。
(あの二人……)痛みは吸い上げられるように出口を探し、無理矢理にこじ開けた口から逃れ始める。
(羊追い……? ふざけるな。やっぱり死神だったんだ)
痛みを怒り、そして憎悪に変換してやり過ごそうとする。
ところが、「違う」と誰かが言う。はっきりと、太陽のように消しようがない確かさで。
「彼らは『与えるもの』と言っていた。死神とは反対のものだ。そして、僕が逃げて見ずにきた生をこうして目の前に与えたのだ」
(だから、なんだ。こんな世界では「死」しか見えない。それが奴らが死神であることと何が違うんだ!)
「もともと、僕らには死しかなかったじゃないか。生から逃げていたのだから。彼らは生きるチャンスを僕らにくれたんだ。これが最後かもしれないチャンスを」
ああー、うるせえーー!!!
これは、空気を震わす本当の声だった。幸介の生の声。そして、こころの生の声でもあった。
猫を被った幸介が十数年振りに上げた産声のようなもの。
うるせえよ、うるせえーー。うるせえーー!!!
一度声を上げると、自分に溜まっていた澱を吐き出し切るまで幸介は叫び続けた。
もしかして、赤ちゃんもこうやって生まれるのだろうか。だから、無垢であるのだろうか。
幸介は叫び続けた果て、力尽きて倒れたまま空を仰いだ。動けない身体が、それなのに先程とはうって変わり生の感触に溢れていた。
そうだ、きっと、赤ちゃんはこうして生まれて、こうやって生きていくのだろう。悪いものをその都度排出しながら、無垢に。
いつから人はそう生きられなくなるのだろう。
いつから……。
幸介の瞼から涙が零れた。滲んだ景色を幸介はそのままにして空を眺め続けた。
白く雲は流れ、空は青い。ずっとそうであったはずなのに、どうしてまた思い出すのだろう。
砂漠を渡る風が、酷く懐かしい。
砂を踏む音が近づいてきて、見るとあの二人が傍らに立った。
「どうだろう、この世界であなたはどうしますか?」
ハットがこんなにも暑いなかに、先程と同じ厚いコートを着込んで涼しげに言葉を投げ掛ける。
「あなたは誰?」
幸介の口から勝手に言葉が出る。
「名乗る程でもないさ」
「いや、聞かせて」
ハットから覗く目を見返す。自分でも驚くほど強い言葉が出た。
「……君らのためにここにいるものさ。もしくは、誰かのためにここにいる。本来ここにいるものではないもの」
「見えないな」
「本当は僕も個人的な誰かのために生きているのさ。その人を救うために。だけど、ここに物語が交差したのさ」
幸介はすぼめた唇から溜息を短く吐く。
「違うよ。いや、分かった。だから、僕が君を何て呼ぶべきか教えて欲しいな」
今度はハットが溜息を平たく吐いた。
「お願いだから」畳み掛けてみる。
「僕は、ここに名を残すべきじゃないんだ。あなたが呼びたいように呼んでもらって構わない」
ここまでの会話で幸介は自分を恐ろしく幼く感じていた。まるで千年生きた物の怪と会話しているようだ。
「鼠のノノよ」
突然口を開いた華子穂の似姿がそう言う。
ノノと呼ばれたハットの鼠(幸介にはまだそうは見えない)は少し顔を強ばらせ彼女を見ると、すぐに視線を逆へと送り苛立たそうな表情をした。そしてやはり溜息を吐いた。
「いいじゃない、減るもんじゃなし」
「それでも」鼠は言う。
「それでも、僕はそう呼ばれたくない。なぜなら、あなたはそう呼ぶべきじゃないからだ。本格的に物語を錯綜させるべきじゃない」
観念した表情をし、鼠は「スピア」と言った。
「スピア?」
幸介は繰り返す。
「そう呼んでもらいたい」
不思議な気分だったが、こうして鼠のノノをスピアと呼ぶこととなった。
身体が粘土に埋められたように上手く動かない。
いや、この粘土、どこから粘土なのか感覚を麻痺させている。身体は動いているのかもしれない。幸介はそう考えてみた。
何か液体の中に沈んでいるのかも。
白い風景はただの目の前の液体の色なのかもしれない。
ところが、身体を少し動かしているうちに、そうではないことが分かってきた。
どうやら、いま、俺の身体は本当にこの白くて水っぽい粘土との境を失くしているのだ。
(いや、そうじゃない!)
幸介はまどろみから覚めたように不意にそう思った。
(俺は今、粘土になっている!)
はっきりとその事が意識されると、今度は別の考えが、というか見え方ができた。
(周りが白いのは粘土の白い目で見ているからだ。それに、もしかしたら俺自身は白くないかもしれない。そうだ、ここは砂漠だ。ああ、そうだった。ここは砂漠。僕は喘ぐ人魚だ)
覚めていってるのか、眠りに落ちているのか分からない感覚で幸介は考え続けた。考える、というより、選択に近い工程をほぼ反射的に行い続けた。
砂漠の砂の色、感触、空の色、雲の数、自分の姿その細部、色、光、匂い、感情、自分で決めているのか、誰かがてきぱきと決めていくのを眺めているのか分からなかったが、決まったことは形になっていった。目覚めたのか、夢に落ちたのか、幸介が目を開くと荒い粒子の砂漠に横たわっていた。上体を起こそうとするが上手くできない。足が痺れているのだ。
何度か起きようと試し、その度に失敗するので不審に思い、うつ伏せの状態から転がって仰向けになってみた(これはできた)。
やってみて「ああ、そうだった」と思った。幸介の下半身は臍があったはずの位置より十センチほど上から藍色の鱗が生え、腰より下に足はなく、魚の尾鰭が死んだように横たわっていた。
死の匂い。尾鰭から続く乾いた鱗から濃く、そして、見間渡す限り荒い砂漠である世界のすべてから薄らと(しかし目に見えるようにしっかりと)、死の匂いはすべてから漂った。
(ああああああぁぁぁーー……!!)誰もいない空間で、人魚になった幸介は頭を抱えて声に出さずに叫んだ。
真実が見えてしまった。見たくなかった、見ようとしなかった、あまりに、酷い、真実が。
(あの二人……)痛みは吸い上げられるように出口を探し、無理矢理にこじ開けた口から逃れ始める。
(羊追い……? ふざけるな。やっぱり死神だったんだ)
痛みを怒り、そして憎悪に変換してやり過ごそうとする。
ところが、「違う」と誰かが言う。はっきりと、太陽のように消しようがない確かさで。
「彼らは『与えるもの』と言っていた。死神とは反対のものだ。そして、僕が逃げて見ずにきた生をこうして目の前に与えたのだ」
(だから、なんだ。こんな世界では「死」しか見えない。それが奴らが死神であることと何が違うんだ!)
「もともと、僕らには死しかなかったじゃないか。生から逃げていたのだから。彼らは生きるチャンスを僕らにくれたんだ。これが最後かもしれないチャンスを」
ああー、うるせえーー!!!
これは、空気を震わす本当の声だった。幸介の生の声。そして、こころの生の声でもあった。
猫を被った幸介が十数年振りに上げた産声のようなもの。
うるせえよ、うるせえーー。うるせえーー!!!
一度声を上げると、自分に溜まっていた澱を吐き出し切るまで幸介は叫び続けた。
もしかして、赤ちゃんもこうやって生まれるのだろうか。だから、無垢であるのだろうか。
幸介は叫び続けた果て、力尽きて倒れたまま空を仰いだ。動けない身体が、それなのに先程とはうって変わり生の感触に溢れていた。
そうだ、きっと、赤ちゃんはこうして生まれて、こうやって生きていくのだろう。悪いものをその都度排出しながら、無垢に。
いつから人はそう生きられなくなるのだろう。
いつから……。
幸介の瞼から涙が零れた。滲んだ景色を幸介はそのままにして空を眺め続けた。
白く雲は流れ、空は青い。ずっとそうであったはずなのに、どうしてまた思い出すのだろう。
砂漠を渡る風が、酷く懐かしい。
砂を踏む音が近づいてきて、見るとあの二人が傍らに立った。
「どうだろう、この世界であなたはどうしますか?」
ハットがこんなにも暑いなかに、先程と同じ厚いコートを着込んで涼しげに言葉を投げ掛ける。
「あなたは誰?」
幸介の口から勝手に言葉が出る。
「名乗る程でもないさ」
「いや、聞かせて」
ハットから覗く目を見返す。自分でも驚くほど強い言葉が出た。
「……君らのためにここにいるものさ。もしくは、誰かのためにここにいる。本来ここにいるものではないもの」
「見えないな」
「本当は僕も個人的な誰かのために生きているのさ。その人を救うために。だけど、ここに物語が交差したのさ」
幸介はすぼめた唇から溜息を短く吐く。
「違うよ。いや、分かった。だから、僕が君を何て呼ぶべきか教えて欲しいな」
今度はハットが溜息を平たく吐いた。
「お願いだから」畳み掛けてみる。
「僕は、ここに名を残すべきじゃないんだ。あなたが呼びたいように呼んでもらって構わない」
ここまでの会話で幸介は自分を恐ろしく幼く感じていた。まるで千年生きた物の怪と会話しているようだ。
「鼠のノノよ」
突然口を開いた華子穂の似姿がそう言う。
ノノと呼ばれたハットの鼠(幸介にはまだそうは見えない)は少し顔を強ばらせ彼女を見ると、すぐに視線を逆へと送り苛立たそうな表情をした。そしてやはり溜息を吐いた。
「いいじゃない、減るもんじゃなし」
「それでも」鼠は言う。
「それでも、僕はそう呼ばれたくない。なぜなら、あなたはそう呼ぶべきじゃないからだ。本格的に物語を錯綜させるべきじゃない」
観念した表情をし、鼠は「スピア」と言った。
「スピア?」
幸介は繰り返す。
「そう呼んでもらいたい」
不思議な気分だったが、こうして鼠のノノをスピアと呼ぶこととなった。
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