かこちゃんの話

けろけろ

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美咲と幸介

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 かこちゃんも来年には四歳になる。
美咲は読んでいた本を閉じて傍らに置く。
このまま夏にはならない。まるで夏を呼ぶような濃い雨の匂いを吸い込み考える。季節のように。と。
 一度梅雨が来る。このまま夏にはならない。
どんなことがあったとしても、(たとえ今まで味わったことのない絶望が来るとしても)私はかこちゃんを愛している。
 たとえだ。かこちゃんに母親の愛情を感じることができないとしても。
 「幼稚園」
美咲は呟く。
どう伝えるのが娘をできるだけ傷つけずに済むのか、自分の胸に娘を描いて考える。
傍目から見るとその姿は坐禅を組む僧のようだ。
そういう静けさで、美咲は華子穂を愛していた。

 美咲と出逢ったのは大学三年の時の保育実習のときだ。
 初めて見た美咲を幸介は、死人のようだと思った。
白い肌、時間が止まっているような静かな息づかい、動作を止めている時などは、綺麗な死体のようだった。「綺麗な」とは、「美しい」という意味でだ。
 しかし、内なる情熱たるや、底なしで、幸介は血が凍る思いを何度もした。
それは美咲が妻となった今でも変わらない。
 その日、仕事から帰ったときに、もう美咲から何か「死」のような雰囲気が漂っていた。
 美咲の情熱は、死を覚悟するように温度が低い。
 テーブルには里芋の煮物の挽き肉の餡掛けと茹でた枝豆、帆立のサラダが並んでいる。
美咲は不器用である。料理も本来下手なはずだ。
 その不器用を感じさせないほど、家庭に情熱を注ぐ。
まるで真理のように。
 幸介の疲れを癒すために、美咲は一緒に晩酌し、他愛のない話をする。
缶ビールをお猪口に少し注ぎ(二人ともお酒に強くないので)、枝豆を口に入れる。
幸介は、何か話したいのを先延ばしにして、自分の疲れを癒そうと振る舞う美咲の思いを汲んで、まずは精一杯自分を労る。
ふと、美咲が普段と変わらないと錯覚する。
それでも妻の話には華子穂が出てこない。
 これからしようとしているのは華子穂についての話か……。全く、器用なほど不器用なひとだ。
微かに紅く色づく妻の顔を眺め「愛おしい」と幸介は思う。
たとえ、その気持ちが妻には伝わらないとしても。
 幸福感をたっぷり感じてから幸介は「それでさ」と前置きした。
「何か話があるんでしょ」
美咲は虚をつかれたように目を見開く。そして「ごめんなさい、気を遣わせていたのね」と言う。
幸介は「とんでもない」と言う。高めの掠れた声。
「俺は充分癒させてもらったさ」
そう、働いている男にそこまでの余裕なんてない。
「この顔見てごらんよ。幸せそーな顔してるでしょ」
「そうね」目尻を下げて微笑む美咲。どうしてなのだろう。美咲は面と向かって笑うと死が漂う。幸介は少なからずその度にこころが傷つく。それだけは絶対に伝わらないように隠すのだけれど。
「あのね」そう言い置いて美咲は笑って言う。
「私、華子穂を幼稚園に通わせたい」
先ほどとは打って変わり、朝日のような笑顔。
しかし、幸介は動揺していた。
「幼稚園?
っていうと、発達支援センターとは別にってこと?」
有り得ない、自分の中で既に否定した。
「違うの。支援センターは辞めたいの」
どうしてこのひとは。幸介は血が青くなるような寒さに震える。どうして、地獄に好んで落ちようって時にばかり、こうやって綺麗に笑うのだろう。
「せっかく構築したアタッチメントのパーマネンスは?」
美咲の顔から笑顔が消える。
「ずっと言ってるでしょ。あの子は誰ともアタッチメントを築けてない。センターの家庭との連携体勢に問題があるのよ」
冷静な表情と声。
「あの子は傷つくことを知っていて、傷つきにセンターに行ってるわ。私にはもう耐えられない。自殺願望者みたいな娘を見るのは」
幸介は我が子を思い浮かべ、説得されかける。しかし、すぐに気持ちを持ち直す。
「でも、やっと落ち着いてきたところだろ。君にもゆっくりする時間ができた」
「私は」そう口にした妻は珍しく怒りを剥き出しにした。
「何も私の時間が欲しくて、愛する娘を家に独りにする訳じゃないわ!」
「そういうことじゃない」幸介は掌を挙げる。宥めるというより念力でも送っているように。
「誤解させたのならそれは謝るよ。本当にごめん。 
でも君は華子穂にも、君みたいに自分を追い詰めてばかりの人生を送ってほしいのかい?」
子は親(特に母親)の生き方をコピーする。怒りっぽい母親を見て育った子は怒りっぽくなるし、自分を追い詰める母親を見て育った子は自分を追い詰めて生きる。それしか生き方を知らないのだから。
しかし、これは殆ど幸介の方便だった。幸介が一番心配しているのは、妻だった。
 ここまで来るのに妻がどれどけ苦しんだか知っている。環境が変われば、華子穂は深く傷付くだろうし、それに共感した上で、それを取り除くため捧げられるだけの全てを捧げて尽くし奔走する妻はいのちを大変に削ってしまうだろう。
 「大丈夫よ」安らかな表情を浮かべる美咲。
「あの子は私とも愛着関係にないもの。私のようになるはずがないわ」
言葉が出なかった。事実だけを述べるその言葉には、欲求や願望は皆無だ。このひとはどこまで自己愛が欠落しているのだろう。
せめて。せめてだけでも、俺がこのひとのアタッチメントの対象になれればいいのに。
安全基地になってあげて、親しげに死が隣に座っているような価値観を変えてあげられればいいのに。
 どうすればそうなれるだろう。
 「ところで」妻が何も言わずにこちらを見ているのでそう言い置き、「あてはあるんだよね」と尋ねた。
「ええ。もりのなか幼稚園。あそこには真弓がいるわ」
真弓。幸介も何度か会ったことがある。
キャンプが趣味で一年中日に焼けている、精悍と呼べるような顔をした少女、それが真弓に持つ幸介のイメージだ。
美咲の一番の友人で婚約して急ぎ足で卒業、就職した幸介たち(それでも二人ともたっぷり四年保育士をした)と違い、大学院に進学し、障がい児の保育にかなり力を入れ勉強していたと聞いている。
それでも幸介は言った。「それはやめた方がいい」と。
「真弓さんのことを信頼してるのは分かる」
だけど、ぶつかって友情を失うことになる、とは言わなかった。卑屈な言葉で妻を責めているように響きそうだったのだ。
「そう言うでしょうね、あなたは」
くすっ。美咲は確かに無邪気に笑った。
「全て覚悟してるのよ」
そう放った妻の顔からは「あなたは私を信じないでしょうけど」という声が聞こえてくるようだった。
だから幸介は言った。
「君はいつも正しい。だけど、それだけじゃ足りない」
幸介はソファに塔のように凛と立つ妻の手を取って、掌で包む。
「幼稚園、勿論構わないさ。華子穂の自立した将来のためなら、俺だって何だってする」
こんな夫らしいことしたのはいつ以来だろう。働くだけでそれを果たしていると思い込んでいた自分が恥ずかしい。
幸介は妻を見つめ懇願した。
「俺たちは家族だよ。君と華子穂、二人の苦しみを俺にも分けてくれ」
「一家団欒地獄廻りの旅」なんて言葉がぴったりだったが、口に出せるはずもない。
 美咲は驚いた顔で「ありがとう」と言った。ときめいた目をして、でもそれはすぐに生死の際を見定めようとするような張り詰めた視線に曇った。
 廊下を挟んだ子ども部屋には、華子穂が眠りながら慢性的な恐怖感を発散しようと布団に齧りついている。
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