かこちゃんの話

けろけろ

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それぞれの杞憂、願い、交感、オプティミズム

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 五月。どんなに太陽が煌々と輝いても、夏には敵わない。気温が夏ほど上がってもだ。
五月の気象には優しさがあるのだ。
美咲は年季の入ったシルバーのムーヴの窓を運転手席と助手席側だけ全開にして信号の変わるのを待つ。
風がなく、信号を待つ僅かな時間にもぷつぷつと汗をかく。
 後部座席に設けたチャイルドシートに座り、華子穂は歯ぎしりをしている。
華子穂は街中が嫌いなのだ。ひとと、ひとが作った全てのものが嫌いなのだ。
なのに支援センターは街中にある。美咲は苛立ちを覚える。
もちろん、そんなこと無為だと分かっているけど。

 このイスはきらいだ。
華子穂は粟立つ皮膚を掻き毟りたい思いに駆られる。
どうせなら、ずっとお母さんの膝の上に乗せてくれればいいのに。
そうすれば、こころの雷雲はお母さんに吸い取られて、いつも安心していられるのに。
 お母さんは言葉が足りないと華子穂は思う。
どうしてこのイスに座るのか、どうして保育園に行くのか、ニンゲンは何でこんなに怖い目をするのか。
一つも教えてくれない。
 怖くて、イヤで「お母さん、お母さん」って泣いたって、何もない。すぐいなくなる。
 どうせなら、起きてから寝るまで、ずっとお母さんが抱っこしててくれればいいのに。
 かこのして欲しいことは、何一つしてくれない。
だったら、いっそお母さんなんていらなかった。

 この世界はやわな気球だ。
すべてはいつ破けて落ちるか分からないバルーンで、そんな中で早期教育など親の道楽に過ぎない。
大橋・ストリープ・真弓はそう考える。
 幼児教育で最も重視されなくてはいけないこと。それは、「絶望しない鋼鉄の芯をこころに持つこと」だと真弓は知っている。それを幼稚園教育要領では「生きる意欲」と呼んでいるのだと、真弓はそう捉えている。
 開け放った戸の外から我が子に英語やらバレエを習わせているという保護者の話が聞こえてきて、保育室で日誌をまとめる真弓のモデルのような整った顔、その眉間に深く皺が寄る。
 保育の敵は、親である。こんな言葉が浮き上がる。いや、保育の最大の課題は親の教育である。こっちの方が口に出してリベートしやすい。そう思い真弓は早く討論したくて唇を緩ませる。散々に戦い尽くし、語り尽くしたテーマであっても。
 「真弓先生」
同僚の若い保育士が部屋へ顔を出して呼ぶ。
「はい」真弓はペンを止めて答える。
「園長先生が呼んでますよ」
園長室で、と顔を引っ込めながら付け足す。
「ありがとうございます!」恐らく足速に自分の担当するクラスへ帰っていく同僚へ聞こえるように、椅子から少し立ち上がり声を上げる。私って五月蝿い奴だな。真弓は思う。
 日誌に一区切りをつけると、真弓は園長室へと向かった。
恐らくかこちゃんのことだろう。
 三度戸を叩き、「失礼致します、大橋です」と声を掛ける。
中から「どうぞ」とチェロのような上品な音が聴こえ、真弓は中に入る。
園長先生は自分の椅子に座ったまま「どうぞお掛けになって」と机の前の椅子を手で示す。
「ありがとうございます」真弓はテキパキと腰をかけ、すぐに「それで御用というのは?」と申し伺う。
「ええ、この間お話した、かこちゃんのことでね。一度、遊びにお誘いしてはどうかしら」
これは願ってもないことだった。
「ええ、私もそう考えていたところで、いつお話しようかと」
日だまりに包まれた部屋で、真弓はふと森のなかでお地蔵さまにでも独り言を言っている気持ちになる。
園長先生と話しているとよくそう錯覚する。
真弓はこれは園長先生のこころが見えているのだと考えている。こころとは、こんなふうに見えるものなのだ。
「日案はもう立ててあるんです。かこちゃんには何度か会ったことがありますし、美咲さんにもアセスメントを取っているので、初めは外で自由遊びができれば十分だと考えています。」
「そうね」園長先生は吸い込むように答える。
「あなたに任せるわ。分からないことがあったら訊いてちょうだいね」
「はい!ありがとうございます」
そう言い立ち上がろうとすると、「それとね」と呼び止められた。「はい?」生返事で答え、半分上がった腰を椅子に戻す。
「来年度、こども園に変わるのにあたって、保育研究発表をすることになったの。真弓先生、ウチの代表として来年度の保育を発表してもらえないかしら?」
「私でいいんですか?」
「いいえ」細い声。微風みたいで心地好い声。
「あなた『で』、じゃなくて、あなた『に』やってもらいたいの。お願いできる?」
真弓は本当のところ、園長先生の言っていることは分からなかった。しかし、静かな情熱が伝わってきた。
 かこちゃんのことと関係があるのだろうか。真弓は考える。だとしたら、かこちゃんにも私を信頼する美咲にも悪い。それに園長先生を尊敬している。目の前のお地蔵さまみたいな園長先生が保育研究に「かこちゃん」を利用しようとしているなんて思いたくない。
 後ろめたさから黙る。
 「年を取るとね」園長先生が不意にそう口にする。
「頭よりも、遥かに。体のほうが賢くなるの」
またしても何を言おうとしているのか分からない。
「体が、ですか?」
「ええ。もう、「なぜ」とか「どうして」というものが届かないほど賢くてね。真弓先生もなぜか、天気を当てられるでしょ?」
「ええ、そうですね」真弓の特技、というか特殊な能力として、五時間以内の天気を正確に当てることができた。しかし、それは幼い頃からのキャンプの経験の積み重ねが体に染み付いているからこそのことだ。
「つまり経験則ってことですか?」
「ええ。そうね」丸い老眼鏡の奥で園長先生は目を細める。
「私はもう考えなくていいの。提案するだけ。どうするの、って。
ピアノを考えながら弾く人はいないでしょ?楽譜を見れば指が動いてくれる。あとは委ねるかどうか。
動物はみんなそれが分かってるわ。初めて生やした翅で蝉は飛ぶわ。
そんなふうにね」
「それで……、『真弓先生に任せよう』って言ってるんですね、園長先生の……」
真弓はそこまで言い、言葉に詰まる。それは「体が」なのだろうか、「経験が」なのだろうか、それとも「たましい」とか「いのち」が?
「これはね」そうしていると園長先生が遮って話し始める。
「もう、『私が』なんてものではないの。もはや『宇宙が』、そうするべきだと言っているのよ」
 真弓は、真弓の頭は何か言おうとする。しかし、そのどれもがこの空気を穢すと思い、口に出せない。
あまりに神聖で、あまりに高く、あまりに深い。
 対等でない。真弓は気づいた。だから何も言えないのだ。私はこの場を穢すことしかできない。
 真弓は保育室へ戻り、日誌の続きに手をつけようとペンを握る。
宇宙が、そうするべきだと言っているのよ。園長先生の言葉が思い出される。
宇宙が……。
 (ねえ)真弓は自分に語りかける。(宇宙って、こんな小さなことを気にするものなの?
それとも、宇宙だからこそ、あらゆることが気にかかるものなの?)
突然、「宇宙」などと言われて、世界の命運を任されたような気分になる。
(私に務まるの?)
ペンが進まない。
 そこでこう考えた。
宇宙が私を選んだのなら、きっとなんとかなるのだ、と。慣性の法則みたいに。
ずっと転がってきて、これからも転がっていく。
そういうふうに選ばれたんだ、と。
 そう考えると妙に腑に落ち、真弓は園長室へ行く前と同じく日誌を書き始めた。
 何というオプティミズムだ。真弓は思う。
でも、そんな私が選ばれた。
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